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オーソン・ウェルズ監督 『偉大なるアンバーソン家の人々』 : 描き変えられた「自画像」

映画評:オーソン・ウェルズ監督『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942年・アメリカ映画)

あの映画史的名作『市民ケーン』に次ぐ、オーソン・ウェルズの監督第2作目だが、なにかとうまくいかなかった作品のようだ。

「Wikipedia」によれば、制作費が「約1,125,000ドル」なのに対し、興行収益が「約820,000ドル」ということで、大赤字。しかしながら、この責任が誰にあるかは微妙なところなのである。

先日読んだ、アンドレ・バザン『映画とは何か』の、岩波文庫版「訳者解説」によれば、

『 ところで、バザンがその創刊にかかわり、死の直前まで編集長を務めた「カイエ・デュ・シネマ」といえば、「作家主義」によって知られる。伝統的フランス映画の「凡庸さ」を徹底的にこきおろす一方、ウェルズヒッチコックジャン・ルノワールといった監督たちを無条件で賛美し、たとえ彼らが失敗作を撮ってもそこに「作家」の個性を見て取れるかぎり、凡庸な優良作よりはるかに刺激的だと考える。その先駆けとなったのは一九四六年十一月、バザンがウェルズの第二作『偉大なるアンバーソン家の人々』について「レクラン・フランセ」に寄稿した記事である。バザンは「オーソン・ウェルズは、間違いなく、作家の名に値する世界の映画作家の一人だ」と書いて、不評の作品を弁護した』(下巻P277)

とあるのだから、少なくともフランスでは、ハッキリと評判は良くなかったようだ。
しかしまたそれは、デビュー作のインパクトが凄すぎて、多くの人が同じようなレベルのものを期待し、にもかかわらず、その2作目が期待はずれに「当たり前の映画」だった、ということから来る、言わば反動的な酷評だったのかも知れない。
なにしろ、フランソワ・トリュフォーも「まるで『市民ケーン』を毛嫌いした別の映画作家が謙虚さの規範を示してみせたような作品」(wiki)という趣旨のことを語ったそうだから、「こういうのを求めたんじゃない!」と怒った評論家も少なからずいたのであろう。「若造め、もう守りに入ったか? こんな、ありきたりなハッピーエンドなど撮りおって」と思った人もいるのかも知れない。

(左の階段にジョージとルーシー、右で踊っているのはユージンとイザベル)

だが本作は、19世紀末アメリカ西部の小さな町で栄華を誇った富豪一族の没落を、20世紀の到来による時代の変化と重ねながら、不遜な性格の嫡男ジョージ・アンバーソンの半生を中心に描いた作品なので、ウェルズによるオリジナル版は、もともとは「131分」の長尺であった。ところが、そのままでは「ウケないし、興行的にも不利」と判断した、

『製作会社のRKOが尺を短くしただけでなく、(※ 本作編集の)ロバート・ワイズに命じて再編集もし、ラストは助監督が新たに撮り直している。このため、悲劇的な結末だったウェルズの構想とは逆に、原作通りのハッピーエンドとなった。ウェルズは最終的な編集の権利をRKOに任せていたものの、ブラジルへ『It's All True』の撮影のため出張中に、彼の意向を無視して大幅に改変されたことに激怒した。』

(Wikipedia「偉大なるアンバーソン家の人々」

というような経緯を経て公開された作品だったのだ。
だから、フランスで公開されたのも、当然この「改竄短縮版」だったので、それが「物足りない」作品だったとしても、すべての責任をウェルズに帰すことは不当なのである。

実際、この「改竄短縮版」であっても、多くの人が指摘するように、才気走った『市民ケーン』の比べると、長回しを多用した見ていて「目に優しい」流麗な映像が特徴の、普通に楽しい作品には仕上がっている。

(左から、父ユージン、娘ルーシー、そしてジョージ・アンバーソン

それに「地方の富豪一家の没落を、時代の変化に重ねて描く」作品なのだから、ある程度の尺が必要となるのは道理であり、それを約三分の一も切ってしまっては、お話に無理が生じるのも理の当然で、特に後半は、駆け足かつ時に飛躍的で、説明不足の感が否めないものになってしまっている。

また、改竄によって付け加えられた「ハッピーエンド」は、いかにも無難なものであり、特に悪いとまでは思わないが、平凡ではあり面白くもない。
ただし、あまり指摘されていないことだと思うのだが、私が特に問題だと思うのは、ジョセフ・コットン演ずるところのユージンの最後のセリフが、いまいち「意味不明」な点だ。

破産して落ちぶれて、それでもなんとか弁護士をやっていた、元生意気小僧のジョージ・アンバーソンが、当座の金欲しさに弁護士の職を辞して危険な仕事に就いてまで、額に汗して頑張っていたのに、まさに泣きっ面に蜂。自動車に撥ねられ、大怪我をして入院してしまう。
一方、自動車製造で財をなしていたユージン父娘はそれを新聞で知り、長らく会っていなかったジョージの見舞いに行くことにする。
場面変わって、ユージンがジョージの病室から出てくると、そこへジョージの叔母のファニーが駆け寄り「ジョージは大丈夫なの?」の訊ねると、ユージンはニッコリ笑って「大丈夫だ」と答えた後、

「ルーシーの顔を見た時の、あいつの顔…。
最初になんて言ったと思う?

“きっと、母が呼んだんだ”
“僕を許して欲しい”
握手をした。
イザベルにそっくりだったんだね。

あのねファニー、君だから言うが、部屋には彼女がいたんだ。息子をけなげに守る母親が…。
愛する人にやっと一一、思いが通じた。」

IVC版DVDの翻訳字幕による)

と、こんなふうに語り、ファニー叔母の、感動の涙の跡が残る笑顔で、本作は幕を閉じるのである。

で、この、ファニーの反応を見ながら、間をとって語られる、ユージンのセリフは、全体として「良い話」っぽくはあるものの、いささかボンヤリとした印象が否めず、全編の締めの言葉としては、いささか中身の薄いものなのではないだろうか。

特にそれを象徴するのが、『愛する人にやっと一一、思いが通じた。』という最後の部分。
いちおうは「ジョージの思いが、ついにルーシーに届き、二人は結ばれるだろう」という意味なのだろうが、しかし、この物語は、もともとユージンとイザベルの結ばれそこねた悲恋のお話だったのだから、愛した人の息子と自分の娘が結ばれたことだけで「思いが通じた」ってのも、ちょっとこじつけめいていて、呑み込みにくいところがある。
また、ファニー叔母のユージンへの片想いは最後まで通じないままなのだが、それをファニー叔母が「これで良かった」という感じの笑顔で、なんとなく一件落着的に受け入れた様子なのも、ちょっと無理くり感が無いでもない。

結局のところこれは、無理に「ハッピーエンド」をつけたせいで、なんとなく「良かった良かった」という雰囲気には出来たものの、完全にはつじつまを合わせきれず、「ゆるいラスト」になってしまった、ということなのではないだろうか。

もちろん、ウェルズのオリジナル版の「バットエンド」、つまり「ジョージは、ルーシーと結ばれることもなく、落ちぶれたりまま最後は事故死しました」みたいな嫌なラストだったら、後味が悪く一般ウケはしなかっただろう。だが、悲劇映画としては、「失われし古き良き時代を悼む、悠揚せまらざる悲劇大作」として、それなりに評論家ウケする、貫禄のある作品にはなっていたかも知れない。
そしてそう考えれば、やはりこの「改竄短縮版」を、オーソン・ウェルズの作品として無条件に評価するのは、少々無理があると考えざるを得ないのである。

(若き日のユージンとイザベラ)
(ジョージの強硬な反対のせいで、ユージンとイザベラの再婚はならず、イザベラが病みついてからも、イザベラには会わせてもらえなかった。左のファニーも、イザベラへの嫉妬を抱えていた)

もちろん本作に限らず、契約上の都合などで「勝手にカットされた」みたいな話は、よく耳にする話だとは言え、やはり、評価に困る作品に「されてしまった」というのは、否定できない事実であり、その点では、興行的な失敗の責任も、むしろウェルズ一人に押しつけることはできなくしてしまった、とも言えるのではないだろうか。

ちなみ本作は、オーソン・ウェルズ晩年の対談本『オーソンとランチを一緒に』の翻訳者、赤塚成人によると、

『原作自体がウェルズの両親をモデルにしたものであり、生意気なティム・ホルトの役(※ ジョージ)は、若い頃の自身の似姿です。』

『キネマ旬報』2023年4月上旬号)

とのことだから、『市民ケーン』もそうであったように、オーソン・ウェルズというのは、自身の「クセのある性格」を、そうと自覚しながら投影した主人公の没落する姿を、わざわざ描きたがった人であり、事実その通りに生きた人だと、そんなふうに言えるのではないだろうか。

つまり、無自覚に「性格のままに好き放題をやって、終生苦労を背負い込み続けた人」なのではなく、若い頃から「俺はこういう性格だから、きっと最後は総スカンを食らって落ちぶれるだろうな」と、そう自覚しながらも、そんな自分らしさから目を逸らすのではなく、むしろ、そんな自分を最後まで貫くために、その覚悟を固めるための道具として、自分を投影した主人公をわざわざ描き、その没落の生涯を自身の運命として受け入れることで、覚悟を固めた人だったのではないか。

(イザベラ、ジョージの母息子。自分のしたいことしかしないという主義のわがままなジョージであったが、母親だけには素直な、いささかマザコン気味の青年だった)

要は、「俺は、自分を貫いた結果としてなら、あんなふうに落ちぶれたってかまわない。俺が絶対になりたくないのは、世間並みに妥協して、無難に小さく生きていく人生だ。そんなことをしたら、俺は人生の最後で、きっと後悔するだろう」と、そんなふうに思っていたのではないだろうか。

つまり、オーソン・ウェルズは、「わがままを通して、落ちぶれていく人物」を描きながら、ある意味では「自分の理想の人生」を描いて、自身を叱咤していたのかも知れないと、私には、そんなふうに思えるのだ。

だからこそ、やりたい放題だったエリッヒ・フォン・シュトロハイムに続いて、ウェルズにも、「わが友、オーソン・ウェルズ!」と、そう呼びかけずにはいられないのである。



(2024年7月13日)

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