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AIは 電気羊の夢を見るか? : チャットGPT、画像生成AI などをめぐる諸問題

昨夜(2023年6月11日)、夕食の際にテレビをつけると、NHKで「AI問題」をめぐる番組をやっていたので、途中からだったが最後までは視た。
『ニュースなるほどゼミ AI社会到来 私たちの未来は?』という、ニュース解説員などによる討論番組である。

私がテレビをつけた時、その番組では「フェイク画像」の問題が語られており、それに続いてデータベースとして使用される画像の「著作権問題」が語られた。
もともと、中学で美術部、高校で漫画部員だったから、このあたりについては、とても興味があった。私が、こうした、文書や画像の生成AIに興味も持ったのも、元は画像の方からだったのだ。

一時期、よく覗いていた「pixiv」も、パソコンを買い替え、新たに有料で「Photoshop」を入手しないと、せっかく作った画像データが開けないというのがわかって、すっかりお絵描きに対して冷めてしまった。それでなくても、残された時間は限られているのだから、趣味のひとつだったお絵描きの時間を、すべて読書の方に振り向けようと割り切ってからは、おのずと「pixiv」も覗かなくなっていたのである。

ところが、ひさしぶりに「pixiv」を覗いてみると、「AI生成画像」が氾濫していたので驚いた。それに、何がすごいと言って、作品の「完成度」が半端ではないのだ。

ほぼ同時期に話題に登った、そして今も話題の中心である「チャットGPT」については、「こんなもんには負けない。俺には、唯一無二の個性がある」という自信があったのだが、AI生成画像の方は、私になど手も足も出ないレベルのものだったのである。

そして、たぶんこれは、「絵」の場合だと、私は「個性(作家性)」もさることながら、まずは「洗練されいて、技術的にも高度なもの」を求める傾向があったからであろう。そういう側面においては、デッサン力すら十分ではないと自覚している私だったから、AIにはぜんぜん敵わないと、あっさり兜を脱いだのである。

しかしながら、「チャットGPT、画像生成AI」関係について最初に書いた、上の私の文章「チャットGPT、AIイラストジェネレーターの「近未来」:AI時代の作家性」で、

『例えば、これも最近テレビなどでも話題になっている「AIイラストジェネレーター(生成機)」というのがある。
簡単に言うと、キーワードをいくつか入力するだけで、ネット上に氾濫する無限の画像データを適当に組み合わせて、それらしい(オリジナルの)絵を作ってくれるという、ソフトである。

これは、言ってみれば、昔の「コラージュ」の進化系だと言っても良いだろう。「(与えられた)テーマ」に合わせて「素材」を集めてきて、それを切り貼りすることで、新しい作品を作るのだ。

ただし、今の「AIイラストジェネレーター(生成機)」の場合は、素材を「切り貼りする」のではなく「(素材を要素に還元した上で、必要な情報を抽出し)融合させる」から、「継ぎ目」というものがないし、「素材」そのままの「部分」が残るということもない。

そのため、いちおう「オリジナル」ということになるのだが、これはかつて「コラージュ作品」において「著作権」問題が惹起され、有罪判決も下されたこともあるとおりで、「素材として、自作を無断使用された、原・作者」には、黙って見過ごせない問題となるのは間違いない。
複雑に作り込まれた「AIイラスト」だと、素材の特定が難しいとは言っても、所詮、生成する作品の「テーマ」を決めるのは人間だから、「好み」による「選択」が働いており、その作品を見れば「だいたいどのあたりから素材を引っ張ってきたのか」の見当はつくからである。

そしてこうなると、「素材として、自作を無断使用された、原・作者」が「AIイラストの作者」を告訴した場合、そのイラスト作者は「どのような素材を使用したのか」と裁判で問われるだろうし、素材データの提出を求められることになり、その結果次第で、「無断盗用」の有罪無罪が決まるようにもなって、その果てには、「AIイラスト」を発表する場合は、その段階で「使用素材を明示する」といった、面倒で興ざめな条件が、法的に課せられるようになるかも知れないのである。』

と、このように指摘したことについて、すでに政府での検討が始まっているという最近のニュースには、ちょっと驚かされた。

上のエッセイを「チャットGPT、AIイラストジェネレーターの「近未来」」と題したとおりで、私は「近い将来には、そうならざるを得ないだろう」とは思っていたのだが、まさかそれが、半年も待たずに政治案件にまでなるとは思っていなかったからである。

前記の解説番組での指摘で面白かったのは、「どんなに個性的な作品を作るクリエーターでも、そうしたものを生み出せるようになるまでには、多くの他人の作品を鑑賞して、それを意識的にあるいは無意識的に学習して、そこから個性を生み出していった」のだという事実である。

たしかに、そう考えるならば、AIがネット上の存在する無限のデータから学習するというのは、人間の場合と大差はないと言えるし、時に「似たものを作ってしまう」というのも、人間にだってよくあることで、先行作品や作家の影響は避けられないものなのである。

しかし、その一方、これまでの「人間」における先行作品の「取り込み=学習」に当たっては、例えば、本を買うとか、「著作権」に伴う「印税」料の含まれた関連商品を購入するなどということがあって、「原・著作者」に一定の報酬が支払われる仕組みができていた。

ところが、インターネットの発展によって、言うなれば「無料で鑑賞できる・無料でデータを入手できる」という環境が拡大してしまった。

これについては、すでに随時「著作権の保護」が進められているのだけれど、こうして守られる「著作物」とは、「完成した作品」そのものであって、それをデータとして利用し、その結果として生み出された「新作」にまでは対応できないという、新たな問題が浮上してきた。

わかりやすく言うならば、ある漫画家の絵柄に影響を受けた漫画家の作品の「利潤」に対して、影響を与えた漫画家が「一定の著作物利用料」を求めるようなものである。

だが、問題はそれに止まらない。なぜなら、こうした問題は、「ストーリー」や「アイデア」にまで広がる可能性があるからだ。

今のところ「アイデア」そのものには、「著作権」が認められていない。
例えば、私の知るところでは、ミステリ作家・島田荘司のデビュー作にして最大の傑作である『占星術殺人事件』のメイントリックは、そのオリジナリティにおいて前代未聞のものであったが、このトリックが、そのまま、漫画作品である『金田一少年の事件簿』(天樹征丸・金成陽三郎)に使用されて、物議を醸したことがあった

私はこの漫画を初めて目にした時「これはひどい!『占星術殺人事件』の、まんまパクリではないか」と、ミステリファンとして腹を立てた記憶がある。
そしてこれは、「トリックの原・作者」である島田荘司自身も無視できないものとして、漫画の作者らに苦情を申し入れる騒動にまで発展した。

裁判になったかどうかまでは記憶していないが、結果としては、日本の著作権法では「アイデア」自体は保護の対象になっていないから、トリックの盗用自体は、倫理的な問題にはなっても、「著作権」の侵害には当たらない、というところに落ち着いて、『金田一少年の事件簿』に関しては、島田荘司に詫びを入れ、相応の「謝礼」みたいなものを渡し、作品に「島田荘司先生に捧ぐ」みたいな文言を入れることで「手打ちになった」はずである。
(例えば、ドゥーセあるいはクリスティの作品で登場した「叙述トリック」という先例アイデアに、著作権が認められると、綾辻行人折原一といった後発のミステリ作家は、大変やりにくくなってしまうだろうし、日本では、そんな叙述トリックが、今も大人気なのだ)

こうした場合と同じで、現在の著作権法では、「アイデア」そのものは保護されておらず、その二次創作物が、量的にどの程度まで「そのまま流用しているか」という問題になっているようだ。
つまり、「引用」だけで成り立っているような作品は「著作権の侵害」になるのだけれども、『金田一少年の事件簿』の場合のように、「登場人物」や「シチュエーション」を変えて、その中に「トリック」だけを埋め込んでしまえば、著作権の侵害には当たらない、ということになってしまう。

だとすれば、先のレビューで『ただし、今の「AIイラストジェネレーター(生成機)」の場合は、素材を「切り貼りする」のではなく「(素材を要素に還元した上で、必要な情報を抽出し)融合させる」から、「継ぎ目」というものがないし、「素材」そのままの「部分」が残るということもない。』と書いたとおりで、(著作権法を改訂しないかぎり)「画像生成AI」による生成画像は、いかに似ていようとも「著作権侵害」にはならない公算が高いし、これは「チャットGPT」による文章などでも同じことであろう。いかにアイデアをパクっておろうと、文章自体は新たに生成されているから、その文章は「著作権侵害」にはならないのである。

しかし、これでは、作家たちの「新しいものを生み出したい」というモチベーションの低下は免れ得ず、結局は、似たようなものばかりが再生産されるということになってしまうのではないだろうか。

(『金田一少年の事件簿』・「異人館村殺人事件」より)

実際、「pixiv」などの「AI生成画像」を見ていても、数ヶ月前は、その作品の完成度の高さに驚いたのだけれども、すでに今では、そうした点では驚かなくなってしまった。馴れてしまったのである。

そして、そういう目で作品を見るようになってからは「どれもこれも似たようなものばかりだ」という印象が強くなった。
つまり、「よく描けている(出来ている)」というのは、もはや前提条件であり、すでに今の段階で私が求めるようになったのは、そこから「頭ひとつ抜け出すセンス」なのだ。

無論、そうしたセンスもまたデータベース化されるのではあるけれど、しかし、そもそも、画像や文章の作り手の方に「その違い」がわかるだけの「センス」が無ければ、真似をすることが「可能」であっても、実際には真似のしようがない、ということになるだろう。

そうすると、「創作物」というのは、どういうものになっていくのであろうか?

全体としては「誰もがわかる、よく出来た作品」が大量生産されて大量消費されるその一方、磨き上げられたセンスを持つ人だけにしか「その違い」がわからないような「少数作品」が、そのごく一部の「センスのある人たち」の間でだけ出回り、楽しまれることになるだろう。

無論、この場合、こうした作品は、あらかじめ「鉄壁のデータ防衛」が施された上で、完全に限られた相手に、限られた形で頒布されることになるだろうから、そうした「突き抜けたセンス」というのは、もはや世の中に還元されることはなくなってしまう。

だとすれば、世間一般はますます「安かろう美味かろう」の世界に限定されて、「美的センス」は貧困化一途をたどるしかないのでははないか。

また、「特別なもの」というのは、ごく限られた「美的エリート」の世界で独占的に消費されるわけだから、これは「文化的価値においても、(貴族文化と平民文化的に)二極分化が進む(平民世界では選択肢が無くなる)」ということになるのではないだろうか。

ただでさえ「経済的な二極化」が進んでいるというのに、それに加えて「文化的な二極化」進むとしたら、もはや私たちは「同じ人間」であるという意識すら薄れ、ほとんど無くなってしまうのかもしれない。「知的な人間と野蛮な猿人」への、認識上での二分化である

これは、十分にありえる「ディストピア的未来図」だと思うのだが、私たちは、こうした問題にどう立ち向かえばいいのだろうか?

一つだけ言えることは、こうした問題を、政治家だけに任せていてはダメだ、ということである。
なぜなら、少なくとも、この日本においては、政治家の多くは、建前は別にして本音では、「エリート」の利益を追求する存在だからである。なにしろ、彼ら自身はエリートなのだ。

つまり、「チャットGPT、画像生成AIなどをめぐる諸問題」とは、すでに「著作権」レベルの問題ではなく、「文化的搾取」の問題さえ超えて、「人権」そのものの問題だと、そう考えて、きびしく対処すべきものになりつつあるのである。

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さて、話は変わって、ごく最近のことなのだが、「note」を閲覧していて、アイコンに、AI生成した「リアルな美少女の画像」を使っている人を見かけた。AI画像に詳しくない人なら、きっと「実物」だと思うだろう。

アイコンに、アニメの美少女キャラや美人タレントの写真を使う人は珍しくないが、これらの場合は、アイコンが本人のものではないというのが、すぐにわかる。
しかしまた、そうとわかってはいても、見る人が、どうしてもそのアイコンのイメージに引きづられてしまうからこそ、そうした画像が使われもするのだろう。

で、そのAI生成したリアルな美少女画像をアイコンに使っていた人は、ヘッダの画像もそれらしく可愛いものであり、記事の内容も若い女性を思わせるものだったのだが、かえって私は、そうしたことに「うさんくさいな」という印象を持ってしまった。だが、その一方で「こういうのに、引っかかってしまう人も、多くはなくても、確実にいるのだろうな」とも思ったのである。

なぜ、私が、そのアイコンを「AI生成画像」だと判断したのかというと、今のところ、画像生成AIで生成された「リアルな美女」というのは、おおむね顔貌が類型的であり、その表情もおおよそ類型的なもので、整ってはいるものの、個性には欠けるからである(そうでないものは、たぶん、かなり直接的な、そのまんまの「引用」がなされているものなのだろう)。
また、実際のところ「こんな美少女が実在したら、すでにタレントとして有名になっているはずだ」という状況判断も加味されている。

こんな類型的かつ整いすぎた美少女が、街中を何人も歩いていたら、それは不気味な光景であろうというのが、人間の健全な、動物的直感というものなのではないだろうか。

(これは「zato1」氏による、AI生成画像)


(※ なお、当記事のトップ画像は、「墨迹」氏の作品である)

(2023年6月12日)

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