近藤ようこ ・ 夏目漱石 『夢十夜』 : 〈夢の文法〉を描く技法
書評:(漫画)近藤ようこ、(原作)夏目漱石 『夢十夜』(岩波書店)
「夢物語」という言葉がある。現実にはあり得ないと思えるような話、非現実的な話を指す言葉だ。しかし、私たちが見る夢の中で、私たちは決して、その夢に見ている状況を「現実にはあり得ない」とは思えないし、非現実的だとも思えない。夢の中で私たちは、その状況を現実として感じ受け入れており、覚醒寸前の例外的な瞬間を除けば、私たちはそれを疑うことが決してできないのだ。
それはたぶん、夢の中においては、「見ている状況」がそのまま「私たちの意識」だからであろう。覚醒時に見ている「現実の状況」とは、「私の主観的な意識」の外部にあって、私の意識と一体的なものではない。だから、現実の状況は、私の思いや期待に関わりなく進行する。ところが、夢の中の状況は、私の意識の反映であり、それが順接的なものであれ逆説的なものであれ、すべて私の中から出てきたものである。
しかしまた、夢を見ている時の私たちの頭脳は、理性を司る新皮質的の機能が低下しており(低速回転状態にあって)、そのために、理性によって抑制され隠蔽されていた本能的な部分や、無意識化されていた記憶などが、理性の桎梏を逃れて表面化し、さらにそれが、中途半端に働いている理性による分節化と編集によって、「夢の物語」を構成する。
したがって、「夢の物語」を、この現実の世界において再現するのは、容易なことではない。単に「あり得ない話」や「非合理な物語」を書いたところで、それは「夢の再現」としての「夢の物語」にはなりえない。
「夢」とは、ある意味で極めて「合理的」であり「現実的」なのだが、その「合理性」や「現実性」は、「夢の文法(論理)」において、「合理的」であり「現実的」なのだ。だから、そこを理解して押さえられないような作者による「夢の物語」は、単なる「夢物語」に堕してしまう。
漱石の『夢十夜』は、言わずと知れた名作であり、さらに言えば、日本の幻想文学史における金字塔であり、「夢文学」としては、弟子であった内田百閒の『冥途』と双璧をなす、いまだに越えるもののない巨峰だといえるだろう。
その漫画化なのである。当然、容易なことではないのだが、近藤ようこは、その困難な作業を、高い水準でクリアしている。
無論「これは、漱石の夢十夜ではない」と言う人もいるだろうが、「絵」に描かれれば、それが別作品になるのは当然で、仮に漱石に絵が描けたとしても、文章で書かれた『夢十夜』とは別物になったであろうことは疑いようもない。
近藤の絵を見ても明らかなのは、見えている夢の情景の背景は、多くの場合、真っ白であったり真っ黒であったりして、あまり細々と描き込まれることはない。
なぜなら、夢の中では、意識されているもの意外は、そこに存在しないからだ。しかし、かと言って、夢がディテールを欠いた「ぼんやり」したものかと言えば、無論そんなことはない。むしろ夢の細部は、現実よりも精密であり、欠けたところがない。なぜなら、夢の中で意識が細部に向いた時、世界はその細部がすべてであり、現実のように「空間」や「空気」や「視力」がそこに介在することはないからだ。
その一方、夢の風景が、どこか「ぼんやり」とした印象を残すのは、それは夢を見ている人の意識が、その風景にはっきりと向けられていない時、ただ何となく「風景がある」という意識を「ぼんやり」と持っているだけだからである。
このように「夢の物語」というものは、取捨選択されたイメージのつらなりなのだ。だから「無駄」が無い。
意識のあるところに、風景が人が言葉が表れて、夢の文法によって、けっして破綻することなく、蜿蜒とつながっていく。これが「夢」である。
「夢」が、どこか不安であるのは、私たちが日頃、抑圧し意識から隠蔽している「記憶」の表出を、予感するからである。「あれが出てくるのではないか」という脅えがそこにある。しかし、「あれ」に脅える私にも、「あれ」が何であるのかがよくわからない。だから、怖い。
しかしまた、「夢」は、私たちを「理性」と「現実」の桎梏から、救い出してくれもする。だから、それへの憧れも否定しがたく存在し、だから私たちは「夢の物語」に魅了される。
それは「第七夜」の、豪華客船の舷側から、夜の海へ飛び降りた男の思いにも似ていよう。
私たちは、現実というこの何処へ向かうのとも定かでない巨大な舟に運ばれていくという受動的な人生の最中に、ふと「死」に憧れる。この舟から、飛び降りてしまいたいと思う。しかし、それは容易なことではない。
しかしながら、「夢」とは、そうした「現実の生」と「死」の間に横たわる空間だとも言えるだろう。私たちは、現実の死をむかえるまでの生の過程で、この「夢」という中間地帯を通して「過去と未来という、二つの夢」に、その「遠い呼び声」に接しつづけるのである。
初出:2020年1月22日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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