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夏目漱石 『倫敦塔 ・ 幻影の盾』 : 「文体の伝染」

書評:夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』(新潮文庫・岩波文庫)

漱石を読むのはひさしぶりである。そもそも余が読書に目覚めたのは、高等学校に通っていた時分の話だ。国語の教科書に漱石の『こころ』の「中」段だけが載っていたので、国語の教師が、中だけ呼んでも仕方がないから文庫本を買ってぜんぶ読むようにと命じたのである。
余が活字の本を読むようになったのは、随分遅い。長らく漫画しか読まなかったのだが、その当時は、文字ばかりの本を読んで何が面白いのか、とんと了解できなかった。漱石の『こころ』で活字に開眼するまでに余が最後まで読み通せた活字の本は、たったの二冊。これも教師から読むように指示された『古文入門』というのと、当時熱中していたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のノベライズ。この二冊だけである。
それ以前、中学生の頃だかに夏休みの課題たる読書感想文のために、ゲーテの『若きウエルテルの悩み』を購った。なにしろ、当時は活字の本を読まなかったので、若者向けの小説が存在しているというのを知らなかったし、これくらい有名な小説のタイトルしか知らなかったのだ。また『若きウエルテルの悩み』はタイトルがいかにも恋愛小説っぽいし、何より文庫本で薄いので、これなら読めるだろうと多寡を括ったのである。だが、余の読みは甘かった。開巻早々、二三頁ほどで挫折したのである。言い訳ではないが、当時の新潮文庫はすこぶる活字が小さかった。

話が横道に逸れたので、話を『こころ』に戻そう。そんな事情で、余は『こころ』にも多くを期待しなかった。と言うよりも、活字の本とは面倒なものであるという漠然とした印象しかなかったのである。だが、この作品は違っていた。余は、いつの間にやら『こころ』の薄暗い世界に引き込まれて一心不乱に読み通し、少々大袈裟に言うなら、巻を置いた時には茫然自失の体であった。小説とはこんなに凄い事が書けるのかと心底圧倒され、それから夏目漱石の長編を次々と手に取り、すっかり漱石ファンになったのである。

その当時は、漱石を新潮文庫で読んだ。歳をとった今とは違い、当時は文字の小さいのがまったく苦にならなかった。苦にならないどころか、なにやら得をしたような心持ちがするし、本が薄いのも安心だった。だから活字が大きめだった旺文社文庫は、なんとなく安っぽくも思えて余の購買意欲を刺激しなかったのである。
ともあれ、『明暗』をのぞけば、夏目漱石の長編はその頃に全部読んだと思う。確認していないので、もしかすると記憶違いがあるやも知れぬが、おおむね間違いはなかろう。残ったのは、短編であった。評論については、長らく視野の外であった。

漱石の短編を読んだのは、余が中年以降の話である。やはり新潮文庫に愛着があったので『文鳥・夢十夜』『二百十日・野分』を読み、随想集だと知らずに『硝子戸の中』も読んだと思う。どれを最後に読んだのか、記憶が茫洋として定かではないが、今から十年以上前だというのは、ほぼ間違いないと思う。余は、記憶力が弱い上に時間感覚に鈍いので、昔の話になると、五年ほど前とか十年位前だなどと、五年刻みでしか語れぬ体たらくである。だが、いずれにしろ今度『倫敦塔・幻影の盾』を読んだのも、やはり久しぶりだというのだけは多分間違いないのである。

さて『倫敦塔・幻影の盾』である。余のこの文章は『倫敦塔・幻影の盾』のレビューとして書かれているはずなのに、肝心の感想がここまでまったく出て来ない。何故ないのか? それは、漱石について、今更面白かったもへったくれも無かろうと思うし、少しは気が利いたつもりになって、どこかで遠に書かれているであろうような感想や意見をわざわざ書く気にもならん為だ。今はどうなのかは知らぬが、なにしろつい最近までは、日本の小説家で最も論文の書かれている小説家は漱石だと言うのだから、今更余のごとき市井の凡人に、目新しい想など浮かびもようもない。しかし、折角久しぶりに漱石を読んだのだから、漱石について何か一文を草して悪あがきの爪痕くらいは残しておいても良かろうと、遊び半分でこのような漱石の真似っこをしてみたのである。あえて文体模写とは書かぬところに、余の廉恥心を読み取ってもらえれば幸甚である。

とは言え、ぜんぜん感想も無いわけではないから、少しだけ書いておく。本作品集中で、余が最も気に入ったのは、「趣味の遺伝」の中の一場面。露西亜との戦争からの帰還兵たちを迎える群集に交じった漱石が、一人の将軍の様子に、戦争の実相を洞察する場面の描写である。
漱石は、それまで出征兵や帰還兵たちに対して万歳をした事が無かった。無論積極的にしたいわけではないが、政治信条があってしなかったというわけでもない。ただ何となく、その機会が無かっただけなので、この機会に万歳をしてやろうと、漱石はこのとき卒然と思いついたのである。ところが、その将軍の姿を見た途端、漱石の万歳は喉のところで止まって、どうにも出てこなくなってしまった。

『周囲のものがワーというや否や尻馬について(※ 万歳を)すぐやろうと実は舌の根まで出しかけたのである。出しかけた途端に将軍が通った。将軍の日に焼けた色が見えた。将軍の髯の胡麻塩なのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。何故? 
 何故か分かるものか。何故とかこの故とかいうのは事件が過ぎてから冷静な頭脳に復したとき当時を回想して始めて分解し得た智識に過ぎん。何故が分る位なら始めから用心をして万歳の逆戻りを防いだはずである。予期出来ん咄嗟の働きに分別が出るものなら人間の歴史は無事なものである。余の万歳は余の支配権以外に超然として止まったといわねばならぬ。万歳がとまると共に胸の中に名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫ばかり涙が落ちた。
 将軍は生まれ落ちてから色の黒い男かも知れぬ。しかし遼東の風に吹かれ、奉天の雨に打たれ、沙河の日に射り付けられれば大抵なものは黒くなる。地体黒いものはなお黒くなる。髯もその通りである。出征してから白銀の筋は幾本も殖えたであろう。今日始めて見る我らの眼には、昔の将軍と今の将軍を比較する材料はない。しかし指を折って日夜に待詫びた夫人令嬢が見たならば定めし驚くだろう。戦は人を殺すかさなくば老いしむるものである。将軍は頗る痩せていた。これも苦労のためかも知れん。して見ると将軍の身体中で出征前と変らぬのは身の丈位なものであろう。』

群衆は凱旋兵たちにワーという歓声を浴びせる。それは兵たちにとっても決して迷惑なものではなかろう。しかし、群衆はそこに勝ち戦を見ているだけで、彼らの姿を見ているわけではない。戦場での苦労と苦悩の故に老けたのであろう将軍の姿に、戦場の過酷な現実を透視した漱石のような者は、ついにいなかった。凱旋兵たちに漱石と同じものを見ておれば、およそ万歳などというお目出度い言葉など出なかったであろうからである。そして、こうした群衆の姿を、我らは今でもしばしば目にするのではないか? 彼らの活躍に歓呼の声を投げる群衆は、知らずに彼らを犠牲にし食い物にしているのではあるまいか? そして我ら自身、はたして漱石のような眼を持っていると言えるだろうか? 漱石を読んだ多くの日本人が、そんなことを一度でも考えたことがあるだろうか?

無論この程度のことは、多くの漱石研究者や文芸評論家がすでに指摘済みであろう。だが、重ねて指摘しておく価値が無いわけでもないので屋上屋根を架すことにしたから、読者各位にあっては悪しからず諒とされたい。

余は当初、本書『倫敦塔・幻影の盾』を、新潮文庫で読もうとした。愛着があるからだし、ブックオフオンラインなら198円と安い。ところが、昭和四十三年改版の平成元年発行第五十八版であるにもかかわらず、やはり活字が小さい。老眼と乱視が進んでいるとは言え、眼鏡を掛ければ読めるだろうと多寡を括っていたのだが、最初の「倫敦塔」を四苦八苦しながら読み終えた段階で到頭挫折した。これほど文字の読取りに苦労していては、入る中身も頭に入らぬからである。ここは素直に降参するのが得策と、今度はブックオフオンラインでワイド版岩波文庫の『倫敦塔・幻影の盾 他五篇』を購った。値段は498円で、それでも安い。収録作品は同じであるから不都合もない。

このようなわけで、余はこのレビューを新潮文庫と岩波文庫の両方に投じた。決してインチキをしたわけではない。
新潮文庫の解説者は伊藤整で、ごく当たり前とも思える指摘を悠々と行っているのは、さすがに大家の貫禄かも知れぬ。一方、岩波文庫の江藤淳は、時代が新しい分、少しは捻りのある解説だが、それはどうでもいい。面白いのは、江藤の解説の文体が、まるで漱石の文体模写のようであることだ。漱石の文体は、好きな者には極めて伝染しやすいのではあるまいか。

初出:2019年9月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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