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マーティン・マクドナー監督 『スリー・ビルボード』 : 「わかる」ということ。

映画評:マーティン・マクドナー監督『スリー・ビルボード』(2017年)

マーティン・マクドナー監督の作品に接したのは、昨年(2022年)の『イニシェリン島の精霊』が初めてだったのだが、その時に私が受けた最も強烈な印象は「(メインの)作中人物が、何を考えているのかが、わからない」ということだった。
そして、同時に「監督は、こんな人物に、どんな内的合理性を与えたのだろうか?」という疑問であった。

これまでも何度か書いてきたとおりで、私が小説なり映画なりの「フィクション」についての評論文を書く場合、それはたいがい、「作品論」ではなく、「作家論」になってしまう。

どうして、そうなるのかと言えば、私が批評文で書きたいのは、その作品が「どういう作品なのか」という「解説」ではなく、その「作品を生み出したものは、何なのか」という「背景」の方だからである。
「作品」は「見てのとおり」のものだが、そこに「込められたもの」「秘められたもの」は、「作者」の存在抜きには考えられない。だから、私の場合は、必然的に「作者」の方へと、その興味が向かいがちなのであろう。

そんなわけで、もう少しマクドナー監督の作品を観てみようと思い、どうせ観るのであればと、世評の高い本作『スリー・ビルボード』を観たわけだが、それでわかったことは、一一マクドナー監督は「最初から、内的合理性のある人間を、描こうとは思っていない」ということであった。

そして、本作『スリー・ビルボード』を高く評価する人は、そこ(人間の内的合理性の有無)を「問題にはしておらず、登場人物たちの、意外な行動を楽しんでいる」ということであった。

つまり、マクドナー監督は、「人間中心」の「文学的なもの」にはあまり興味がなく、自身の惹かれる「歪んだ世界」を描きたかったのだろう、ということである。

だから、マクドナー作品の主人公たちに「リアリティ」が感じられたとしたら、それは俳優たちの演技による「見かけ上のリアリティ」であって、描かれた人物そのものは、むしろリアリティを欠いた「奇妙に歪んだ人間」たちだ、ということになるではないだろうか。

 ○ ○ ○

【※ ストーリーの展開に触れますので、未鑑賞の方はご注意ください】

『米ミズーリ州の片田舎の町で、何者かに娘を殺された主婦のミルドレッドが、犯人を逮捕できない警察に業を煮やし、解決しない事件への抗議のために町はずれに巨大な3枚の広告看板を設置する。それを快く思わない警察や住民とミルドレッドの間には埋まらない溝が生まれ、いさかいが絶えなくなる。そして事態は思わぬ方向へと転がっていく。』

「映画.com」の「解説」より)

『最愛の娘が殺されて既に数ヶ月が経過したにもかかわらず、犯人が逮捕される気配がないことに憤るミルドレッドは、無能な警察に抗議するために町はずれに3枚の巨大な広告板を設置する。それを不快に思う警察とミルドレッドの間の諍いが、事態を予想外の方向に向かわせる。』

「Filmarks」の「あらすじ」より)

見てのとおり、「あらすじ」的なものを簡単に紹介すれば、このようになるのだが、問題は、その文末が、

『事態は思わぬ方向へと転がっていく。』
『事態を予想外の方向に向かわせる。』

となっている点だろう。
つまり、この映画の大きな特徴は「先が読めない」というところにある。

では、なぜ「先が読めない」のだろうか?

一一それは、作中人物たちの行動に「合理性が無い」からである。

こう書くと、「人間の行動なんて、大概の場合、そもそも合理性を欠いているものだよ。フィクションじゃないんだから」と言う人もいるだろう。
だが、問題は、本作は「フィクション」なのだから、本来なら「心理的な合理性」がなければならないはずなのに、それが無い、という点なのである。

そもそも、どうして「フィクション」の場合だと、一般に「内的合理性」が与えられるのだろうか?

それは、現実の人間の行動というのは、しばしば「非合理的」なものだからで、その「一見、非合理的な行動」の奥から「複雑かつ合理的な心理」を剔抉するからこそ、鑑賞者は「なるほど、深く人間を描いている」と感じて、感心するのであろう。
つまり、そうしたものが、「文学的な態度」であり、「文学的な人間描写」なのである。

ところが、そういう「人間性の深いところ」の興味を持つ人というのは、必ずしも多くはない。
そんな「分かりにくいもの」よりも、「表面的なリアリティ」に支えられた「表面的な面白さ」や「表面的な意外性」の方にこそ魅力を感じる人が、少なくないはずだ。

しかしまた、それを「そのとおりだ」と認める人も少ないはずで、もともと「人間を描くこと」よりも、「意外性」や「驚き・恐怖」といったことを描くことに重きをおく「本格ミステリ」や「ホラー」ならいざ知らず、そういう「わかりやすいジャンル形式」を採っていない、分類しにくい作品だと、人は、その作品を「人間を描くことに興味のない作品」だとは考えずに、その作品の中にも「深い人間描写」を「見よう」とするはずだ。
だが、言うまでもなくそれは、「存在しないもの」を見ようとし、時に見てしまうものとは、「疑心暗鬼」にしかならない。

最新作『イニシェリン島の精霊』は、ある意味では、本作『スリー・ビルボード』の「枝葉を落とした(原型的)作品=シンプルな対立図式の作品」だと言えるかもしれない。

逆にいえば、本作『スリー・ビルボード』は、『イニシェリン島の精霊』よりも、人間関係が「複雑」化されており、そのために増された「意外性」において「エンタメ性を強めた作品」となっている、とも言えよう。

しかし、この面白さは、「文学的作品」つまり「内的合理性を描く作品」の「面白さ」ではなく、言うなれば「本格ミステリ」や「ホラー」などに近い、「人間を描かない」ことによって得られる「面白さ」だと言えるだろう。

マクドナー監督の2作品に見て取ることができるのは、前述のとおり、マクドナー監督には、基本的に「人間を描く気がない」ということである。
だから、彼の作品に、それを読み取ろうとするのは、もともと無理な話であり、良くて「枯れ尾花」に「幽霊」を見ようとするような、徒労にしかならない。

例えば、本作『スリー・ビルボード』の主たる登場人物に、そのあたりの問題を見てみると、次のようになる。

主人公の女性ミルドレッドは、娘が強姦殺人で殺されたにも関わらず、警察の捜査が遅々として進まないのに業を煮やして、警察署長を責め立てる「3枚の看板広告」を出す。
一一ここまでなら、「強烈な、おばちゃんだな」ということで、まあ納得できる。

しかし、その後、人格者である警察署長ウィロビーに同情する村の住民からの嫌がらせだの何だのあったとは言え、警察署に火炎瓶を何本も投げ込んで放火するというのは、とうてい尋常な行為ではない。これは完全に「頭のおかしい人間」の行動でしかないのだ。

無論、いちおうの説明はなされている。
それは、娘が被害に遭うその当日、娘はミルドレッドに「車を貸してくれ」と言うが、ミルドレッドは「貸さない」と突っぱね、それに娘が口答えして「あんただって、前に無免許運転したんだろう。偉そうに言うな。お父さんに聞いたぞ」と、別れた元旦那の話を持ち出したので、ミルドレッドは、娘が元旦那に会っていることを知り、感情的になって「行きたければ、歩いてお行き」と言うと、娘は「強姦に遭うかもしれないぞ」と口ごたえしたが、ミルドレッドは「そうなるかもね」みたいな、突き放した返事をして、結局、娘は歩いて出て行ってしまう。
その結果が、まさに強姦殺人による、娘の死だったのだ。

(母のミルドレッドと口論になる、アンジェラ)

つまり、ミルドレッドは、娘の強姦殺人死に「後ろめたさと後悔の念」を抱いている。
「あんなことを言わなければよかった」「車を貸してやればよかった」「彼女は、私が殺したも同然だ」と、そんな具合に「自分を責める」部分があるからこそ、それを「警察」に対して、過剰に転嫁したのだと、そう言えるだろう。

(強気で、しばしば挑発的ですらミルドレッドだが、ふと弱さを見せることもある)

そうした意味で、3枚の看板広告を出したところまでは、納得ができる。
しかし、いくら嫌な思いをさせられることが重なったとは言え、警察署に火炎瓶を何本も投げ込むというのは、明らかに「異常な行動」である。
「たまたま出てきた野生の鹿」に心を動かされる「優しさ」が彼女にあったとしても、それは彼女の「異常性=極端さ」を否定するものにはなっていない。「心優しい異常者」など、いくらでもいるからだ。

次は、ミルドレッドに告発される警察署長のウィロビーだが、こちらはまた「極端に良い人(人格者)」に描かれている。
彼の言うことはいちいち「正論」であって、決して間違ったことは言っていないのだが、ただしそれは、いささか「綺麗事にすぎる」きらいがあり、しかも、その「綺麗事」を、心から信じているところが、少々「異様」なのだ。

(ミルドレッドと話そうとするウィロビー署長だが、彼女の頑なさに困惑する)

警察官も長いことやっておれば、人間が、そんなに「単純」なものでないことくらいはわかっているはずなのに、彼の語ることは、いつでも「極端な正論」であり、かなり「作り物っぽい」。言い換えれば、ウィロビーという作中人物についていえば、「人間が描けていない」のだ。
だが、これは、もともと「人間を描く気がない」マクドナー監督が、ウィロビーに「役割・役柄」として、意識的に与えた「一面性」であろうと私は思う。

それは、彼の「家族に、癌の末期症状で苦しむ自分の姿を見せて苦しませたくないし、苦労をかけなくないから、わざわざ(絵に描いたような)楽しい思い出を作ったその夜に、銃で頭を撃ち抜いて自殺する」という、「異常な完璧さ」にも表れている。
なるほど、ウィロビーは「すごい男」だとは言えるけれど、ある意味では「当たり前の人間を超え過ぎていて、異常」であるとも言えよう。

彼が、不良警官であるディクスンに遺した「励ましの手紙(遺書)」も、あまりにも綺麗事だ。

(差別主義者の暴力警官であるディクソン)

つまり、ディクソンは、実際には、差別主義者で仕事嫌いな暴力警官なのだが、しかしそれはウィロビーに言わせれば「おまえは本当は正義感のあるいい奴なんだ。ただ少しばかり短気なところがあるのと、父親を失って以来、母親の介護で疲れていたということもあるだろう。だが、おまえならきっと変われるし、お前が、本当はなりたいと思っていた刑事にもなれるだろう。刑事になるために、最も必要なものが何かわかるか? それは、だ。一一おまえなら変われる。私はおまえのことを信じている」ということになるのだ。

で、ディクソンは、心の中では尊敬していたウィロビー署長の、この遺書に感動して、その瞬間からすっかり心を入れ替え、未解決だった強姦殺人事件の解決を目指すことを決意するのだが、皮肉なことに、その瞬間に、ミルドレッドの火炎瓶の洗礼を浴びて、大火傷を負うことになる。

(夜間で不在の警察署への放火に巻き込まれたディクソン)

そして、入院した病院で、自分がボコボコにして入院させた「広告代理店の社長レッド」と、たまたま同室になるのだが、そこでレッドの痛ましい姿を見て、ディクスンは「悪かった」と、涙を浮かべて、心からの謝罪する。
また、その謝罪によってレッドは、包帯でぐるぐる巻きになっている大火傷の新入患者が、自分を無法に痛めつけた、憎むべき暴力警官のディクスンだと気づくが、彼のあまりに痛ましい姿に同情して、彼を許すのである。

つまり、ディクスンは、尊敬する署長の「愛が大切だ」という遺書で、コロリと改心すると言うか、人間性が「180度転換」してしまう。

レッドの、ディクスンへの「寛容な許し」は、ディクスンが変わってから後のことなのだから、ディクスンが変わった原因は、ただウィロビー署長の「遺書」1本によるということになるのだが、これはいささか無理があるのではないだろうか。
つまり「人間、そう簡単には改心できないし、変われないよ」ということである。

なるほど、尊敬するウィルビー署長の「遺書」の言葉だから「感動し納得した」ということなら、十二分にあり得るだろう。しかし「頭でわかる」ことと、実際に「改心できる」ということとは、決して同じではない。
酒やタバコでさえ、頭で、理屈で、いくら「体に良くない」「止めたほうが良いに決まっている」「止めよう」と思っていても、実際には、なかなか止められないのが(「わかっちゃいるけど止められない」のが)人間なのだから、いくら尊敬する人からの「助言忠告の遺書」だとはいえ、他人の忠告で「性格(人格)」がコロリと変わってしまうというのは、あまりにもリアリティがなく、ご都合主義的であり、およそ説得力がない。
一一つまり、「人間が描けていない」ということになるのだ。

そして、その意味では、レッドの「寛容な許し」も、ウィロビー署長の「絵に描いたような人格者ぶり」と同様に、「良いお話」ではあろうとも、リアリティを欠いている、という事実は、否定できないのである。

(広告代理店社長のレッド。警察官の脅しにも屈しない芯の強さを持つ)

このように見ていくと、マクドナー監督が描きたいのは「当たり前に内的合理性も持った人間」ではなく、文字どおりに「極端な人間」であることがわかる。

その「極端さ」が、「善人(聖人君子)」として現れる場合もあるが、しかし、マクドナー監督の描きたいのは、そちらではなく、「悪い方へ極端な行動に出てしまう(自制の効かない)人間」だというのは、もはや明らかだろう。

ウィロビー署長やレッドのような「極端な善人」は、本作の主人公であるミルドレッドや、『イニシェリン島の精霊』の2人の主人公のような「自制のきかない、極端な人間」を描くため、「必要」に駆られて配置された、「役割人間」と見たほうが適切だと、私は思う。

つまり、マクドナー監督の作品における「理解不能な極端な行動」というには、当たり前の人間が納得できるような「合理的な深い意味」なんてものは「もともと無い」のだと、私は、マクドナー作品の2本目として本作を観ることで、ほとんど「確信」に近いものを得た。

したがって、これらの作品における、主人公たちの「極端な行動」に、誰もが納得できるような「意味」を見出そうとするのは、まず間違いなく「見当違い」であり、そうして見出された「意味」とは、マクドナー監督の中に秘められた「真相」などではなく、何もない闇を凝視した果てに見えてくる「幻覚(過剰解釈)」としての「疑心暗鬼」でしかないと思う。

では、なぜ、マクドナー監督は「悪い方へ極端な行動に出てしまう(自制のきかない)人間」を描きたがるのだろうか?

それはたぶん、そのことに一貫性のある「意味や価値」があるからではなく、マクドナー監督が、個人的に「そうしたものに惹かれる」からであろう。

では、「どうして、そんな異様なものに、惹かれるのか」といえば、それは「マクドナー監督の成育史」を詳細に調べるしかない、そんな「個人的な問題」なのだと思う。

「なぜ、彼はサディストなのか?」「なぜ、彼はマゾヒストなのか?」一一そうした「問い」に対する回答は、決して「一般論」からは導き出せないものであり、そうした「個人的な欲望」に発する「奇妙な表現」というのは、決して「一般論」には回収できないし、回収できたように見えた場合、それはたぶん「見当違い」でしかない。

(マーティン・マクドナー監督)

マクドナー監督作品の場合、「作品が難解」なのではなく、監督自身が「難解」なのである。


(2023年4月12日)

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