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南彰『政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す』 : 〈私〉が、政治部記者であったなら…

書評;南彰『政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す』(朝日新書)

「菅官房長官の定例記者会見」における望月衣塑子記者の活躍と、それに対照的な各社政治部記者たちの姿。そんな映像を見せられた上に、社会的注目の最中だった黒川弘務検事長と、政治部記者たちとの「賭け麻雀問題」。
こんなものを続けざまに見せられて、私たちの多くは、政治部記者と取材対象との馴れ合い的な関係を、嫌でも意識せざるを得ず、思わず「おまえらは権力を監視するのが仕事だろう。それなのに取材対象と馴れ合うとは言語道断だ。それは、ひと昔前の暴力団担当刑事が、暴力団員とつきあって、犯罪情報を取ってたって話と、まったく同じじゃないか」といったような批判の言葉を発してしまう。
言うまでもなく、この批判自体は、なにも間違っていないし、必要なものでもあるのだが、しかし、このような「正論」による批判だけで、果たして、この「悪習」を改めることができるものなのだろうか。

本書で描かれている「政治部記者」の問題は、言うなれば「取材慣習」の問題であり、その根底には「日本的な職場慣習」の問題があるのではないか。
つまり、「人間関係」を構築した上で、仕事をスムーズに進めるとか、「本音と建前」を使い分けた上で、そこについては、見えていても、お互いに突っ込まないとか、そんなことである。

私自身を含め、職業人の多くは、こうしたことを「当たり前」のこととして、なかば無意識的に行なっているはずなのだが、それと同じことを「政治部記者」たちも行なっていただけなのではないか。
そしてそれが、これまでは通ってきたのだが、近年はこうした「実務的慣習」が通用しなくなってきたのではないか。そして、そのようになってきた最大の理由は、やはりネットの普及によって、誰もが広く社会に対して発言できるようになったからではないだろうか。
要は、「本音と建前の使い分け」が、機能しなくなってきたからではないだろうか。

なぜなら、社会的発言がこれまでのように、ごく一部の人たちの特権であった時代には、その人たちの間での「暗黙の了解」として「そこはお互いに突っ込まないことにしましょうよ」という認識が共有できた。ところが、ネットの普及によって、言わば「発言責任を一切負わない外野」から、遠慮も加減もない「正論的批判」が寄せられ、公開されるようになった。
こうなった時に、これまでの言論独占階級のエリートだった人たちに、反論ができただろうか。
一一 無論できなかったのだ。

彼らはエリートとして「本音と建前」を使い分けて、「建前」をこそ誇らかに語ってきたからこそ、世間の「建前」に反論することができず、公然と「本音」を語ることもできなかった。本音を語ることは、そのまま自身の築いてきた「建前としての、立派な言論人」としての立場を揺るがすものになるからである。

例えば近年、問題となった、教育現場での「暴力的指導」の問題も、ひと昔前には「やって当たり前」であり、生徒本人や保護者からさえ、決して手を上げない先生は「優しい先生」だなどと、殊さら肯定的に評価されていたりもした。
いや、そもそも「親が子供を殴ってしつけする」という行為も、昔は「当たり前」であった。だから、先生たちの「暴力的指導」を批難するような空気は醸成されなかった。

もちろん、刑法における「暴行罪」や「傷害罪」は、昔から存在しており、親や教師であっても「やりすぎたら、捕まり罰せられる」ことになっていたのだが、それでも裁判においては、その「責任を負うべき立場」が考慮され、情状酌量されていたし、その適用範囲が縮小されたとは言え、今も「親や教師」という「責任を負うべき立場」については情状判断の対象となっており、基本的には変わっていないのである。

つまり、私たち「一般人」が「正しいことは正しいし、間違っていることは間違っている」と、単純に考えている問題に関しても、社会を回していく現実の局面においては、それはいまだに、そう「単純な話」ではないし、たぶん今後も基本的には同じなのであろう。
「責任を一切負わない第三者」の立場での発言も、「原則」として尊重されるが、しかし「神ならぬ、生身の人間」の運営する「(原理的に)完璧ではあり得ない社会」においては、「原理原則」は、どこまで行っても「建前」を完全に脱却することはできず、どこかに「本音」を隠し持ち、温存しつづけることになる。

そして、言うまでもなく、こうしたことは「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」たちに限った話ではない。
それは「私たちすべて」に、例外なく当て嵌まることであり、言うなれば、私たち誰一人として「建前と本音の使い分け」という桎梏から、今も現に逃れ得ていないし、たぶん完全に逃れ出ることは、原理的に不可能なのであろう。

無論、私は、以上の議論において、「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」などなどを「免責」しようというのではない。「完璧ではない(悪しき)現状」を「容認」しようというのでもない。
「理想」というものは、そもそも「達成できるもの」ではなく、「常に目指されるべき目標」なのだから、私たちは「理想」を掲げて、一歩でもそちらへと進む努力をしなければならない。

しかしである、そのための大前提として、この「建前と本音の使い分け」という「人間の本質的な難問」に、決して「例外的人間は存在しない」という意識を持つ必要がある。それを持たなければ、「建前」で他人を批判している人が、自覚もなく同じ過ち、別の局面で犯すことになるからである。

例えば、私自身は「政治部記者」でも「政治家」でも「親や教師」でもない。けれども、法的責任を免除されている未成年でもない。つまり、生きていく上で、各種の責任を、否応なく担わざるを得ない存在である。そして、それはすべての大人がそうなのだが、それを自覚し、その責任の重さにおののいている人が、いったいどれだけいるだろうか。

「政治部記者」を批判し、「政治家」を批判し、「親や教師」を批判している人の、いったいどれだけが、返す刀で、自分自身を呵責なく斬りつけているだろうか。

残念ながら、そんなふうに自覚的に責任を負っている人は、ごく稀であろうと思う。だからこそ、私はここで、直接のテーマである「政治部記者」という問題から離れて、「すべての人の責任」への「自覚」を促しているのである。

繰り返すが、私は「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」といった「責任ある立場の人々」を免責しようというのではない。
そうではなく、私たち「すべての人間が、責任ある立場の人間なのだ」という自覚を促しているのであり、それなくしては「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」といった「責任ある立場の人々」の問題も、決して改善されることはないだろう、ということなのだ。

例えば、あなたが「政治部記者」や「政治家」であったとして、その「特権と責任」の大きな職場環境において、「本音と建前」を使い分けずに済ませる自信があるだろうか。あなたが「親や教師」であった場合、子供に対して、一度でも「手を上げたり、手を上げようとした」ことすらなかったり、あるいは「声を荒げた」こともない、で済ませる自信があるだろうか。
「建前」として「ありますよ」と無責任に公言するだけではなく、「本音」として「やれる」と考えられるだろうか。もし、そう考えられるとしたら、あなたは、その「短慮」という無責任さにおいて、批難される蓋然性の高い人間だとは言えないだろうか。

事程左様に、他者を、その立場の「建前」において批判することは、容易でもあれば、本質的には極めて困難なことでもある。
「そういうご立派なことを言っている、お前自身はどうなのか」と、自身に問える「良心的な人」であればあるほど、それは困難な行為になってしまうという「ジレンマ」。他人を責めることは、そのまま自身を責めることにもなるからだ。

しかし、それでも「他人を責める」ことは必要である。なぜなら、より以上に「自身を責める」必要があるからだ。
言い変えれば、「自身を責める」ことのできる人が増えないかぎり、この世の中は、決して本質的に改善されることはないのである。

だから私たちは「涙隠して人を斬る」ことをしなければならない。しかし、その時、自身も「返り血」を浴びているということに自覚的でなければならない。つまり、「涙」を流せなくてはならない。

ほぼ誰も自覚してはいないだろうが、多くの現実的局面においては、私たちは、望月衣塑子記者ではなく、彼女を見殺しにしたり、あまつさえ憎んだりする「社会部記者」に近い人間なのである。

初出:2020年7月24日「Amazonレビュー」

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