沼田和也 『街の牧師 祈りといのち』 : 読まれない「余白」
書評:沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)
本書の帯には、次のような推薦文が刷られている。
末井昭は、フリーの編集者で、これまでの仕事を見てくれば、本書著者との接点は、ほとんど無いように見えるが、あえて言えば、末井には『自殺』『自殺会議』という、「自殺」をテーマにした著作があることであろう。
ちなみに、『自殺』の方は、講談社エッセイ賞を受賞している。
「元白夜書房取締役編集局長」という経歴からも分かるとおり、末井のこれまでの仕事は、主に「エロとサブカル」と言ってもいいだろうし、その意味で、前記の『自殺』『自殺会議』も、決して、タイトルから想像されるような「大真面目」とか「辛気くさい」といったものではなさそうだ。
例えば『自殺会議』の方に、作家・雨宮処凛が、次のような書評を寄せている。
つまり同書は、「自殺」について、著者が「悩みました」という内容ではなく、末井は「自殺するほど悩む人たちに寄り添った人」なのだが、決して「眉間にしわを寄せた、これ見よがしに悩んでますというタイプ」ではない、ということである。
ともあれ、「悩みに対する理解」という点で、末井が本書『街の牧師 祈りといのち』の推薦者に選ばれたのであろうというのは、容易に推察できよう。選んだのが、著者の沼田本人か編集者かはわからないとしても。
さて、多くの人は、上の推薦文を、あっさりと読み流して、
「本書の著者である沼田和也氏は、並外れた悩む力の持ち主だから、人の悩みを受け止められるのだろう。」
ということが書いてある、と理解したのではないだろうか。
だが、よく見てみると、この文章は、そんなに単純なものではない。
まず、文末の『かも。』だ。
この『かも。』は、何に掛かっているのか、である。
『並外れた悩む力を持っている牧師』という主部に掛かっているのなら、「沼田和也は、並外れた悩む力を持っているのかもしれないし、持っていないのかもしれない(が、たぶん持っているのだろう)」ということになる。
また『人の悩みを受け止められる』という述部に掛かっているのであれば、「沼田和也は、人の悩みを受け止められる人なのかもしれないし、受け止められない人なのかもしれない(が、たぶん受け止められるのだろう)」ということになる。
つまり、末井は「本書の著者である沼田和也氏は、並外れた悩む力の持ち主であり、だから人の悩みを受け止められる人である。」と、「断言」してもいなければ、当然「保証」をしているわけでもない。
しかも、『並外れた悩む力を持っている牧師』と言った場合の「悩む力」とは、普通なら「自分が悩まなくてもいいような、例えば他人の問題にまで、心を痛めて、その問題を深く考える能力」というような意味なのだが、端的に言って、本書著者の沼田和也が悩むのは、まず彼自身に「悩んでしかるべき問題点」が現にあるからであり、また『人の悩みを受け止め』るのも、それは彼が「牧師」という「職業」についているからで、彼が「牧師」になっていなければ、決して「人の悩みを受け止められる人」と評価されてなどいなかったのではないだろうか。
そもそも、「牧師」というのは「人の悩みを受け止める」のが「仕事」であって、特別に「人のために悩む力」があろうとなかろうと、形式上「人の悩みを受け止める」ことはするだろう。
したがって、「普通の牧師」は「人の悩みを受け止めるふりはしていても、実際には受け止めていない(人のために悩んでなどいない)」と考えるのであれば、沼田牧師の「人の悩みを受け止める」行為が「特別であり得るのは、沼田に、人のために悩む、稀有な力があるからだ」と言えはするだろう。
だが、言い換えれば、末井が本音として「普通の牧師」は「人の悩みを受け止めるふりはしていても、実際には受け止めていない(人のために悩んでなどいない。その能力が無い)」と考え、他の牧師とは違って「沼田にだけは、特別な力がある」と考えているのでないかぎり、この推薦文は、ほとんど意味をなさないものになる。
また、だからこそ、最後に『かも。』をつけたのではないだろうか?
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沼田和也については、前著『牧師、 閉鎖病棟に入る。』 のレビューで厳しく批判しておいたから、ここでそれを繰り返すことはしない。
だが、前著の内容は、ほぼ「自分語り」であり、一方本書は「それ以外についての語り」もあるとは言え、全体としての印象は、大きく違うものにはなっていない。
その「大きく変わっていない印象」がどのようなものかというと、要は「深く考えています(悩んでいます)」という「ポーズ」ばかりで、それが「上滑りな、実を伴わないもの」に終わっている、ということだ。
もっともわかりやすい、根本的な点を指摘すれば、沼田は「神の存在を疑ってしまうことがある」と、真面目っぽく告白はしても、決して、具体的かつ徹底的に疑うことはしない。
つまり、無難に「上滑りな懐疑」しか持たないのだが、これはすべての問題において、同様なのだ。
たしかに、「普通の牧師」なら「言わないようなことを言う」のだけれど、では「普通の牧師」から逸脱するほどの徹底性があるかと言えば、そんなものはまったく無い。
あくまでも「考えるだけ」「言うだけ」であって、実際の行動においては、じつに凡庸無難な線で「牧師」に止まって、「悩める牧師」を演じているだけ(まるで「悩める探偵・法月綸太郎」同様だ)。
そして、もはやそれは「肉付きの面」と化しており、何を書いても、そういう「自分は、普通の牧師ではない」アピールにしかなっておらず、その「骨がらみの承認欲求」は、前著以来まったく何も変わってはいないのだ。
そして、言い換えるならばこれは、沼田が「神を持っていない」ということである。
「神」を持っていれば、「神に承認されている」という実感があれば、沼田は「世間(人間)に承認されたい」などという「渇き」を感じるはずがない。
だが、沼田が、昔も今も変わらずに、「人間からの承認」によって「人間社会によって救われる(承認される)」ことを求めて「文章を書かないではいられない」のは、彼が「神」に反旗をひるがえすほどにも「神の実在」を感じてはいない証拠なのである。
本書「あとがき」の末尾は、いかにも「書ける」著者らしい、次のようなものになっている。
見てのとおり、わかりやすく「前向き」であり、ありがちに「つながり」を強調した、「感動的な」締めくくりの文章だが、私には「通俗的にわかりやすい」ものという印象しかない。
だが、ここでより重要なのは、沼田が、
と強調している点であろう。
事実、沼田は、次のようなことを書いている。
『余白を読む』とは、文章で言えば「行間を読む」という、当たり前の行為に過ぎない。
しかし、沼田の本を読んでいる、主にクリスチャンの読者のどれだけが、「行間」を読んでいるだろうか?
彼らは、「聖書」に「イエスが復活した」と書いてあれば、それをそのまま真に受けようとし、それこそが真っ当な信徒の態度だと疑わない人たちである。
当然、沼田による「上滑りな文章」、言い換えれば『ふわふわ、もふもふとした』耳ざわりの良い文章の、その「余白」を、あえて読む読者など、ほとんどいはしないだろう。
「かわいい」動物の絵を見て「かわいい」と評価することしかしない読者が、「余白」や、その「静止」し「宙に浮いて」「しっかり足が地についている感じ」のしない文章の「行間」を、どうして読むことなど出来よう。
沼田について、著名人である末井が『並外れた悩む力を持っている牧師だからこそ、人の悩みを受け止められるのかも。』とコメントしておれば、『かも。』は読み飛ばして、沼田が『並外れた悩む力を持っている牧師』であり『人の悩みを受け止められる』人だと、軽率にも信じてしまえるような「盲信者」に、「余白」から、そこに「秘められてもの」を読み取る力があろうとは、私には、とうてい信じがたいのである。
(2023年4月23日)
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