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沼田和也 『街の牧師 祈りといのち』 : 読まれない「余白」

書評:沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

本書の帯には、次のような推薦文が刷られている。

『並外れた悩む力を持っている牧師だからこそ、人の悩みを受け止められるのかも。一一末井昭』

末井昭は、フリーの編集者で、これまでの仕事を見てくれば、本書著者との接点は、ほとんど無いように見えるが、あえて言えば、末井には『自殺』『自殺会議』という、「自殺」をテーマにした著作があることであろう。
ちなみに、『自殺』の方は、講談社エッセイ賞を受賞している。

「元白夜書房取締役編集局長」という経歴からも分かるとおり、末井のこれまでの仕事は、主に「エロとサブカル」と言ってもいいだろうし、その意味で、前記の『自殺』『自殺会議』も、決して、タイトルから想像されるような「大真面目」とか「辛気くさい」といったものではなさそうだ。
例えば『自殺会議』の方に、作家・雨宮処凛が、次のような書評を寄せている。

『読みながら、本のテーマが「自殺」だということを忘れていた。それほどに楽しく、時に吹き出しながら、なぜか「死」より「生」について考えていた。〔…〕
登場人物がひたすらに濃い。〔…〕登場する全員が常軌を逸しているのだが、みんなあまりにもむき出しなのでいとおしくて仕方なくなってしまう。〔…〕
あまりにあけすけな語り口がひたすらに愉快だ。その感覚は全ページに共通していて、本の中で繰り広げられる「自殺会議」に完全に巻き込まれている。
一緒に考え、学び、一緒に悩む。一参加者になっているのだ。〔…〕
思い切り肩の力を抜いて、生きたり死んだりする大変さを笑い飛ばせる一冊だ。』

Amazon『自殺会議』紹介ページから)

つまり同書は、「自殺」について、著者が「悩みました」という内容ではなく、末井は「自殺するほど悩む人たちに寄り添った人」なのだが、決して「眉間にしわを寄せた、これ見よがしに悩んでますというタイプ」ではない、ということである。

ともあれ、「悩みに対する理解」という点で、末井が本書『街の牧師 祈りといのち』の推薦者に選ばれたのであろうというのは、容易に推察できよう。選んだのが、著者の沼田本人か編集者かはわからないとしても。

さて、多くの人は、上の推薦文を、あっさりと読み流して、

「本書の著者である沼田和也氏は、並外れた悩む力の持ち主だから、人の悩みを受け止められるのだろう。」

ということが書いてある、と理解したのではないだろうか。
だが、よく見てみると、この文章は、そんなに単純なものではない。

まず、文末の『かも。』だ。
この『かも。』は、何に掛かっているのか、である。

『並外れた悩む力を持っている牧師』という主部に掛かっているのなら、「沼田和也は、並外れた悩む力を持っているのかもしれないし、持っていないのかもしれない(が、たぶん持っているのだろう)」ということになる。

また『人の悩みを受け止められる』という述部に掛かっているのであれば、「沼田和也は、人の悩みを受け止められる人なのかもしれないし、受け止められない人なのかもしれない(が、たぶん受け止められるのだろう)」ということになる。

つまり、末井は「本書の著者である沼田和也氏は、並外れた悩む力の持ち主であり、だから人の悩みを受け止められる人である。」と、「断言」してもいなければ、当然「保証」をしているわけでもない。

しかも、『並外れた悩む力を持っている牧師』と言った場合の「悩む力」とは、普通なら「自分が悩まなくてもいいような、例えば他人の問題にまで、心を痛めて、その問題を深く考える能力」というような意味なのだが、端的に言って、本書著者の沼田和也が悩むのは、まず彼自身に「悩んでしかるべき問題点」が現にあるからであり、また『人の悩みを受け止め』るのも、それは彼が「牧師」という「職業」についているからで、彼が「牧師」になっていなければ、決して「人の悩みを受け止められる人」と評価されてなどいなかったのではないだろうか。

そもそも、「牧師」というのは「人の悩みを受け止める」のが「仕事」であって、特別に「人のために悩む力」があろうとなかろうと、形式上「人の悩みを受け止める」ことはするだろう。

したがって、「普通の牧師」は「人の悩みを受け止めるふりはしていても、実際には受け止めていない(人のために悩んでなどいない)」と考えるのであれば、沼田牧師の「人の悩みを受け止める」行為が「特別であり得るのは、沼田に、人のために悩む、稀有な力があるからだ」と言えはするだろう。

だが、言い換えれば、末井が本音として「普通の牧師」は「人の悩みを受け止めるふりはしていても、実際には受け止めていない(人のために悩んでなどいない。その能力が無い)」と考え、他の牧師とは違って「沼田にだけは、特別な力がある」と考えているのでないかぎり、この推薦文は、ほとんど意味をなさないものになる。

また、だからこそ、最後に『かも。』をつけたのではないだろうか?

 ○ ○ ○

沼田和也については、前著『牧師、 閉鎖病棟に入る。』 のレビューで厳しく批判しておいたから、ここでそれを繰り返すことはしない。

だが、前著の内容は、ほぼ「自分語り」であり、一方本書は「それ以外についての語り」もあるとは言え、全体としての印象は、大きく違うものにはなっていない。

その「大きく変わっていない印象」がどのようなものかというと、要は「深く考えています(悩んでいます)」という「ポーズ」ばかりで、それが「上滑りな、実を伴わないもの」に終わっている、ということだ。

もっともわかりやすい、根本的な点を指摘すれば、沼田は「神の存在を疑ってしまうことがある」と、真面目っぽく告白はしても、決して、具体的かつ徹底的に疑うことはしない。
つまり、無難に「上滑りな懐疑」しか持たないのだが、これはすべての問題において、同様なのだ。

たしかに、「普通の牧師」なら「言わないようなことを言う」のだけれど、では「普通の牧師」から逸脱するほどの徹底性があるかと言えば、そんなものはまったく無い。
あくまでも「考えるだけ」「言うだけ」であって、実際の行動においては、じつに凡庸無難な線で「牧師」に止まって、「悩める牧師」を演じているだけ(まるで「悩める探偵・法月綸太郎」同様だ)。

そして、もはやそれは「肉付きの面」と化しており、何を書いても、そういう「自分は、普通の牧師ではない」アピールにしかなっておらず、その「骨がらみの承認欲求」は、前著以来まったく何も変わってはいないのだ。

そして、言い換えるならばこれは、沼田が「神を持っていない」ということである。

「神」を持っていれば、「神に承認されている」という実感があれば、沼田は「世間(人間)に承認されたい」などという「渇き」を感じるはずがない。

だが、沼田が、昔も今も変わらずに、「人間からの承認」によって「人間社会によって救われる(承認される)」ことを求めて「文章を書かないではいられない」のは、彼が「神」に反旗をひるがえすほどにも「神の実在」を感じてはいない証拠なのである。

本書「あとがき」の末尾は、いかにも「書ける」著者らしい、次のようなものになっている。

『 教会が次第に増え広がる様子が証言された使徒言行録。聖書を開き、使徒言行録の末尾まで頁をめくってみると、聖書協会共同訳では、二段組の上段途中から白くなる。下段は真っ白である。わたしはこの余白を読むのが好きだ。この真っ白なところに、使徒たちの伝道の続きが詰まっている。詰まっているだけではなく、あふれ、こちらへと流れてくる。その流れはわたしたちに至り、まだこの世に生まれていない誰かへと流れゆく。未来のどこかにつながり流れる、私とあなたとの出遭いもまた、聖書の余白に書かれ、物語られている。
 真っ白なところに、見えない文字で。』(P270)

見てのとおり、わかりやすく「前向き」であり、ありがちに「つながり」を強調した、「感動的な」締めくくりの文章だが、私には「通俗的にわかりやすい」ものという印象しかない。

だが、ここでより重要なのは、沼田が、

『わたしはこの余白を読むのが好きだ。』

と強調している点であろう。
事実、沼田は、次のようなことを書いている。

『 (※ 死刑囚による作品展では)一部のペンネームを除き、どの作品にも作者の実名が添えてある。わたしはスマートフォンを操作してやその名前を「死刑囚」という語を添えて検索した。この絵を描いた人が、この犯罪を……そのとき感じた違和感は言葉にし難い。一枚のふわふわ、もふもふとしたかわいい絵があった。やはり検索してみると元ホステスで、残酷きわまりない事件を起こしていた。彼女は今どんな気持ちで、この「かわいい」絵を描いているのか。絵にはやけに余白がある。かわいい動物と、かわいい動物とのあいだにはなにもない。かわいいものたちは皆、静止している。しっかり足を地につけている感じはなく、かわいいものたちは皆、宙に浮いている。別の作品に目を移すと、自分の入れ墨だろうか、背中の彫り物を丹念に色鉛筆で再現、和服を広げて掛けたような紙のオブジェにしてある。先日ニュースでその死刑執行が報道された、繁華街にトラックで突っ込んだ死刑囚による、アニメ風の大きなモノクロの絵もあった。丹念にコマ割りされたその絵はなんらかのストーリーを伝える漫画のようでもあったが、整理されない印象を積み合わせにも見えた。』(P255〜256)

『余白を読む』とは、文章で言えば「行間を読む」という、当たり前の行為に過ぎない。

しかし、沼田の本を読んでいる、主にクリスチャンの読者のどれだけが、「行間」を読んでいるだろうか?

彼らは、「聖書」に「イエスが復活した」と書いてあれば、それをそのまま真に受けようとし、それこそが真っ当な信徒の態度だと疑わない人たちである。
当然、沼田による「上滑りな文章」、言い換えれば『ふわふわ、もふもふとした』耳ざわりの良い文章の、その「余白」を、あえて読む読者など、ほとんどいはしないだろう。

「かわいい」動物の絵を見て「かわいい」と評価することしかしない読者が、「余白」や、その「静止」し「宙に浮いて」「しっかり足が地についている感じ」のしない文章の「行間」を、どうして読むことなど出来よう。

沼田について、著名人である末井が『並外れた悩む力を持っている牧師だからこそ、人の悩みを受け止められるのかも。』とコメントしておれば、『かも。』は読み飛ばして、沼田が『並外れた悩む力を持っている牧師』であり『人の悩みを受け止められる』人だと、軽率にも信じてしまえるような「盲信者」に、「余白」から、そこに「秘められてもの」を読み取る力があろうとは、私には、とうてい信じがたいのである。


(2023年4月23日)

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