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大阪府立大学名誉教授・萩原俊治著『ドストエフスキーのエレベーター』をめぐって

(※  本稿文末に、本稿投稿の翌日付【補記】を追加。乞うご参照)

「大阪府立大学名誉教授」である、萩原俊治氏の著書『ドストエフスキーのエレベーター 自尊心の病について』のレビュー(1)を書き、先日それを「note」にアップした。

(1)〈自尊心〉病者の手記:萩原俊治『ドストエフスキーのエレベーター』

すると、翌日には、ご当人からコメントが寄せられたのだが、そのコメントは、肝心のレビューの内容にはまったく触れず、いかにも大学の先生らしく勿体ぶった、上から目線かつ無内容なのものだったので、それに対しての「応答」として、下の記事(2)をアップした。

(2)『ドストエフスキーのエレベーター』の著者・萩原俊治氏の、拙レビューに対するコメントへの「応答」

すると、萩原先生は、相変わらず、レビュー(1)は無論、(2)の記事の内容にも触れず、そこから話をそらすように「あれはどう評価しますか?」「これはどうお考えですか?」という、ネトウヨのよく使う「質問攻撃」を始めたのだ。

それを適当にあしらっていると、萩原先生の方も苛立ってきたのか、ほとんどネットストーカー的な粘着を初めて「なぜ答えないのか?」と、自分のそれを棚に上げて、しつこく「要求コメント」を投稿し始めたので、さすがの私も「七十歳を過ぎた、大阪府立大学名誉教授が、これか」と業を煮やし、ついに先方のブログ「こころなきみにも」に出向いていった、そのトップ記事「当ブログの題名の由来」のコメント欄に、コメントを書き込んだ。
それが、本稿末尾に収録した文章である。(※ コメントなので、タイトルなし)

ところが、萩原先生は、私のこのコメントを、あっさり削除して、まったく「応答」しようとしない。

私の「note」記事へのコメント投稿も止まったが、ご自分のブログの方でも、「削除」した事実について何も書かず、重ねて同じものを投稿すると、今度は、まるで無かったことのように、今はコメント欄を『コメントを受け付けました。管理者がコメントを承認すると表示されます』承認制に切り替えて、ダンマリを決め込んでいるのだ。

別に「削除」することや「承認制」にすることは、管理者(ブログ主)の権限の内だから、それ自体はかまわない。

しかし、こちらのコメント欄には、つまらない投稿をさんざしておいて、自分のところへの「不都合なコメント」は、素知らぬ顔で「削除」とは、あまりに「アンフェア」ではないだろうか? こちらは「匿名者」ではないのに、である。

と言うのも、萩原先生は、議論の内容ではなく、相手が「匿名」であるという点を捉えて、そこを攻撃するのを常套手段となさっているようで、私に対しても、すぐに「本名と経歴を開示してください」などと筋違いの要求をしてきたのだが、これについては、萩原先生が「わかりました」と引き下がらざるを得ない説明を、(2)の中で、しっかりして差し上げた。

だが、その(2)でも論じたとおり、「匿名」の問題とは、「アイデンティティの一貫性」の問題であり、「発言責任の引き受け」の問題である。
要は、「名義」を変えて、以前の発言についての責任逃れをしたり、以前の発言とはまったく違った主張をするとかいった、アンフェアな行動を問題としたものなのだ。

だから萩原先生は、ご自分のブログの記事「匿名について」をしばしば誇示して、議論以前に「相手は匿名で信用ならないから相手にしない」ということになさってきたわけだ。
だが、そんな「フェア=公明正大」大事であるはずの、萩原先生が、今回は「削除と沈黙」という裏テクを駆使して、ご自分の「発言責任」を回避しているのである。

しかし、萩原俊治先生は「大阪府立大学名誉教授」という肩書きを誇示なさる以前に、一人の「教育者」ではなかったのか?

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そんな方が、「言行不一致」の「発言責任回避」を、第三者には見えないかたちで、こっそりなさるというのは、いかがなものであろう。

先生は、現在も「ドストエフスキーを読む」という、有料講座(90分・全10回・受講料15,000円)を開講しておられるが、それにはテキストとして、先生の著書である『ドストエフスキーのエレベーター』を、個々に別途購入しなければならないという(※  トップ画像は昨年のもの。受講料が倍以上になっていますので、ご注意を)。

・「ドストエフスキーを読む」講座の開講について

つまり、先生自ら、受講生の目から、『ドストエフスキーのエレベーター』否定的評価を隠蔽して、自著を売りつけるようなやり口というのは、「公正」であるべき「教育者」として、恥ずかしくはないのか。
それが「大阪府立大学名誉教授」という、先生一個人では済まされない「肩書き」に、ドロを塗ることにはならないのだろうか?

本稿読者は、萩原先生が、下の私の「投稿コメント」を、なぜ「削除」して「隠蔽」するのか、その点を考えていただければと思う。
こうした情報を知らずに、15000円余支払って、わざわざ、ありがたい講座を受ける方も、現実に存在するのである。

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萩原俊治さん、こちらでは、はじめまして。
そして、こちらのブログをご覧の皆さん、はじめまして。

先日、こちらのブログ主である「大阪府立大学名誉教授」である、萩原俊治さんのご著書『ドストエフスキーのエレベーター 自尊心の病について』(イーグレープ)を読み、下の書評を書かせていただきました。

・〈自尊心〉病者の手記:萩原俊治『ドストエフスキーのエレベーター』
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n7b5cbc622a47

萩原さんが、私の「note」アカウントをフォローなさったのがきっかけで、私は萩原さんのご尊名を存じ上げなかったため、「どんな人だろうと?」と検索してみたところ本書に行き当たり、これも縁だと、早速読ませていただきました。

しかし、結果としては、私は本書『ドストエフスキーのエレベーター』を、肯定的には評価できませんでした。
ですが、評価は評価として正直に書かせていただいたところ、萩原さんから、同レビュー記事のコメント欄に、コメントをいただきました。

しかしながら、このコメントも、あまり感心しないものでした。
というのも、私が前記レビューで呈した「疑問」などは、いっさいスルーして、レビューには関係ないことばかり書いていらしたからです。

例えば、私が萩原さんの呈した疑問の一つとして、「回心」という宗教的タームの問題があります。

『ドストエフスキーのエレベーター』では、「自尊心の病」を克服するために必要なものとして、キリスト教的な「回心」ということが、重要なタームとして語られています。萩原さんは、ロシア語聖書を学ぶために「大阪ハリストス正教会」に通われていたそうですね。

しかし、私が気になったのは、萩原さんが、イエス・キリストへの「回心」といったことを強調しながら、しかし、ご当人は「洗礼」を受けた様子がなく、「回心」を「一般的なもの」に還元して、安易に利用してしまっていると感じられた点です。

私は、信仰を持たない無神論者として、「宗教」の素人研究をしており、キリスト教については「教会史」「聖書学」「神学」のなどの本を、それなりに読んでいる人間です。もちろん「聖書」も通読しています(私の「note」アカウントの「キリスト教関連」マガジンにまとめてありますので、興味のある方はご参照ください)。

もっとも、キリスト教の勉強をゼロから始めるとなると、どうしても「原始キリスト教」から「カトリックとプロテスタント」へという流れでの勉強が中心とならざるを得ず、「正教会」の方は、残念ながらほとんど手をつけられていません。
それでも「教会史」の勉強はしていますので、ローマ教会(カトリック=西方教会)と正教会(東方教会)が、なぜ分裂したかや、その際の「神学的な対立点」が奈辺にあったのか、また両教会の個性の違い程度は、おおよそは知っています。

まあ、その程度の素人ではあるのですが、そんな私が見ても、萩原さんの「回心」という言葉の扱いは、きわめて怪しいものを感じました。これは、洗礼を受ける気のない者の「宗教利用」なのではないか、と感じたのです。

実際、『ドストエフスキーのエレベーター』のレビューとして、次のようなことを書いている人もいました。

『ドストエフスキーや作品の評論というよりは、著者自身の自尊心の話と「自尊心の病」の説明のためにドストエフスキーとその作品をテキストとして使っていたので、あまり面白くなく、期待はずれでした。 ドストエフスキーの評論なら、亀山郁夫が翻訳した『カラマーゾフの兄弟』に記載されている解説や、山城むつみの『ドストエフスキー』の方が面白く、また興味深いです。 また著者の語るヨハネ福音書の一粒の麦のたとえや新約聖書に登場するペトロの否認の理由は、一つの仮説としては面白いのですが、説得力はない上に神学的な裏付けもありません。』
(https://bookmeter.com/books/18193300)

この人(多分、クリスチャン)も指摘しているとおり、学術的な裏付けもなく、もっぱらご自分の「解釈」を絶対化してしまうところが、萩原さんの議論にはあり、それは『ドストエフスキーのエレベーター』でも同じです。

萩原さんは、世界的に有名は作家や哲学者の解釈、あるいは小林秀雄や河上徹太郎といった人たちの解釈を、無造作に否定して、ご自分の解釈こそが正しいと、あまりにもナイーブに過信してしまわれいるところがある。
その証拠に、萩原さんがご自分の「解釈」を示された部分の文章の末尾は「である」「だ」と、異常に断定的で「ではないか」「ではなかろうか」といった、慎重さや謙虚さがない。

これは「聖書解釈」においても同じで、萩原さんのそれには神学(聖書学)的な裏付けがなく、単なる「文学的な解釈」の域を出ておらず、さらに問題なのは、そうした無造作さで、「回心」というきわめて重要なタームを、大半はキリスト教に縁がないであろう一般読者に向けて、「宗教的専門用語」の権威だけで書いている、という点です(ご承知のとおり、日本人キリスト教徒は、全人口の2パーセントにも満たない)。

萩原さんが洗礼を受け、信仰的確信を持って「回心」ということを、自身の体験からを語っているのなら、当事者の言葉として、それはそれでかまいませんが、洗礼を受けてイエスに帰依する気もないのに、ただ「鬼面人を威す」態の専門用語として「回心」という言葉を使うのは、そのキリスト教信仰に対しても失礼なことだと、私は考えます。
つまり、無信仰者は無信仰者の論理で、信仰者は信仰者の論理に徹して、自身の良心に誠実な議論すべきだと考えるです。

ところが、萩原さんは『ドストエフスキーのエレベーター』で、そのあたりを曖昧に誤魔化している。

だから私は、上にご紹介したレビューで、その点に疑義を呈したのですが、萩原さんのコメントは、その重要な問いをスルーしていました。
そこで、私は、そうしたコメントへの「応答」として、さらに、次の記事を書いてアップしました。

・『ドストエフスキーのエレベーター』の著者・萩原俊治氏の、拙レビューに対するコメントへの「応答」
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n6f42b407b726

応答としてコメントするのであれば、レビューの内容に即したコメントをすべきであると、ここで批判したわけですが、これに対する萩原さんのコメントは、やはり「回心」の問題への言及を避けつつ、「あれはどう思う、これはどう評価する」という、子供の「質問攻め」みたいなものに終始し、「これが、大阪府立大学名誉教授の内実か」と呆れもし、すっかりウンザリさせられてしまいました。

当初は、武士の情けで、こちらにまで書き込みに来るつもりはなかったのですが、萩原さんは、ご自分のことは棚上げにして「私の質問に答えてください」「なぜ答えないのですか」と、よくある「自覚のないストーカー」パターン(「俺のどこが悪い」「別れる理由を言え」と、つきまとう)にハマってしまい、もはや自制が効かない状態になられておられるようなのです。
それで仕方なく、萩原さんに近い方の出入りが多いであろうこちらに、事の経緯をご報告に参りました。

詳しくは、上の2本の記事と、そのコメント欄にありますので、是非、ひととおりお読みになられた上で、萩原さんに励ますなり、助言するなり、なさってあげてください。このままでは、萩原さんは「晩節を汚す」ことにしかならない。

繰り返しますが、「大阪府立大学名誉教授」の肩書きをぶら下げたままでの、自制心を失った狂態は、萩原さんお一人ではなく、間もなく閉学されるとはいえ「大阪府立大学」とその卒業生、そして萩原さんの教え子の皆さん名誉にも関わることなのだと、不躾ながら、そうハッキリと指摘しておきたいと思います。

> 萩原さん

私の上の二本の記事について、こちらで「反論」を書いてもらっても結構です。
ここでなら、お知り合いも見ていることでしょうし、私の記事のコメント欄のような、細切れの文章にはなりませんから、少しはまとまったご意見をお聞かせ願えるでしょう。
ともあれ、ご自分の「大阪府立大学名誉教授」の肩書きに恥じない「応答」をお願いします。

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(2022年6月18日)

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【補記】 大阪府立大学名誉教授の呆れた対応 
      (2022年6月19日 午前9時30分擱筆)

昨日、上の記事で、萩原俊治氏のブログ「こころなきみにも」への私のコメント投稿が、当初は反映された上で「即削除」だったものが、何度か投稿を繰り返したのち、半日ほどして、コメント投稿の「承認制」に切り替えられていた、とご報告した。
だが、日が変わったので、もしかしてと思い、先ほどコメント投稿をしたところ、コメントは無事に反映された。
つまり、萩原氏は、ブログのコメント欄を「承認制」のままにしておくのは、記事に書いたとおりで、私から「逃げている」というのがバレバレなので、こっそりと「承認制」を解除して、知らん顔をするつもりだったのだろう。

ともあれ、この文章を書き始める前の30分ほど前に、萩原氏のブログのトップ記事「このブログを始めた理由」「「ドストエフスキーを読む」講座について」の二つに、上掲のコメントを投稿したところ、「承認制」の断り文が出ることなく、即時反映された。
しかし、いま「午前9時20分」に確認したところ、早速「削除」されていた。
これは、コメント投稿があると、管理者である萩原氏のところへ「通知」が行くからで、萩原氏は、まさに今、パソコンかスマホを見ていた、ということであろう。

そこで、読者諸氏に伝えておこう
私は、ブログ管理者である萩原氏から、コメント禁止の要請を受けていないので、私には、コメントをする自由がある。だから、何度削除されようと、暇なときに、何度でもコメント投稿をする。

一一したがって、上の二つの記事のコメント欄に、私のコメントが無かったら、それは萩原氏が削除したのだということである。

(2022年6月19日 午前9時30分擱筆)

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