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『ドストエフスキーのエレベーター』の著者・萩原俊治氏の、拙レビューに対するコメントへの「応答」

一昨日(2022年6月15日)、私は、ここ「note」に、「〈自尊心〉病者の手記:萩原俊治『ドストエフスキーのエレベーター』」と題する、萩原俊治著『ドストエフスキーのエレベーター』の書評記事をアップしたが、本日(2022年6月17日)、この記事のコメント欄に、著者の萩原俊治氏がコメントを寄せてくださった。(コメント欄は、記事ページの末尾付近)

しかし、その萩原氏のコメントは、私の批判的論評に対する「具体的応答」にはなっていなかったので、せっかくの機会でもあり、私の感じた各種「疑問」について、ここで「質問」させていただくことにした。それが、本稿である。

なお、読者への便宜として、拙稿「〈自尊心〉病者の手記」のコメント欄に寄せられた、萩原氏のコメントを、以下の応答文の、冒頭に引用紹介しておく。

 ○ ○ ○

萩原俊治
2022年6月16日 23:26

萩原です。ご批判感謝します。
 わたしはアマゾンのコメント欄でヤマダ氏が拙著を誉めて下さっているのを知りませんでした。年間読書人様のご指摘を知って、改めて拙著のアマゾンのコメントを読み、ヤマダ氏が拙著を正確に読んで下さっているのを知って心から嬉しく思いました。
 わたしが年間読書人さんのnoteにたどり着いたのは、最近、『群像』で若松英輔さんが越知保夫(わたしの入っていた同人誌に入っておられた方)のことを書いておられるのを読み、共感したからです。年間読書人様の若松批判にも共感できるところがたくさんありました。しかし、もう少し寛容になれないものか、とも思いました。

萩原俊治
2022年6月16日 23:27

(続きです)
 ところで、若松英輔さんと越知保夫を結びつける小林秀雄が依拠しているのはベルクソンですが、ベルクソンが分からないと小林秀雄も分からないし、わたしの書いたドストエフスキー論も分からないと思います。
 そのことについては昨年出た『現代思想』のドストエフスキー生誕200年記念号に少し書きました(「ありのままに生きる――引きこもりとドストエフスキー」)。しかし、それでもまだ十分理解されないと思うので、もう少し詳しく書こうと思って、今、続きを書いています。活字になることがあれば、お読み頂けると有り難いと思います。

萩原俊治
2022年6月17日 06:52

言い忘れましたが、また、すでに書かれているのなら失礼なお願いになりますが、年間読書人様のご本名とご経歴をお教え願えませんか?なぜわたしがそのことにこだわるのかということについてはブログに書いた次の文章をお読み下さい。
https://yumetiyo.hatenablog.com/entry/30000109/1475413170

 ○ ○ ○

萩原俊治様、拙稿に対する、ご感想とご意見をくださり、ありがとうございました。

しかし、端的に申しますと、これでは、私の批判に対する「応答」にはなっておらず、まったく不満です。
せっかく、ご意見をくださるのであれば、書かれたことへの応答でないと、意味がないと思います。

私は、萩原さんの『ドストエフスキーのエレベーター 自尊心の病について』(以下『エレベーター』と記す)を1冊読み、萩原さんは私の「若松英輔批判」をいくらかお読みくださっているのですから、その範囲で、私との「対立点」について、「反論」できるるのではないでしょうか?

なのに、それを書かないでいて、挨拶だの自己紹介だのだけをするというのは、傍目にも馴れ合いにしか見えない、胡乱な話だと思います。

というわけで、私の方から、「質問」というかたちで、積極的に応答させていただきます。

(1)
まず、萩原さんは『コメントを読み、ヤマダ氏が拙著を正確に読んで下さっている』と書かれてますが、果たしてそうでしょうか?

たしかにヤマダ氏は、このAmazonレビューで、『エレベーター』について、絶賛に近い評価を与えていますが、それは『エレベーター』を正しく評価したというよりも、「亀山郁夫批判」者としての貴兄にシンパシーを覚えて、その線で、もろもろの疑問には目をつぶった上で、褒めているだけ、のように思えてなりません。

と言うのも、ヤマダ氏ご当人が最も高く評価し、文体が似てしまうほど読み込んでいる作家とは「小林秀雄」なのですが、その小林秀雄に対する『エレベーター』での貴兄の評価は、あまりにも低く、その扱いが雑だからです。

私も、小林秀雄には、いろいろ批判もし注文をつけてますが、しかし、それでも小林が極めて優れた人だということは認めていますし、それは私のレビュー「Don't think! Feel」を読んでもらってもわかることでしょう。

一方、そんな私からすれば、酷評した『エレベーター』の著者である貴兄が、小林をあのように雑に扱えるのは、小林が死んでいるから、としか思えません。つまり、よくあることですが、小林秀雄のような有力者に対しては「(生きていたら)言えなかったし、言わなかっただろう」、ということです。

そして、こうした、貴兄の小林秀雄への雑な扱いや評価を、私以上に不満を感じて然るべきなのが、言うまでもなくヤマダ氏です。
なのに、Amazonのレビューでは、ヤマダ氏は「小林秀雄評価」には一言半句触れないで、『エレベーター』を、その主張に沿って絶賛している。

これはどういうことかというと、「亀山郁夫批判」という点で共感できれば、小林秀雄の扱いについて不満に思うところがあっても、ご当人(萩原俊治)向けに書かれた文章では、それを伏せて、「無難」に絶賛してみせることができる、ということ(つまり、野合)ではなかったのか、ということです。
なにしろ、あのレビューは、著者に読まれる蓋然性が、きわめて高いですからね。あらかじめ「リップサービス」が含まれていても、何の不思議もありません。だから、あまり真に受けない方が、賢明です。

ところで、ヤマダ氏は、最新のnote記事「小林秀雄」(2022年6月13日付)を公開するに当たって、事前に私のnote記事「〈敗れ去る者〉への共感と哀悼:湯浅政明監督『犬王』」のコメント欄に、この記事の内容とは関係のない、次のような「連絡メッセージ」を書き込まれました。

『どうもです。コメントありがとうございます。関係のない話なんですが、今小林秀雄論を書いていまして、その中で「noteでひどい小林秀雄の解説を読んだ」という出だしがあるんですが、それは年間読書人さんの事ではないです。それだけ言っておこうと思いまして。特定できるようしてもいいんですが、論争するのも面倒なので、ぼやかしておきました。一応それだけご報告しておきます。』

私は、これを、

『そんなこと、気にしてちゃいけませんよ。/誰の文章か特定できない書き方をするとしても、少なくとも、読んだ人が、これは俺のことだとか、俺のことじゃないと、わかる書き方はしなければいけないと思います。』

とたしなめたところ、ヤマダ氏は

『諸々了解しました。』

と応答しました。

なぜ、私が『そんなこと、気にしてちゃいけませんよ。』と言ったのかといえば、それは、他人を批判するのであれば、堂々とするべきだし、それが誤解されたのなら、公明正大に説明すればいいだけだ、と考えるからです。

しかし、結果としてヤマダさんの記事「小林秀雄」は、誰のどういう文章が『ひどい小林秀雄の解説』なのかがわからない文章でした。

これは、ヤマダ氏が、批判した相手との「直接対話」を「面倒だ」と考えるからでしょう。ですが、私がこうしたスタンスに感じる問題点とは、これなら直接相手と対した時には「心の中で舌を出していながら、表面上でなら、それなりに褒める」といった「無難」な誤魔化しも、容易に可能だという事実です。
しかし、これをやったら、その人の思想は腐ります。
だから、そういう誤魔化しを自分に許しちゃいけない、無用の予防線など、むやみに張るべきではないとの意味で、ヤマダ氏に対し、上のように書いたのです。

そして、このように考えた場合、貴兄が、ヤマダ氏のAmazonレビューを「鵜呑み」にして喜ぶのは、いささか早計だと思うのです。
ヤマダ氏は、それなりに書ける方だから、不満を隠して、迎合的な賞賛を書こうと思えば、書ける人です。ですから、貴兄には、ヤマダ氏の「小林秀雄」論を、検討してみた方が良いとお奨めしておきます。

(2)
次に気になるのは、貴兄の『『群像』で若松英輔さんが越知保夫(わたしの入っていた同人誌に入っておられた方)のことを書いておられるのを読み、共感したからです。年間読書人様の若松批判にも共感できるところがたくさんありました。』という、「共感」の中身がわからない、その評価です。

そもそも、越知保夫が同じ同人誌にいたというのは、ほとんど何の意味もないことであるばかりか、むしろ、なまじ「知り合い」だからこそ「褒めたい」「褒めておいた方が得だ」といった打算が含まれかねない要素だと言えるでしょう。
いったい貴兄は、若松英輔の「越知保夫」論の、何にどのように共感したのでしょうか? またそれでいて、私の徹底的な「若松英輔」批判の、どこにどのように共感できた、というのでしょうか。

さらに、私に対し貴兄のおっしゃる、『(若松英輔に対し)もう少し寛容になれないものか』とは、若松のどういう「問題点」に「寛容」になれとおっしゃるのでしょう?

これも言うまでもないことですが、「寛容」とは、問題点をハッキリさせた上で、しかし、それは実際問題として簡単に直せるものではないから、なかなか直せないという点については「大目に見る」、といったことでなければなりません。

例えばこれは、若松英輔の信仰するカトリックの場合だと「神に許しを乞うのなら、まずはそれを正直に告白しなければならない」というのと同じです。
問題点をハッキリさせた上での反省をせずして、ただ「私にも諸々問題点があるけれど、その具体的な中身はおくとして、とにかく許してほしい」というのでは、それはむしろ、安易に許されるべきではないからです。
だから、本人に「反省克服」の意志が無いのなら、その問題点は、他の者が、その人のために指摘してあげなければなりませんし、批評における「批判」というのは、そのためになされるものなのです。

(3)
次に、貴兄のおっしゃる『ベルクソンが分からないと小林秀雄も分からないし、わたしの書いたドストエフスキー論も分からないと思います。』というご意見は、明白に、手前味噌な言い訳(自己救済)でしかありません。

貴兄は『エレベーター』の中で、どうしてわざわざベルグソンを引用し、それをご自分の言葉に「言い換えて」説明したのでしょうか?

もしも、その「言い換え説明」がベルグソンについての「必要十分な説明」になっていないのなら、そんな引用は、そもそも不必要なものであり、単なる「ペダントリ(衒学的ひけらかし)」でしかないでしょう。
というのも、言い換えて説明することができるのなら、最初からぜんぶ「自分の言葉」で説明すれば、それで事足りるからです。

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そもそも、ベルグソンを理解できなければ、貴兄の「ドストエフスキー論」を理解できないのだとしたら、たぶん、貴兄の「ドストエフスキー論」を理解できる人など、この世には数えるほどしかいないでしょう。
なぜなら、ベルグソンや小林秀雄を理解していると「自己申告をする人」は大勢いますが、誰もが納得して認める「ベルグソン理解」や「小林秀雄理解」というのは、一生ものの研究を必要とすることだからです。

例えば「シャストフによる誤ったドストエフスキー理解を追認する、小林秀雄のドストエフスキー理解は、当然、誤っている」という貴兄のご意見を支持する人は、ごく少ないでしょう。

貴兄は「自分の方が、小林秀雄よりも、ドストエフスキーを正しく理解している」と『エレベーター』で主張なさっていますが、そもそも私は、貴兄の『エレベーター』をまったく評価していないという点で、書き手としては、小林秀雄の方を高く評価していますし、『エレベーター』を絶賛した小林秀雄ファンのヤマダ氏だって、本音では、貴兄よりも小林秀雄を評価している蓋然性がきわめて高い。
ましてや、世間一般の文学ファンなら、大半は小林秀雄の方を高く評価するでしょうし、若松英輔や越知保夫、『群像』の編集部だって、同じでしょう。

つまり「自分は、誰それを、完全に理解している」とか「誰それは、理解できてない」とかいった「根拠提示」のない「断言」になど、何の意味もない、ということです。

したがって、『ベルクソンが分からないと小林秀雄も分からないし、わたしの書いたドストエフスキー論も分からないと思います。』というご意見も、意味のない自己正当化にしかなっていません。
つまり、読者に「無茶な前提条件を要求する」ものでしかない。

「ベルグソンと小林秀雄が完全にわからないと、私(萩原俊治)はわからない」という貴兄のご意見は、『エレベーター』やご自身への否定的評価を拒絶するための「二重の障壁」として、ベルグソンと小林秀雄を利用しているだけであり、超一流の「故人」を勝手に担ぎ出しての「権威利用」でしかない、ということです。

そもそも、貴兄が、まともな物書きなのであれば、ご自分の言葉で、ご自分の「ドストエフスキー論」を語るべきであり、それをしなければ、そんな文章に意味はありません。

実際、貴兄は『エレベーター』の中で、有名な思想家や作家を何人も引用し、その上で「私の言葉に言い直すと」といった具合に説明をしています。
しかし、簡単に言い直せるようなことなら、テーマであるドストエフスキー以外は、わざわざ引っ張ってくる必要はないのではありませんか?

逆に言えば、『エレベーター』から、そうした「権威」たちの言葉を除いて、「貴兄の言葉だけ」で読めば、読者は『エレベーター』に、どれほどの価値を見いだせるだろうか、ということです。

なにしろ、著者である貴兄自身が『ベルクソンが分からないと小林秀雄も分からないし、わたしの書いたドストエフスキー論も分からないと思います。』とおっしゃっているくらいだから、最低限、ベルグソンと小林秀雄を理解している人でないと、『エレベーター』はとうてい理解できないシロモノであり、多くの人にとっては「読むだけ無駄」な本、ということにしかならないのです。

それでなくても、200ページにも満たない薄目の本なのに、これでは『エレベーター』は「(不必要な衒学はあっても)必要な説明のなされていない」本であり、普通の読者には「そもそも理解不能な本」にしかなっておらず、読んで理解しろという方が無茶なのだ、ということになりますが、それでいいのでしょうか?

(4)
あと、私の『エレベーター』評で、重要なポイントとなるのが、貴兄は「キリスト教(特に「正教会=東方教会」)の洗礼を受けているのか(受けるつもりがあるのか)?」という点です。

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私は、貴兄が「洗礼を受けていない」と見てますし、そのつもりもないと見ています。
これは拙論を読んでもらえばわかることですよね。

シェストフのような著名な作家をはじめとした多くの人には、その自覚も乗り越えも困難な「自尊心という病」を、貴兄が稀有に克服しえたのは、貴兄が『ぺちゃんこ』体験の末に「回心」を得たからだ、と貴兄は『エレベーター』で主張されています。つまり「非凡な苦労をし、それで非凡な契機を得、非凡なことを成し遂げた」という、ご主張です。

しかし問題は、この「回心」という言葉が、「(洗礼の必要性を認識する、当たり前の)キリスト教的・回心」なのか、それとも、キリスト教用語を使っているだけの「意味不明な言葉」としての「回心」でしかないのか、です。
このあたりは、貴兄のご主張が、根拠のあるものか否かを判断する上で、とても重要なポイントで、要は、本気で「回心」したのか、「回心」という宗教用語の権威を「借りて」、読者を煙に巻いているだけなのか、が問われるているのです。

最初に指摘したとおり、貴兄が今回、私のnote記事「〈自尊心〉病者の手記:萩原俊治『ドストエフスキーのエレベーター』」のコメント欄に、寄せてくださったコメントには、「中身」がありません。

私は、同じコメント欄の、別の方へのレスとして、

『才能とは、突き詰める才能であり、努力する才能であり、妥協したり誤魔化したりしない才能です。それがあってこそ、秘められた才能も開花する。』

と明確に書いているとおり、世間並みの馴れ合いや誤魔化しは、こうした議論においては容認しません。
それでは、議論する意味がないし、それでは、何の進歩成長も望めないからです。

したがって、こうして「やり取り」するからには、私は貴兄に、必要な説明を求めます。
そしてそれに対して、貴兄が応答をできないのであれば、それは「応答に値する中身が、もともと無かった」としか理解できない、ということになります。

貴兄が『今、続きを書いています。活字になることがあれば、お読み頂けると有り難いと思います。』という「補足」文については、お書きになられた段階で、メールなどでご送付いただければ、拝読いたします。貴兄のご著書・ご論考を「批判」した者としては、そのくらいのことはさせていただきますが、お金を支払ってまで読みたいとは、もう思わないからです。

しかし、覚えておいて欲しいのは、私は、ハッキリさせられることはハッキリさせるために、時間を割いて読むのだ、ということです。
ですから、その「補足文」もまた、さらに「補足」を重ねなければ意味のなさないような、内容不十分なものであったならば、それも批判の対象になるとご理解ください。

ひとまず、私の『エレベーター』および、今回いただいたコメントに対する「疑問」を、上のとおり示させていただきましたので、その点についての明確なご説明を、期待して待ちたいと思います。

なお、このやり取りについて、貴兄のブログ「こころなきみにも」の方でご紹介いただけますなら、そちらのコメント欄で、このやりとりを継続するのも良いのではないかと思います。

ここ「note」のコメント欄は、長文が書けず、掲載あたっては細切れになってしまい読みづらく、今回のように、別立て記事にするなどの工夫が必要となるからです。
どうぞ、ご一考ください。

 ○ ○ ○

「私の匿名性について」

なお、私の「本名と経歴」を開示せよ、とのことですが、それは現在のところ、本職上の都合で不可能なので、貴兄のメールアドレスをご教示くだされば、個人的にお教えしましょう。

ですが、そもそも私は「匿名」ではないのですよ。
例えば、「本名で書かなければ、匿名」「本名を公開していなければ、匿名」かといえば、そんなことはないからです。

私は、高校生であった1980年頃から「田中幸一」名義で同人誌に文章を書いており、ネットを始めた2000年前後からはネット上では「アレクセイ」のハンドルネームを使い、Amazonでレビューを書き始めた際の2015年頃に、別の方とハンドルネームがダブるのを避けるために「年間読書人」を使い、それが現在に至っております。
そして、「田中幸一」「アレクセイ」「年間読書人」が、同一人物であることについては、折に触れて何度も明言しております。

これだけでは、それでも「匿名」ではないかと言われそうでが、そんなことはありません。

貴兄のおっしゃる「匿名」とは、要は、言論公表者としてのアイデンティティの一貫性を担わず、不都合になれば「名義」を変えて、責任逃れしてしまうような「卑怯な人間」のことですよね?
しかし、私の場合は「本名」よりも、ペンネームやハンドルネームの方が有名であり、こちらで文筆におけるアイデンティティの一貫性を、長年担保してきております。

つまり、諸々の都合で「本名」を公開できなくても、文筆名において一貫性を確保しておれば、それは文筆における「匿名」ではありません。
例えば、「司馬遼太郎」や「綾辻行人」がペンネームだからと言って、文筆家としての責任を引き受けていないという意味で「匿名」であり「卑怯」だとは、誰も考えないでしょう。それと、同じ意味で、私は「匿名」ではありません。

しかし、こう書くと「そんな有名人と、無名に等しいあなたとでは、わけが違う」と言われそうですので、私が「文筆」の世界で為してきた、ささやかな仕事を、あまり気が進みませんが、ご紹介しておきましょう。以下はすべて「田中幸一」名義です。

(1)『薔薇の鉄索 村上芳正画集』(国書刊行会)の編者・序文執筆
(2)竹本健治『トランプ殺人事件』角川文庫の解説
(3)本多正一『プラネタリウムにて 中井英夫に』(葉文館出版)の解説
(4)『中井英夫 虚実の間に生きた作家 (KAWADE道の手帖) 』への寄稿
(5)『中井英夫全集【12】月蝕領映画館』(東京創元社)の月報執筆

と、だいたいこんなところです。

そして、私は、この数十万倍(?)の量の文章を、アマチュアとして、ネット上に「常時」公表してきました。
それは、ここ7、8年ほど文章しか収めていない、ここ「note」の文章量をご覧いただいても、お分かりいただけるかと思います。

私はプロの書き手ではないので、自分の書きたいものしか書かないため、このように偏ったものになっており、これらも基本的には先方からの依頼によるもので、自分から求めて書かせてもらったものはありません。

それから、私が「田中幸一=アレクセイ=年間読書人」として、業界で「顔や本名を知られている」という証拠として、

(6)竹本健治『ウロボロスの基礎論』(講談社)の登場人物

をご紹介しておきましょう。

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私は、この「実名フィクション」に、「竹本健治」や「綾辻行人」や「島田荘司」などとともに登場しており、当然のことながら、登場人物であるミステリ作家の大半と面識がありますし、本名も住所も知られています。

そもそも、私が「匿名」で逃げ隠れするような人間であれば、何十年も付き合いのある、面識のある作家を、名指しで公然と批判するようなことはしません(相手が、こっそり個人情報バラして、嫌がらせをする可能性は排除できないからです)し、ネット右翼と喧嘩する際に、彼らを「匿名の陰でしか、ものが言えない卑怯者」呼ばわりしたりはしません。それでは「ブーメラン」の「自爆」になってしまいますからね(笑)。

したがいまして、私が、わざわざ「本名と経歴」を公開する必要はないと考えますが、それでも必要であるというのであれば、前記のとおり、メールアドレスなり電話番号なりをご教示ください。
それで、本名でも住所でも個人的にはお教えしますが、ただし、そのあとに万が一、私の個人情報が他に漏れた場合は、貴兄に責任を取っていただくということで、あらかじめ「誓約書」を書いていただきましょう。

実際、意見公表をするのに必要のない個人情報を出すことで、私が仕事上やプライベートで、筋違いの損失や被害を被る可能性があるからこそ、私は今のところ「本名」を出していないからです。
今どきは「本名」をネット上に公開すれば、住所や職業などの「個人情報が特定できる」ということくらいは、ご存知の上で「本名と経歴の公開」を要求なさっているのでしょうからね。

私が「本名」を出せない理由とは、例えばですが、私が「倉田卓次」氏と同様、現役の裁判官などであるため、文章を公けにする場合は、その「職業」上の制約があって、政治的見解などについて、自由に書くことができないから、といったことです。

つまり、私は、私個人の正直な気持ちや意見を表明するために、今のところ「本名」は伏せていますが、退職したら、いくらでも公開しますし、それももう長くて来年の4月までですので、私のペンネーム使用に「責任逃れ」の意味などないことを、これらの事実からしてご理解いただければと思います。

実際、私はこれまで、顔出しの場で、筒井康隆、島田荘司、小鷹信光といった人にも直接噛みついており、個人として逃げ隠れする気はまったくありませんから、貴兄の主催なさっている「ドストエフスキー勉強会」へゲストとしてお招きいただけば、そちらへ乗り込んでいって、顔出しで『エレベーター』論を語り、参加者の皆さんに私の論考のペーパーを、無料でお配りするくらいのことはしてもかまいませんよ。

私は、大阪の豊中市在住ですので、勉強会の参加費は出せませんが、交通費くらいなら出してもいいと思っているので、是非ご検討願えればと思います。
勉強会の参加者の皆さんも、貴兄の一方的な講義より、異論との討論の方が面白いのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

あと、こんなのもありました。

(7)芦辺拓『殺人鬼劇のモダンシティー』(東京創元社、初版単行本版)の登場人物のモデル

これは、私の「本名とペンネーム」をもじった名前の登場人物を、作者の芦辺氏がこの作品に無断で登場させたので、私はその非を鳴らして、芦辺氏の当時のブログだか掲示板だかに直接、謝罪要求の書き込みをしたその結果、文庫版ではその名前が削除された、という経緯のものです。
もちろん、芦辺氏とは、それ以前から面識があったのからなのですが、不用意にも断りもなく、私の本名という個人情報を公開したため、批判されることになった、というわけです。

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自慢話に聞こえると嫌なので、あまり書きたくないのですが、私は、綾辻行人のデビューに始まる「新本格ミステリ」界隈では、「アレクセイ=田中幸一」として、知らない者はいないほど有名な「危険人物」だし、多くは面識があって、前記の竹本健治著『ウロボロスの基礎論』では、作中で「傍若無人」と評されてさえいます。
無論これは、竹本氏との個人的な信頼関係があってのことで、竹本氏は、この小説に私を登場させる際「本名にする? 田中幸一にする?」と事前に確認なさったので、筆名として通用していた「田中幸一」で登場した、というわけです。
ちなみに、この作品には、作中論文として、私が同人誌に発表した論文が、そのまま全文引用されていますが、これももちろん、同人誌発表時と同じ「田中幸一」名義となっています。

そんなわけで、貴兄は私をご存じなかったのでしょうが、私は「ミステリ小説」業界を中心に、少しは知られた「アマチュア評論家」なのです。よって、「匿名」ではない、ということですね。
「田中幸一=アレクセイ=年間読書人」では、ぜんぜん匿名にはならないのです。


(2022年6月17日)

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