小林秀雄

 私は一時期、小林秀雄の文章ばかり読んでいた。一年ほど小林秀雄ばかり読んでいた。そのせいで、大きな影響を受け、自分の文章にもその影響が色濃く滲んでいる。…影響を受けすぎて、しまいには自分が考えた事なのか、小林が言った事なのか、わからなくなったぐらいだ。

 ところで、さっきnoteというサイトを見ていたら小林秀雄を解説するという記事があった。仏教を使って解説していたのだが、私から見てチンプンカンプンの、ひどい内容だった。書いている本人も、何だかよくわかっていないのだろう。

 それでは、私は小林秀雄をわかっているのか、と言えばおそらくわかっていると思う。私自身の経験で言えば、小林秀雄を理解できたのは二十四歳とか、それ以降だった。それ以前にも小林の本を何度か手に取っていたが、さっぱりわからなかった。何故、色々な文学者があんなに褒めるのがわからなかった。それがある時から、急にわかるようになった。

 参考までに、私が小林がわかるようになった経緯を書いておこうと思う。もっとも「わかる」という事は、公式を掴むという事ではない。それはある広がり、感覚的な実在性と、そこから自分が展開できるという自信が出てくるという事だ。この自信がある人とない人では文章の質が違ってくる。しかし、今は、はっきり言えば読者の質も低く、書き手の質も低いので、その二つを結ぶ、(レベルが低くてもいいんだよ)という隠れたメッセージが魔術のように伝染している。ほとんどのヒット作の裏にはこの魔術が背後に隠れていると言ってもいいだろう。…虚しさを感じながらも、自分の経験を書いておこう。

 

 私はずっと小林秀雄がわからなかった。しかし、気になる存在だったので、一年に一度くらい手に取っていた。そのたびに(わからないな)と跳ね返された。多分、そこまでの私は、小林秀雄を理解せずにこき下ろしている人や、理解せずに礼賛している人と同じだったのだろう。

 ある時、小林秀雄の「ランボオⅠ」という評論を読んだ。読み終わった時、やはり何を言っているのかわからなかった。さっぱりわからなかった。にも関わらず(ああ、これは確かに凄い)という感覚だけがあった。その時に、私は小林秀雄に入っていく事ができそうな気がした。

 それはただの感覚であって、本当にわかったわけではない、と人は言うのかもしれない。私はそんな他人の言葉を信じない。哲学というのは最後には、哲学者が魂の奥で深く握っている実在性、そこに根拠を置いている。私にはそう思える。どれだけ権威が動員されようと、『いいね』をつけられようと、多数者が褒めようと、自分自身の魂の奥底で「わかっているかどうか」という部分はごまかしようがない。

 自分の経験に戻るなら「ランボオⅠ」が分かったと思ってからは、小林秀雄をどんどん読んでいった。すっかり虜になって、岩波文庫の「小林秀雄初期文芸論集」を擦り切れるまで読んだ。繰り返し繰り返し読み、文体が私の中に染み込んでいった。

 それでは、小林秀雄というのはどういう人か、と言われれば、割合に簡単である。小林秀雄を読むといつもある一つの精神的実体が現れてくる。小林がわかるという事はその実体がわかるという事であり、小林を批判するとは、その実体を批判するという事だ。小林を称賛するとは、その実体を称賛することだ。吉本隆明だったか、「小林秀雄の作品は金太郎飴のようにいつも同じものが顔を表す」と言っているが、それは本当だ。小林秀雄は常に一つの実体にたどり着く。問題は我々がそれをどう受け取るか、という事だ。

 私はそれが小林秀雄の普通の読み方だと思っていた。賛否両論あるだろうが、吉本隆明や江藤淳が、先輩の小林秀雄の姿を見て、彼を越えようと苦心したのは正しかったと思っている。そこには、偉大な先輩の姿を認めながらも、彼を批判しつつ乗り越えようとする姿がある。結局、二人は乗り越えられなかったが、それは結果なので、非難しても仕方ない。ただ乗り越えようとした事自体は、評価されていいと私は思っている。しかし、最近はわけのわからないままに小林秀雄を礼賛したり、こきおろしてみたりで、本当に色々なレベルが下がっているのではないかと思う。

 話を戻そう。それでは、小林秀雄がたどり着いた精神的実体というのは一体何だろうか? …しかし、これも全て小林秀雄本人が語っている。だから「解説」も何もないだろう、と私は思う。私は「小林秀雄論」を書く気はない。小林秀雄が自分で自分を徹底的に解剖しているからだ。自分で自分を解剖しきって胸襟を開いて見せてくれている男に、今更下手な医者がメスを入れる事もないだろう。私にはそう思えて仕方ない。

 …だが、これも言わない事には話が進まない。「ランボオⅠ」は小林秀雄の初期の傑作評論である。私にはこの短い評論に小林秀雄の姿が全て詰まっていると思う。そうしてアルチュール・ランボーという詩人は何よりも、美という実体を、それ自体、抽象的なものとして取り出し、結集させ、そして破壊した男だった。小林がボードレールから始めて、ランボーに至る経緯には必然的な道筋がある。

 小林秀雄は、私に言わせれば「普通の文学者」だ。彼は文学者として、批評家として、普通の道を歩いただけだ(晩年の彼については私は批判的だが、それは後で述べる)。小林秀雄全集別巻2に、小林秀雄が精神分析のテストを受けた話が載っている。検査の結果として、小林秀雄は「奇をてらうことがなく、理知的であるにも関わらず、感情に動かされやすい人」という所見が述べられている。私はこの所見は完全に正しいと思う。

 小林秀雄は奇をてらうのを何よりも嫌っていた。彼が照れたり、韜晦したりする事はあっても、奇をてらう事はなかった。小林が奇をてらったレトリックを述べているというように思えるのは、彼を理解できないからであり、理解できない分、「奇をてらっている」と思いたいだけだ。小林秀雄は普通の、真っ当な事を言っている。しかしそれは先鋭化された芸術家、詩人としての真っ当さであり、詩人も芸術家も生活者からすれば倒錯した存在に見えるから、彼が好んで奇人変人をしているように見えるのだ。実際には、そうではない。しかし人は自分の認識を成長させるよりは、他人の姿が歪んでいると見る方を好む。

 それでは小林秀雄の真っ当さとは何か。それは文学とは何か、芸術とは何かと真摯に問い詰めていく姿である。その過程で、アルチュール・ランボーがまず、もっとも重要な存在として浮かび上がった。

 小林秀雄が悩んでいたのは自意識の存在だ。自意識がいかにして芸術と結びつくか、美と結びつくか、という事である。自意識はあらゆるものを、自らの意識下の存在に変えてしまい、自然性を失わせてしまう。その中でも美は、芸術は存在しうるのか。

 日本近代文学もそのように爛熟していた。単に世界を見て、外的世界に美を発見して喜んでいる時代ではもうなかった。芸術家は次第に世界から孤立し、自分の苦しい内面と苦闘する羽目に陥っていた。絵画で言えば、風景画から印象派を経て、抽象画に至る道である。日本文学もそのような道にあった。その過程で優れた自意識文学の創始者として現れたのが小林秀雄であり、太宰治だった。私はそういう評価をしている。

 そういう意味においてアルチュール・ランボーは、小林にとって完璧なモデルに見えた。もともと、小林はボードレールを読んでいた。ボードレールは美の空間を創造した。その空間というのは、それ以前の詩人と違い、抽象的なものだった。抽象的なものというのは、現実や自然から美を取り出し、意識下で結集したという事だ。ただ世界を見て、女の美しさや自然の美しさを歌う時代は過ぎ去っていた。詩人は都会の中で呻吟し、世界から取り出された美を自己の中に構成する。

 それは同時に、彼が世界から疎外される事を意味する。象徴派詩人の悲劇性は、彼らが世界から疎外されたいい証拠だろう。彼らは世界から奪い去ったものを集めて、自らの芸術空間を創造した。それは、彼らの肉体を犠牲とし、単なる言葉の結集としての詩を、精神の実体となさしめるものだった。…こうした過去は、詩を単なるかっこいい事柄と考えている人々には想像もできないだろう。

 アルチュール・ランボーはそこから更に一歩を進めた。…いや、一歩を進めたというより、最後を飾ったと言ったほうがいいのかもしれない。世界から遮断された純粋芸術空間とでも呼べるものは、人が長い間住める場所ではない。小林秀雄はランボーの中に、その疲労を読み取っていた。

 「彼は陶酔の間に、自らの肉を削ぐ如く、刻々にその魂を消費していた。」

 (「ランボオⅠ」 小林秀雄)

 ランボーは貧しい暮らしの中でも、精神の絶対性を信じていた。そこに絶対の自信を置いていた。現実においては貧者であろうと、精神の国の王であるーー彼はその道をそのまま進んだ。傲岸不遜な不良青年。だがこんな青年を世間が放っておくはずがない。現実世界と精神世界との葛藤は、ランボーと、ランボーに惚れ込んだ詩人のヴェルレーヌ、そして常識人であるヴェルレーヌの妻との三角関係に象徴されている。この三角関係の破滅は単なる痴情のもつれではなく、精神の王国を追う人間が辿らなければならない悲劇的道筋をそのまま現している。

 ランボーはボードレールのように、自分の王国に安住する事はしなかった。ランボーはボードレールよりももっと鮮烈な存在だった。どうして小林がボードレールよりもランボーに惚れ込んだのか。それは彼の資質によるだろう。彼もまた「どこか」に行きたかった。だが、小林秀雄はランボーよりもずっと常識的な人物である。しかし同時に、ボードレールの詩的宇宙に安住もしておれない存在である。そのジレンマは、飛翔していくランボーを詩的に描いていく行為に昇華された。

 それではランボーの飛翔とはどのようなものだったか。これも小林が全て書いている。ランボーは、世界から美を奪い、自らの体内で詩を生成した。それを世界に向けて発表しようとしたが、そもそも世界とは彼が詩を書く以前に、背を向けたものだった。今更、世界に何の用があるのか。他人に認められたとして、それがどうだというのか。他者、自然、現実ーーそれら全ては彼の詩を作る為に、彼の中で絞り出されるのを待っている素材に過ぎなかったではないか! …この哄笑が、彼をして詩の出版を途中で止めさせる事になる。彼は「地獄の季節」の自費出版を中途でやめている。

 ランボーはボードレールのように美的空間を作るだけでは満足しなかった。自然から奪って、詩を構成するとは、自然を破壊する事だ。自然を素材として、搾り取れるだけ搾り取って捨て去る事だ。そうして自然は破壊された。だが、ランボーは自分の作った空間に安住するのではなく、それ自体をも破壊しようとした。美的空間を作る為に行った破壊活動を、美的空間自体に応用した。

 小林秀雄が指摘するのはそれである。その刹那に現れる火花に、小林は何よりも感激したのだった。

 「全生命を賭して築いた輪奐(りんかん)たる伽藍を、全生命を賭して破砕しなければならない。恐るべき愚行であるか。しかしそれは、彼の生命の理論だった。」

(「ランボオⅠ」 小林秀雄)

 こうしてランボーの詩は最後の光を放つ事になる。それは芸術を絶対化しているだけの人間にはわからない光である。芸術を軽蔑しているだけの人間にもわからない光である。芸術を絶対視し、その実在性に入り込み、更にそれを破壊するという内在性に深く共感できなければわからない光である。

 芸術至上主義者は放浪するランボーに否定され、芸術軽蔑者はランボーの詩によって否定されるだろう。ランボーはそうした特殊な存在だった。その特殊性は、近代の文学、芸術といった概念が、歴史の中で爛熟化していく過程で現れたものだった。それは芸術としてはあまりにも純粋な結晶体として現れたが為に、次の瞬間には壊れていくのが必然であるような代物だった。

 ※

 小林秀雄はランボーの姿を批評という形で描いた。批評はそこで一つの詩となった。詩を語る言葉が、自意識という通路を経て、もう一つの言語の結晶体となる時、それ自体も詩とならざるを得ない。人々が難解と感じたのはこの点だ。…逆に言えば、これは、人々が優れた詩を美的に理解していると思っていた時、実際には理解していなかった事を意味する。詩の意味は深い。それを取り出した批評の言葉が難解になるのも当然だ。だが、難解を嫌う人が詩でも何でも趣味的にしか理解できないのは当然だ。

 小林秀雄はそのようにして、文学の極点をランボーに発見した。

 「彼は、逃走する美神を、自意識の背後から傍観したのではない。彼は美神を捕えて刺し違えたのである。恐らくここに極点の文学がある。」

 (「ランボオⅠ」 小林秀雄)

 この極点から、小林秀雄自身は動かなかったと言っていいだろう。彼は悲劇的な人生を送らなかった。彼の中に悲劇は存在したが、彼はそれを内的に繰り返す事に人生を費やした。

 小林秀雄が発見した自意識の延長、美の結晶はその後、どのように変化していっただろうか。ここから小林のベルクソン論やドストエフスキー論に言及するのは可能だ。小林がドストエフスキーにこだわったのは、ドストエフスキーはランボーよりも遥かに強力に自意識の問題を解いていたからだ。しかし小林には、ドストエフスキーが抱いていた宗教の問題が感覚的にはどうしてもわからなかった。小林は自意識の観点から、ドストエフスキーの作品を読み解くのに終始した。ドストエフスキーの作品の構成、骨格を成しているキリスト教の実質に、彼の言葉が触れる事はなかった。これは作者が日本人であるというやむを得ない事情もあった。

 (付言しておくが、小林秀雄においては言葉が実質性を獲得するのが目指されている。言葉をただの記号や概念とみなして「政治問題」や「宗教」に触れて、自分は過去の文豪を超えたと言ったような、他にも色々な馬鹿げた事を言っている一群の人々がいるが、彼らはただ言葉の上っ面で触れているに過ぎない。言葉に実質を与えるのは彼の「文体」である。文体を持たない、青白い成績優秀者の群れが文学や哲学を弄び、無知な、また無知に留まろうとする人々に手近な解答を与えてやっているのはなんとも陰惨な光景だ)

 その後の小林は色々な展開をしているが、それについて詳しくは触れられない。例えば代表作である「モオツァルト」や「実朝」といった作品では、『青い悲しみ』とでもいう感情が展開されているが、これは初期の自意識の変形である。この悲しみは戦争から来ているのか、母の死から来ているのか、どちらとも決める事はできない。しかしいずれにしろ、詩人というのは残酷な存在であり、悲しむとしても、彼は結局はその感情を慈しむのである。彼を悲しませる理由は世界に無限にあるだろうが、彼の悲しみとそれを見つめる視点はいつも一定である。小林の魂はいつもその『絶対』の中に常住していたのだ。

 最後に付け加えるなら、私は最後の大著「本居宣長」だけは評価できない。というのは、そこではドストエフスキー論やベルクソン論にあった内的葛藤が消えているからだ。彼が一元的な「物」や「経験」の論理に収斂していったのは私には不思議に思える。そこでは対象との格闘がない。小林秀雄の優れた批評は全て彼自身の魂が経験した格闘である。だが「本居宣長」には格闘の痕が薄いので、私は評価できない。この一点だけにおいては「教祖の文学」と言われても仕方ないかもしれない。

 私は日本近代文学は漱石・芥川・小林・太宰の四人を見ておけばいいだろうと思っている。森鴎外に関しては漱石の存在でカバーできているものと考える。また、芥川の存在を太宰がカバーしていると考えるならば、漱石・小林・太宰の三人が残る。

 日本近代文学は、太宰の自死によって終わった、と私は考えている。川端・三島の自死で終わったという見方もできるが、私は太宰の自死の方を取りたい。太宰の自死と並ぶのが、小林秀雄の退行で、小林は社会に対する感受性を失い、自分の中にどんどん引っ込んでいった。それは、日本近代文学が保有していたある空間が完全に消失した象徴なのだと思う。文学をする場が社会から消失したのだ。

 戦後にも三島由紀夫や大江健三郎など考える事はできるだろうが、太平洋戦争の勃発と敗戦によって日本近代文学は終わったと私は見ている。その後に現出したのが我々が存在している大衆社会である。こうした社会においては文学は難しい。精神の国などといったものは冗談でしかない。「現実を見よ、本物の楽園があるじゃないか! そんなまやかしは放っておけ!」と説教されるのがオチだ。そうして我々はディズニーランドに連れて行かれたり、ソーシャルゲームを友人と一緒に始めたりする。

 小林秀雄は一種の宿命を辿ったわけだが、それは文学という宿命を見つめる自意識という、複雑な形で現れた。これは日本近代文学が爛熟していた事から現れたのだろう。漱石の作品を読むと、登場人物の内的意識はそれほど複雑にはなっていない。一方、小林秀雄や太宰治には内省する自意識の問題が強く現れた。彼らの作品に批評性が強く現れるのはその為だ。

 同時に、彼らにおいては自意識(人間)が、世界の中を運動していくというドラマ性は減衰される事になった。簡単に言えば、漱石のような長編小説を太宰治は書けなかった、という事だ。というのは、自意識を外側から規定していくものが何であるかが、自意識内部の豊富さが増大していくにつれて、わからなくなっていったからだ。

 これで言いたい事は言ったわけだが、最後に私が小林秀雄をどんな風に読んでいるのか、そのイメージを披露して終わろうと思う。これから小林秀雄を読もうという読者の参考になるかもしれないから。

 小林秀雄にはゴッホ論がある。小林のゴッホ論は、小林の作品の中ではそれほど出来がいいものではない。小林秀雄は系統的に、きちんとしたものを書こうとしている時はあまり良いものは出て来ない印象がある。「ドストエフスキイの生活」も、きちんとした批評にしようとしてかえって小林の良さが消えてしまっている。それよりも断片的な、他のドストエフスキー論の方が出来は良い。

 ゴッホ論はそうした作品だが、私はそれでも、序文のある文章を読んで深く満足した過去がある。その序文の文章だけで満足して(もうわかった、それ以上はいらない)と思ったほどである。この感覚が伝わらなければ、小林秀雄は結局、面白くもなんともない難解な、変な事を言った人という事にしかならないのではないか、と思ったりもする。文章ーー文学というのは、ある人々には雷が直撃したような印象を与えるのだが、それはそうしたものを無意識的に望んでいる人にやってくるもので、望んでいない人にはどんな雷鳴も響く事はない。それはそもそも、最初から作られている材質が違うのではないか、と私などは考え込んでしまう。

 「今でももちろんあると思うが、美術学校に彫刻家の参考室という部屋があり、ギリシアやルネッサンスの名作の見事な模造が並んでいる。僕は青年時代、気が滅入ってやり切れなくなると、よく其処へ出かけたものだ。あの驚くべき部屋が公開されているのを知る人は稀だったらしく、僕は其処でいつも独りであった。堂々たる巨像が、所狭しと乱立した、小汚いひっそりとした部屋には、いつも得体の知れない風が吹いているように思われた。」

 「僕は楽しかったのかそれとも辛かったのか、解らない。恐らく喜びも悲しみも、怒りも疑いも、青年期の一切の思いが嵐の中で湧き立っていたのだろう。僕は、ミケランジェロの《夜》の前に立ち、僕に似た幾多の憐れな青年の手に撫でられて黒光りのした石膏の下腹を撫で、いつかイタリイに行き、メディシの墓の前に立てる時があろうとも、現在の興奮はもはやあるまいと自分に誓うように呟いたものだ。」

 「彫刻の何たるかを始めて僕に教えてくれたのミケランジェロだ、そう言ったところで誰も信用してはくれまい。構わない。他人が信用してくれない言葉を、人は、やがて自分でも信用しなくなる。僕にはそちらの方が恐ろしい。」

 (「ゴッホの手紙 (序)」 小林秀雄)

 

 

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