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『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』 : 自分の頭で考えろ

書評:梅田孝太『ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』(講談社現代新書)

講談社現代新書の「今を生きる思想」シリーズの第一弾として、ハンナ・アーレントの紹介書とともに、昨年(2022年)9月に刊行された一書である。
このシリーズは、これまでに、ミッシェル・フーコー宇沢弘文エーリッヒ・フロムなどが刊行されており、おおよそ月に1冊くらいの刊行ペース。無論、著者である日本人学者は別々で、扱われている思想家の専門的研究者である。

この「今を生きる」シリーズがどういうシリーズなのかというと、それは本書のカバー背面にも紹介されている「現代新書100(ハンドレッド)」シリーズと、同じものだと考えていいだろう。

『「現代新書100(ハンドレッド)」とは
(1)それは、どんな思想なのか(概論)
(2)なぜ、その思想が生まれたのか(時代背景)
(3)なぜ、その思想が今こそ読まれるべきなのか(現代への応用)
テーマを上記の3点に絞り、本文100ページ+αでコンパクトにまとめた、「一気に読める教養新書」です。』

ということである。

『テーマを上記の3点に絞り』と書いているが、普通の頭があれば「著名思想家の紹介するのに、たった100ページで、そこまで詰め込むのは無理だろう」と考えるはずだし、それが至当だ。こんなこと、できるわけがない。

したがって、本書は大雑把に言って、「入門書」以前の「入門書」、「入門書の口絵」みたいなものだと考えたらいい。
『ウルトラ大怪獣入門』の「口絵」みたいなもので、それで読者をとらえて、さらに興味がある人は「本文(説明文)」まで読むと良い、という機能を与えられた、「本文(入門書)」ではなく、あくまでも「口絵(入門書の入門書)」である。

だから、本書を読んで「内容が浅い(不十分)」だとか「物足りない」とか言うのは、およそ信じがたいほどの、見当違いである。本書は「口絵」なのだから、「口絵」に「説明文」を求めるのは、お門違いなのだ。

だが、それでも、そんな的外れな要求をする人が、稀にいる。
例えば、Amazonのカスタマーレビューを見ると、次のようなものがある。

『 ブラスティー
「ショーペンハウアーの思想ではない」(5つ星のうち1.0)
 2022年11月11日

はっきり言ってガッカリされた。
著者の感想などイラナイ、純粋にショーペンハウアーの思想が知りたいのだ。
特に呆れるのがP.82「注意しておいてほしいのは、この書物には男尊女卑や人種差別が含まれているということだ。・・・「幸福について」は、批判的意識をもって読む必要がある、取り扱い注意の書物・・・」などと言う入門者に変な先入観を植え付ける記述があり、それこそ「取り扱い注意」である。

こんな陳腐な入門書の体裁を取った著者の偏向イデオロギーこそ、排除すべき危険思想であると思う。
純粋にショーペンハウアーの原著を読んだ方が、偏ったイデオロギーに取り憑かれないで済むというもの。
まず原著を読んでから、こう言った類いの解説本を読んだ方が良い。』

そもそも、ショーペンハウアーの思想を知らないから、こんな見るからに薄っぺらい「入門書」を読んだのであろう「ブラスティー」氏が、どうして、いちおうは専門家である著者を批判して、『ショーペンハウアーの思想ではない』などと言えるのだろうか。
もちろん、それは、「ブラスティー」氏が、素人は素人なりに、無知は無知なりに、「知ったかぶり」をしたいからに他ならない。
普通に考えれば、こんな薄っぺらい本で、偉大な思想家の思想が語り切れるものではなく、おのずとそこには本書著者の「理解」が語られるしかないというのは、分かりきった話なのだ。
だが、「哲学オタク」というものは、おおむねこういう「知ったかぶり」をしたがるものなのである。

『 mountainside
「シェリング、フィヒテの域を出ていないのでは?」(5つ星のうち4.0)
 2022年9月18日

①100頁という制約がショーペンハウアーの哲学の解説を分かりにくくしている。もっと詳しく哲学的内容を論じるべきだ。
②意志=表象=物自体=本質という内容の説明が足りないのだ。現象を純粋理性の先天的カテゴリー(悟性)で捉えるのがカントであるが、何かが意識に現れるのが意志であり、意図せざる認識が現象学の出発点である。直観を知的分析することによって、事象そのものに迫るのがフッサールの現象学的還元の哲学的方法である。
③カントとフッサールの現象学的哲学に対峙する必要があるのだ。でなければショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』は、シェリングの神的な知的直観と同じものになる。
④意志が欲望であり、フッサールでは意識に現れる認識作用(ノエシス=ノエマ)が欲望である。例えば、『ヘーゲル精神現象学入門』においてアレクサンドル·コジェーヴは、自己の欲望を他者の欲望と見なし弁証法的思考により論じた。
⑤厭世的な人生哲学は、仏教やキリスト教哲学に接近するが、欲望まみれに生きるしかないのが現代の人間である。ショーペンハウアーの哲学が心に響くところまで書いてほしかった。
しかし、入門書としては最適だ。』

これなども、典型的な「哲学オタク」の文章である。
そもそも、最初の『100頁という制約がショーペンハウアーの哲学の解説を分かりにくくしている。もっと詳しく哲学的内容を論じるべきだ。』という意見からして、本質的にズレている。
前記のとおり、このシリーズは『100頁という制約』を前提として書かれたものなのだから、そうしたものとして読まなければならない。サッカーの試合を見て「手を使うべきだ。人間の機能が生かされていない」と評するのと大差がないからである。

ちなみに、そのあとの「ご意見」こそが、いかにも「哲学オタク」らしい「ご高説」である。要は「自分は、こんなによく知っているんだよ」と「自慢」したいのだ。
しかし、そもそも、こんな薄っぺらい本を読もうかという、思想・哲学の素人読者に向かって『シェリングの神的な知的直観』とか『アレクサンドル·コジェーヴ』がどうとか語ること自体が、根本的にズレている。
要は、そこらで遊んでいる小学生を捕まえてきて、「日本文学史においては、二葉亭四迷の」云々とやりだす、アブナイおじさんみたいなものでなのある。
繰り返し「そもそも」論で申し訳ないが、そもそも、そんなに思想・哲学にお詳しいのなら、どうして今更、こんな薄っぺらい「入門書の入門書」なんかを読んだのだろうか。ご自分が、専門家に注文をつけられるほど詳しいと思っているのなら、読むべきは、こんな「入門書の入門書」ではなく、もっともっと専門的な研究書なのではないだろうか。
だが、こんな本を読んでいるようでは、そんな専門書まで読んでいる暇はないだろうし、このレビュアー氏が求めているのも、そういうことではないのであろう。要は「自慢話のネタにできる本」を探して読んでいるということであり、それはそれで一種の「(気散じのための)娯楽」ではあろうから、悪いとまでは言わないが、少なくとも「思想・哲学」とは、まったく無縁のものだというのは、言うまでもあるまい。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本書は「ショーペンハウアーって、名前は聞いたことがあるけど、どんな思想家なんだろう?」といった、私のような読者が読むべき本である。
『ウルトラ大怪獣入門』の中身まで読む気はないが、ひとまず怪獣の「外見的特徴」くらいは知っておきたいというような読者、口絵だけでも「勉強になる」読者のための本であり、本シリーズは、そういうものなのだと理解するのが至当なのだ。

ところで、私は、以前の別のレビューで、刊行前の「このシリーズ」を、次のように紹介している。

(※  講談社現代新書の千葉雅也著『現代思想入門』は)本年(2022年)3月に発売されて以来半年、とてもよく売れている本である。

あんまり売れているので、講談社現代新書は、若手の哲学研究者に書かせた「薄くて、わかりやすくて、役に立つ思想家入門書」のシリーズ化を進めているそうだ。

・新書は絶滅危惧種? リスク覚悟で誕生する「100ページ新書」講談社編集長が“若い人へ間口を広げたい”理由(「Yahoo!ニュース」)


『 講談社現代新書の青木編集長によると、100ページ新書とは、約250ページとされる新書のページ数を最大で128ページぐらいに減らすことで、読者が“イッキ読みできるようにした新書”のことだという。

 Web動画やSNSなどのコンテンツ消費が増え、本を読む時間が少なくなっている現代社会で“若者への新書の入り口”として企画した「100ページ新書」。しかし、実際に出版するうえでは、100ページゆえの「文字制限」が課題となった。
(中略)
 ページ数を少なくした分、通常より厚い紙を使用し、値段の割高感をフォローしたという。9月13日の発売に向け、万全の準備を整えたもののSNS上では「100ページでは内容が乏しいのでは?」といった声も上がっている。こうした意見について、青木編集長は「内容は薄くない」と断言する。

青木編集長「厳しいご意見も大事だと思っているのですが、書いていただいた著者の名誉のためにもこれだけは申し上げたいのですが、内容は保証します。ページ数は薄いものを目指しましたが、内容も薄くしたわけではありません」
(中略)
 ニュース番組『ABEMAヒルズ』に出演したコメンテーターのBuzzFeed Japan編集長・神庭亮介氏は、100ページ新書について「サッと情報を仕入れて役立てたい人が“本当の教養”に触れられるアイデアだと思う」と語る。

神庭氏「いまの時代、情報を仕入れるツールとしてYouTubeなどを見ている人は結構多い。ライターのレジーさんは、短時間で“ビジネスに役立つ教養”を吸収しようとするような風潮を『ファスト教養』と呼んでいます」

「たとえばネット掲示板でも、 “今北産業”といって『3行でざっくり要点を教えてくれ』という意味のスラングが昔から使われている。100ページ新書は、そういったファスト教養、今北産業的なものと“本当の教養”の間をブリッジするためのアイデアなのかなと思いました」』


問題は『100ページ新書は、そういったファスト教養、今北産業的なものと“本当の教養”の間をブリッジする』ためのものとなりうるのか、ということだろう。
例えて言うならば「ラノベが、本格的な文学作品へのブリッジ」にできるのか、ということと似ていると思う。

これは、読者の方に「難しいものに挑戦する意欲がないのなら、こちらから読者の水準に合わせて、取っつきやすいものを提供し、それを本格的なものへのブリッジにしよう」という「けんご@小説紹介」的なイマドキの考え方なのだが、一一そううまくいくのだろうか?

そもそも、作家なり編集者(出版社)なりが「読者の水準に合わせて、取っつきやすいものを提供」しようとするのは、本当に「本格的なものが読んで惜しいから、その方便として、わかりやすいものを提供しよう」という意図からなのか、それとも「本格的なものは売れないから、売れるものを提供しよう」ということなのか、どっちが、より「本音」に近いのだろうか?

見てのとおりで、このシリーズを企画した担当編集者は、本シリーズを、『今北産業』的な「ファスト教養」を満たすものである同時に『“本当の教養”の間をブリッジする』ためのものとして企画した、と言いたいらしい。それで、方便として、これまでにあった「入門書」よりも、さらに敷居の低い「入門書の入門書」を企画した、と言うのである。

だが、むろん私は、講談社現代新書担当『青木編集長』の、

「厳しいご意見も大事だと思っているのですが、書いていただいた著者の名誉のためにもこれだけは申し上げたいのですが、内容は保証します。ページ数は薄いものを目指しましたが、内容も薄くしたわけではありません」

という言葉を信用してはいなかったし、本書『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』を読んで、その懐疑は「裏付けられた」。

そもそも(また「そもそも」で申し訳ないが)、それまでの「入門書」の半分だか三分の一だかの枚数で『内容も薄くしたわけではありません』って、それでは、これまでの入門書の著者に失礼ではないか。
彼らは、無駄に、2倍だか3倍だかの分厚い本を書いていたとでも言うのだろうか?(青木編集長は、これまで講談社現代新書に、思想・哲学の入門書を執筆してくれた著者たちに、土下座して謝罪すべきであろう)

そんなわけで、本シリーズの、本当の(隠された)主目的(狙い)は、『今北産業』的な「ファスト教養」ブームに乗って、ひと儲けしようということに他ならない。

もちろん、このシリーズを「入門書」として『“本当の教養”』へと進んでいく読者がいくらかでもいれば、それは歓迎すべきことではあろうが、それが「主目的」ではない。この「ファスト教養」の時代に、そんな「僥倖」を「主目的」にしていては、商売にならないからである。

 ○ ○ ○

で、本書のサブタイトルは『欲望にまみれた世界を生き抜く』となっている。

「思想・哲学」の世界でさえ、このような「資本主義リアリズム=貪欲資本主義」から逃れて「象牙の塔」に引き籠ってなどいられない以上、『欲望にまみれた世界を生き抜く』ためには、ある程度の「処世術」も必要である。
本書著者の梅田孝太は、多分、このように自覚した上で、本書を書き、この皮肉なサブタイトルをつけたのだろう。シリーズ第一弾の作品であるにも関わらず、だ。

だが、この「皮肉な態度」は、いかにもニーチェ研究家であり、ニーチェに多大な影響を与えたショーペンハウアーにも詳しい人らしい態度だとも言えるだろう。
著者の梅田は、こんなことを書いている。

『(※ ひとつの哲学的伝統として)哲学的に考えることとは、ことがらの本質を客観的に解明することによって、非理性的な欲望を鎮め、心を乱してしまう臆見を解体する営みだったといえるだろう。この伝統のうちにショーペンハウアーを位置づけられるのだとすれば、彼が示してくれている幸福への道のりとは、何かを手に入れて欲望を満たすことなのではない。むしろ「意志(※ 理性以前の、生的欲動)の否定」の立場から、苦しみの源泉となっている臆見(※ 例えば「人から尊敬されたい・尊敬される人間になるべきだ」といった欲望)を客観的な議論によって解体し、欲望を鎮静化させる道のりである。ショーペンハウアーの哲学は、「意志の否定」という(※ ショーペンハウアーにおける)真理に照らして、過ぎたものを求めることを「あきらめ」、より重要な幸福の種が何なのかを「あきらかに」することで、心を穏やかに生き抜く術を教えてくれるのである。
 以上のことから、(※ 邦題著作)『幸福について』に最もよく表現されている晩年のショーペンハウアーの思想は、〈処世の哲学〉として特徴づけることができるだろう。若き日の〈求道の哲学〉は、俗世を逃れて「意志の否定」という無の境地を彼方に求め、身を賭して完全なる自己放棄を目指す、求道の哲学だった。これに対して晩年の〈処世の哲学〉は、「意志の否定」という真なる認識をあらゆる物事に応用し、もはや欲望に惑わされることなく堂々と俗世を闊歩する、老練なる処世術なのである。』(P91〜92)

ショーペンハウアーは、生きることは「苦しみ」に満ちていると考え、その「苦しみ」や「迷妄」は、「意志(※ 理性以前の、生的欲動)」から来ていると考えた。「意志」が私たちを引き回すから、苦しまねばならないのだと考えたのだ。そして、その「苦しみ」であり「迷妄」を乗り越えるためには、「意志の否定」ということを行わなければならない、ということになる。
しかしこれは、ごく稀にしか存在しない「超人的な精神力の持ち主」にしか実行し得ないことであるから、それ以外の、自分を含めた「凡人」は、そうした「煩悩解脱」はできないまでも、賢明に「過ぎた欲望を諦める」ことによって、(比較的)心穏やかに生きるべきなのだとそう考え、その助言として『幸福について』を書いた、というのが、本書著者である梅田孝太の「ショーペンハウアー」理解である。

つまり、梅田は「自分のような凡人が、この資本主義の世の中を渡っていくには、意にそわぬ要求であろうと、時にはそれに応じなければならないこともある。たった100ページで、ショーペンハウアーの思想を多角的に紹介しろって、そんなことできるわけがないと、喧嘩するのは簡単だが、現実にはそうも言っていられないから、そうした自分の反骨的な欲望は諦めて、方便として、それなりの仕事をするのも悪くない。それがしたたかな処世術なのである」と、おおよそそんなことを考えて本書を書いた。
しかし、そうした本音があるからこそ、皮肉を込めて、本書のサブタイトルを「欲望にまみれた世界を生き抜く」としたのであろう。

また、梅田は、こんなことも書いている。

『 自分で考えること(Selbstdenken)、それが何かを考えるときに最も重要なことなのだ。「読者」でいることに慣れすぎているわたしたちは、すぐに最短距離で他人の思想を学ぼうとしてしまう。だが、自分の言葉で表現できるようになる瞬間が来るまで、花が咲くのを春まで待つように、時間をかけたほうがよい。哲学的な思索は「急がば回れ」だということだ。でなければ、本当に何かをわかったことにはならない。視点を変えれば、ショーペンハウアーが書いたものをわたしたちがありがたがるのはおかしいということにもなるだろう。これがおかしいと思えてこそ、ショーペンハウアーが言っていることがわたしたちに伝わったということになる。本なんて読まずに、自分で考えたほうがいい。こうしたことを明け透けに言ってのける遠慮のなさにも、ショーペンハウアーの文章の魅力がある。』(P78)

ここで梅田が言っているのは「こんな薄っぺらい本1冊を読んだだけで、ショーペンハウアーの思想を理解しようだとか、あるいは、理解できたなんて思うなよ。ファスト教養なんて、糞食らえだ!」ということであり、さすがは、ニーチェ・ショーペンハウアーの徒だと言えるだろう。

それにしても、先に紹介した、Amazonカスタマーレビュアーたちは、梅田のこうした言葉を読んだ上で、まだあんなことを書いていたのだから、彼らがいかに「思想・哲学」には縁遠い、単なる「オタク」なのかがわかるだろう。
そもそも(また「そもそも」で恐縮だが)、彼らの文体を見れば、それがいかに「権威主義的」なのもであり「自己顕示欲」という「欲望」に振り回されてのものかもわかるはずだ。

そして、そんな彼らが、

『自分の言葉で表現できるようになる瞬間が来るまで、花が咲くのを春まで待つように、時間をかけたほうがよい。哲学的な思索は「急がば回れ」だということだ。でなければ、本当に何かをわかったことにはならない。視点を変えれば、ショーペンハウアーが書いたものをわたしたちがありがたがるのはおかしいということにもなるだろう。これがおかしいと思えてこそ、ショーペンハウアーが言っていることがわたしたちに伝わってたということになる。』

なんて「皮肉な言葉」を読まされたら、その「皮肉」が理解できないまでも、「なんとなく、腹が立つ」というのは当然のことだったのである。

ともあれ、こんな薄っぺらい「入門書の入門書」を読む程度の素人なのであれば、何もショーペンハウアーについて十全に学べなくても、本書著者である梅田孝太からでも、学べることがあれば学べば良いのである。

けれども彼らは、その「過剰な自尊心」という「欲望」に振り回されているから、「日本人研究者ごときに学ぶことなどない」と、そう本気で思っているのであろう。

まったく、なにものにも学ぶことのできない、可哀想な人たちだと、そう言う他ないのではないだろうか。


(2023年1月21日)

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