見出し画像

クリストファー・ボルグリ監督 『シック・オブ・マイセルフ』 : 「怪物」とは何か?

映画評:クリストファー・ボルグリ監督『シック・オブ・マイセルフ』(2022年・ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・フランス合作)

『最狂の承認欲求モンスターの誕生』という惹句があり、主人公の女性シグネ(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)がスマホを構えている上半身ショットがポスターにもなっていたので、てっきりネットで目立ちたくて、あれこれやる主人公のドタバタコメディかと思ったのだが、少し違っていた(なお、覆面については見落としていた)。

たしかに、主人公が承認欲求の塊で、目立ちたいがためにあれこれやるというのは事実なのだが、それが笑えないのである。
この作品の中核をなすエピソードは、何としてでも目立ちたいシグネが、ネットであれこれ探索してついに発見した、違法薬物による副作用被害であった。ロシア製の、精神安定剤だか何だかの副作用によって、顔や体に醜い発疹や腫れや爛れなどの重篤な皮膚炎が発生したと、自身の写真をアップして告発している人たちの記事を見つけ、シグネは「これは使える」と思いつく。

『シグネの人生は行き詰まっていた。長年、競争関係にあった恋人のトーマスがアーティストとして脚光を浴びると、激しい嫉妬心と焦燥感に駆られたシグネは、自身が注目される「自分らしさ」を手に入れるため、ある違法薬物に手を出す。薬の副作用で入院することとなり、恋人からの関心を勝ち取ったシグネだったが、その欲望はますますエスカレートしていき――。』

『シック・オブ・マイセルフ』公式ホームページより)

彼女に気のある男友達に、その薬の入手を依頼し、まんまと大量のそれを入手した彼女は、副作用のある薬物だと知りながら、それをわざわざ大量服用して、みにくい皮膚炎をひき起こす。
だが、当然のことながら、副作用はそれだけでは終わらない。最初は強烈な誘眠作用で、カフェ店員の仕事に差し障る程度であったのだけれど、やがて、片脚が引き攣ってしばらく歩けないなどの副作用なども出、ついには昏倒して入院することにもなる。

だが、彼女は、そんなことにはまったく頓着せず、狙いどおりに醜い皮膚炎が現れると、その自撮り写真を添えた「薬物被害」を訴える記事をネットにアップし、社会正義のために闘う勇気ある被害者を、演じようとする。

ところが、それだけでは反響がイマイチだと気づくと、友人のジャーナリストに無理やり自分を売り込んで記事を書かせ、そこで多少は目立つと、今度は「障害者ファッションモデル」として自分をその種の事務所に売り込み、事務所との契約をとりつけてしまう。
そんなシグネの成功妄想はどんどん膨らみ、彼女の頭の中では、すでに彼女は自伝をベストセラーにした世界的な著名人で、彼氏のトーマスは、彼女の名声にすがるようになっていたりするのである。

そんなシグネに、待ちに待った初めてのモデルの仕事が回ってきたのだが、彼女の体はどんどん蝕まれており、いきなり吐血をしたり、撮影中に突然、頭頂部から出血して昏倒したりと、尋常ではない状態におちいってしまう。
また、最初は、上半身と首筋、右顔面下部あたりだった皮膚炎が、その頃にはさらに広がっているし、『四谷怪談』のお岩さんじゃないけれど髪まで抜け始め、デイヴィッド・リンチ『エレファント・マン』とは言わないまでも、かなりホラー映画的に醜い容貌になってしまう。

しかし、彼女の尋常ではないところは、そんな危険な薬を、命にもかかわりそうなほど大量服用したり、それで容貌が醜く崩れたりすることについては、まったく躊躇や迷いがないという点である。
とにかく目立てるのなら、理由がどうあれチヤホヤされるためになら、薬物の大量服用も、それに伴う肉体的な苦痛も、まったく意に介さないのだ。

普通の者ならば、いくら「目立ちたい」とか「チヤホヤされたい」と思ったところで、やっぱり「命は惜しい」し「痛かったり苦しかったりするのは嫌」だろう。まして、自分の顔が怪物のように病み崩れれば、それを隠したいとは思っても、それをわざわざ衆目に晒したいとは考えないはずだ。
つまり、普通の者であれば、「肉体的に(ほとんど)苦痛のない」かたちで、もちろん「今のまま」か「美しくなる」ことで、人から注目されたいし、チヤホヤされたり同情されたりしたい、ということになるのではないだろうか。

もちろん、YouTuberだとかお笑い芸人などの「職業」についてしまえば、格好をつけてばかりもおれず、わざわざ自分を痛めつけたり、笑いものにしてでも、糊口を凌がなければならないということにもなろう。
だが、シグネの場合は、それで金を稼ぎたいとかいった「不純な動機」は一切なく、ただただ「注目され、同情されたり讃嘆されたりしたいだけ」なのだ。

つまり、彼女の場合は、容貌が「怪物化」するから『最狂の承認欲求モンスター』なのではなく、「承認欲求」を満たすためなら「損得抜き」で何でもするし、命さえ惜しくないといった、その徹底性において、人間を超えた「モンスター」なのである。

本作の中でも、特に印象的だったのは、彼女が薬物の副作用のせいで倒れた際に見た、「自分の葬式」の夢である。
そこでは「悲劇のヒロイン」である彼女の葬儀が、立派な教会で行われ、有名人を含めた大勢の人たちが列をなしてつめかけ、彼女の死を悼み、泣き崩れる。
その一方、彼女から見て多少なりとも、自分を大切にしてくれなかった、あるいは冷たかったと感じられた人は、夢の中の葬儀では「名簿に無い」と、葬儀場への入場を断られ、追い払われてしまうのである。

つまり、彼女は、自分が死ぬかもしれないという瀬戸際に立っても、「自分が死んだら、こうなるんじゃないか」という自己愛的な妄想を爆発させて、まったく動じることがない。
体がどうなろうと、容貌がどうなろうと、時に人から非難されようと、そんなことは意に介さず、ただただ自身の自己愛的な妄想だけを見つめて、突き進むのみなのだ。

 ○ ○ ○

こうした点で、この映画は、私が予想したものとは、ちょっと違っていた。
私が予想したのは、もう少しリアルなお話で、いくら「承認欲求」実現のためとはいえ、命をも顧みないような、怪物的人物の物語までは、想定していなかったのだ。

たしかにシグネは、承認欲求にふり回される私たち現代人の「戯画」だとは言えるだろう。だが、その誇張が過ぎていて、かえって一般的な訴求力を欠いてしまうのではないか。もっとリアルに、しかし「自嘲的な笑い」の取れる作品にした方が良かったのではなかったかと、私にはそう思えた。実際に『最狂の承認欲求モンスター』を描くのではなく、私たち誰もの心の中に住んでいる「承認欲求というモンスター」を描く「社会派」作品にした方が良かったのではなかったかと。

しかし本作は、その「怪物性」をビジュアル的に示し、ほとんどホラー映画に近いショッキングさで、「承認欲求モンスター」性というものを、具体的かつ象徴的に描いている。
たしかにそれはそれで、一つの方法論ではあろう。だが、「これでは極端に過ぎて、娯楽消費されるだけなのではないか」と、私にはそう思えたのだ。

もちろん、シグネの妄想は、私たちの誰もが、特に若い頃には、何度となく持ったものであろう。
要は「有名人になって、チヤホヤされる」とか、「生前はそうなれなかったとしても、ゴッホのように死後に評価され、生前に正しく評価できなかった人たちは、自らの不明を恥じねばならないことになる」といったようなことだ。

しかしながら、持って生まれた才能の有無だの容貌だの環境だのの限界に直面して、私たちは、そうはなれそうにないという「現実」を少しずつ受け入れ、「現実」と折り合いをつけていく。そうした過程の経て、「よりマシ」な現実に生きようとするようになる。言い換えれば、最初から「有名になんかなりたくない」とか「人からチヤホヤなんかされたくはない」などと考える人など、まずいない。
「有名になること」「チヤホヤされること」それ自体は「望ましいこと」なのだけれど、それを手に入れるための「現実的な犠牲(トレードオフ)」の必要性を知っていく中で、「そんな条件付きなら、そうならなくてもいいや」と考えるようになるのである。
例えば「プライバシーを切り売りしなくてはならない」とか「いつでも他人の目を気にしていなければならない」とか「本音で語れない」とかそういったことである。

したがって、本作のシグネは、一見したところ、哀れな最期を迎えるように見えるかもしれないが、しかし、彼女の主観に立てば、必ずしもそうとばかりはいえないのではないだろうか。
つまり、彼女は、少なくとも彼女の主観においては「夢に向かって、何者をも恐れることなく突き進み、そんな夢の半ばで、ボロボロになって倒れた」勇者だということになるのではないか。

つまり、私たちは「無理のないところで現実と折り合うことで、それなりの幸福」を手に入れるのだけれど、彼女は、そうした妥協ができなかったし、またしなかった「怪物」でもあれば、「英雄」なのだと言えるのかもしれないのだ。

例えば、「夢を実現するために、自爆テロを行ったテロリスト」は、ある意味では、死をも恐れぬ「怪物」なのだけれど、彼はその死に際して「自分の犠牲的な死が、人々の希望ある未来を開くきっかけになるかもしれない」という信念を持っているだろうし、そうした未来が開かれて、人々が彼を「英雄」として讃嘆する「夢」を、一度ならず見ているはずなのだ。そうでなければ、自爆テロなんてことはできないからである。

しかしだ、こうした「自爆テロリスト」の「夢想」が、「怪物」的なものとして否定的に評価されるのは、彼のその「夢」が実現しなかった場合の話であって、現実に彼の行動がきっかけで、彼の望んだ方へと現実が転んでいたなら、彼は人々から「無私の英雄」と讃えられ、その銅像が建てられることにだってなったかもしれないのだ。
つまり、彼の「夢想」は、必ずしも馬鹿げたものではなく、彼が「怪物」で終わるのか「英雄」になるのかは、外在要因に大きく左右されて、どちらにも転びうる「可能態」的なものだとも考え得るのである。

例えば、歴史の中で「彼女がいたから歴史が変わった」と言われているような偉人であっても、実のところその人は「シグネ」的な「並外れた承認欲求」の持ち主だったのかもしれない。だから、並外れたことをやれたのかもしれないのだが、そうした「外聞の良くない」側面は、「結果論」的に、肯定的に解釈されたり、あるいは政治的に美化されたりするのではないだろうか。
仮に、エルネスト・チェ・ゲバラが、キューバ革命に失敗していたら、それでも彼は「反体制のイコン」となり得ただろうか? それとも「愚かな夢想家のナルシスト」として、歴史の闇に葬られていだろうか?

こんなふうに考えると、本作は単純に「肥大した承認欲求」の問題を、批判的に扱った作品とばかり見るのは、ある意味では浅見なのかもしれない。
じつのところ、歴史を大きく動かすのは、シグネのような「怪物」性を持った人たちなのかもしれないからである。

つまり、「怪物」と「英雄」とは紙一重であり、表裏一体のものなのかもしれないのである。

そして私たちの多くは、「怪物」にもなれないかわりに、「英雄」にもなれず、そのことで、ささやかな幸福に生きることができている、ということなのかもしれないのだ。


(2023年10月21日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

映画感想文