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ラース・フォン・トリアー監督 『奇跡の海』 : 無自覚な「権威迎合主義」を嗤う

映画評:ラース・フォン・トリアー監督『奇跡の海』(1996年・デンマーク映画)

「イヤ〜な映画」である。

ラース・フォン・トリアー監督作品については、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を、公開時の2000年に観たのにくわえて、今年「ラース・フォン・トリアー・ レトロスペクティブ 2023」(縮小6本立版・第七藝術劇場)で、次の5作(6作)を観ているから、どういう作風の作家なのか、おおよそ把握してはいた。

・『エレメント・オブ・クライム』(1984年)
『ドッグヴィル』       (2003年)
『アンチクライスト』     (2009年)
『メランコリア』       (2011年)
『ニンフォマニアック Vol. 1』 (2013年)
『ニンフォマニアック Vol. 2』 (同上)

今回『奇跡の海』を観ることにしたのは、既鑑賞の6作以外の作品、つまりまだ観ていない作品の中から、中古DVDで、比較的安く手に入るものを選んだ結果であって、深い意味はない。

ただ、DVDを入手してから、この作品がカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ(Wiki)を受賞した作品だと知ったし、また「ラブ・ストーリー」だと評されていることも知った。
しかし、なにしろ前記の6作で、この監督の作風をおおよそ知っている私としては、「ラブ・ストーリー」だなんて眉唾じゃないかと思った。だがまた、本作は、後で示すとおり、比較的初期の作品だったので、まだ、その「イヤな個性」をむき出しにしてはいなかったのかも知れない、とも思った。
たしかに監督デビュー作である『エレメント・オブ・クライム』は、「イヤ〜な作品」ではなかったから、本作も、まだ「猫をかぶっていた」時代の作品だったのかも知れないと、そう思ったのである。

それに、たまたまなのだが、本作のDVDを入手する直前に、友人が「いらなくなった本などの詰め合わせ」を送ってくれ、そのなかに本作のパンフレットが入っていた。
正確にはCINEMA RIZE No.68 奇跡の海』である。たぶん、パンフレットがわりに売られていたものではないだろうか。
この冊子の表紙には、タイトル『奇跡の海』の上に小さく『この愛は、誰にも汚せない』とあって、いかにも「純愛ラブ・ストーリー」であることをアピールしている。
また、ざっとではあるが、DVDを観る前に、パンフの中身を確認したところ、「イヤ〜な作品」であることを匂わすような文章は無さそうだった。一一だから、それも含めて「もしかしたら、まだメジャーになりきる前の作品だったので、普通にラブ・ストーリーを撮ったのかも知れない」と、そう考えたのである。

だが、その考えは甘かった。やはり、トリアーほどの個性の持ち主は、善かれ悪しかれ「栴檀は双葉より芳し」であり、やっぱり本作も「イヤ〜な作品」だったのだ。

本作をDVDで鑑賞したのち、前記のパンフレットを通読したところ、掲載された論考の「的外れ」ぶりには、心底驚いた。「こいつら何を考えて、本作を、純愛ものだなんて評価したのか」と驚いたのだが、考えてみれば、本作は前記のとおり、トリアーの初期作品だったために、このパンフレットへの寄稿者たちは、その後の「イヤ〜な作品」の数々を、まだ観ていなかったのである。

『エレメント・オブ・クライム』(1984年)
・『エピデミック〜伝染病』   (1987年)
『ヨーロッパ』        (1991年)
『奇跡の海』         (1996年)※ 本作
・『イディオッツ』       (1998年)
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)
『ドッグヴィル』       (2003年)
・『ラース・フォン・トリアーの5つの挑戦』(2003年)
『マンダレイ』        (2005年)
・『ディア・ウェンディ』    (2005年)
・『ボス・オブ・イット・オール』(2006年)
『アンチクライスト』     (2009年)
『メランコリア』       (2011年)
『ニンフォマニアック Vol. 1』 (2013年)
『ニンフォマニアック Vol. 2』 (同上)
『ハウス・ジャック・ビルト』 (2018年)

 (※ 太字が既鑑賞作品)

また、パンフに寄せられた論考の中でも言及されているとおり、本作『奇跡の海』の公開にあたって、トリアー監督は『映画を貫く〝善〟』と題するエッセイを発表しており、そこでは、この映画で描いたのは『精神的な〝善〟と、困難な〝善〟』であり『やがて受け入れられる〝善〟へ』ということだと語っているのである。
一一つまり、パンフレットへの寄稿者たちは、このエッセイを「真に受けて」、本作が「今は受け入れられていないけれど、いずれは受け入れられるであろう、あるいは、そうならなければならない〝善〟を描いた作品」だと、そうナイーブにも信じて、その方向での「理解」を語ったようなのだ。

(ラース・フォン・トリアー監督)

こうした「盲信」には、無論、本作は『カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ』作品であり、前作の『ヨーロッパ』も、グランプリには届かなかったものの、同賞の「審査員賞」を受賞していたという事実が、大きく与っているはずだ。
要は「トリアー監督は、カンヌが認めた、新進気鋭の天才監督だ」という刷り込みがあったから、その最新作にして『カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ』受賞作である本作については、基本的に「肯定的に評価しよう」という構えになってしまったのではないだろうか。

しかし、言うまでもないことだが、こういうのを世間では「権威主義」とも「権威迎合主義」とも「権威盲従主義」とも言うし、本質的に言えば、これは「偏見」であり、それに由来する「盲信」でしかない。つまり、批評としては、論外の「盲目的評価」でしかなかったのである。

だから、私が本稿で言いたいのは、本作の良し悪しというよりも、こうした「権威迎合主義」への批判であり、こうした愚物たちの「醜態」をあげつらうことで、同じような醜態の繰り返されることを少しでも減らしたい、といっとことになろう。
要は、作品評とは「作品に虚心に向き合い、そこで感じたものを、正直に語るべきであり、作者の自己解説に追従したり、作者の権威に盲従したりすべきではない」という、当たり前の話でしかなく、言わば「批評の基本中の基本」の再確認なのである。

 ○ ○ ○

本書の「ストーリー」は、次のとおりだ。

『舞台は1970年代のスコットランド・高地地方の海沿いの荒野。長老教会の影響が色濃い寒村に住む主人公のベスエミリー・ワトソン)は、やや単純で無垢で、信仰篤い女性である。彼女は教会で自分で神に問いかけ自分で答え、それを神との対話と信じている。彼女は排他的な村人達の心配をよそに、沖合いの北海油田の海上掘削基地(石油プラットフォーム)で働くよそ者のヤンステラン・スカルスガルド)と結婚し愛し合う。だがヤンは油田作業で不在の日々が続き、ヤンなしでは生きてゆけないベスは教会でヤンが早く陸へ帰るように祈った。

祈りが通じたのか、ヤンは突然陸に帰ってくる。しかし彼はプラットフォームでの大事故に巻き込まれ陸地の病院に搬送されたのだった。彼は一命を取り留めたものの、下半身不随になった。ベスは自分の祈りのせいで彼に災いが降りかかったのだと自分を責める。そんなベスに病室のヤンは、セックスのできない自分の代わりに誰かセックスをする相手を見つけてほしい、そしてぜひその様子を詳しく聞かせてほしいという。そうすることで彼は間接的にベスと愛し合うことができるというのである。

教会で一人祈る彼女に、神は愛の証拠を見せろという。ベスは彼のために男達とおずおず関係を持ち始めヤンにその話をする。ヤンが危篤になるとベスは見知らぬ男と関係し、そのたびヤンは助かった。ベスは、明らかに神の力が働いていると信じるが、次第に行動があからさまになり服装も派手になってきた。母も村人も教会の長老も、娼婦となったベスを見放し、忌み嫌った。

一進一退を繰り返していたヤンの容態が悪化し、いよいよ闘病に終わりが近づいた。ベスはより強い神の加護を得ようと、荒くれ者(ウド・キア)たちが乗り込んでいる、どの娼婦も行きたがらない沖合いの漁船へと向かう決心をする。しかし、漁船から戻ったベスは船員たちによる性的暴行で重体になっていた。彼女は病院に運び込まれ、混濁した意識の中「悪い子でごめんなさい」と母に謝り続ける。いまだ意識不明のままのヤンを見て失意のまま息を引き取る。

数日後、奇跡的に容態が回復し、立てるまでに体の機能が回復したヤンが海上にいた。彼は仲間たちと、教会で葬儀を受けさせてもらえなかったベスを水葬する。そのとき確かに、曇天の上から高らかな鐘の音が響き渡った。』

Wikipedia「奇跡の海」(映画)より)

これだけを読めば、いかにも純粋な女ベスの、哀れな「純愛ストーリー」だと思うかも知れない。
だが、引っ掛かる部分があるはずだ。そこを安易にスルーしてはいけない。

まず、この「ストーリー」紹介からして、読者を故意にミスリードする「偽善的な誤魔化し」がなされている。それはどこかというと、主人公ベスを紹介した、次の部分だ。

『やや単純で無垢で、信仰篤い女性』

端的に言ってしまえば、ベスは「知的障害者」あるいは「知的遅滞者」であって、人並みの知能を持っていない。感じとしては、小学校低学年くらいの知能だろうか。その上、

『彼女は教会で自分で神に問いかけ自分で答え、それを神との対話と信じている。』

とあるように、彼女は(作中でも、医師が診断したように)「統合失調症」の気味がある(入院経験もある)。映画を見ればわかるとおり、彼女は、教会で独り祈りながら、神と自分の「一人二役」を「声色」までつかって、大真面目に演じているのである。
これは、中世であれば「神がかりの聖女」ということにもなるから、そういう評価も可能ではあるのだが、しかし、そうした評価は、まず、ベスが「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性であるという「現実」を認めた上で、なされるべきものだ。

ところが、上の「ストーリー」紹介文では、そのあたりを意識的に「誤魔化し」ている。それはまるで、

『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』

と書いてしまうと「障害者差別」になってしまい、「何かと差し障りがある」とでも思っているかのようにだ。

いや、そう思っているのであろう。
誰が見ても『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』について、現にそのように思っているのに、そのように表現できないのは、意識的に「自主的表現規制(自主的な「言葉狩り」)」をしているということに他ならない。

(この微妙な表情の演技を見よ)

で、先のパンフレットへの寄稿者たちも、主人公のベスが「綺麗だ」とか「無垢で可愛い女性」だとは書いても、「知的遅滞者」だとか「統合失調症」気味だとかいったような「表現」は、一切しない。

なぜか? 一一それは無論、彼らが「事なかれ主義の偽善者」だからである。

この作品で、「当然の引っ掛かりを覚えるべき点」は、

『(※ 下半身不随になった、夫の)ヤンは、(※ ベスに対し)セックスのできない自分の代わりに誰かセックスをする相手を見つけてほしい、そしてぜひその様子を詳しく聞かせてほしいという。そうすることで彼は間接的にベスと愛し合うことができるというのである。』

という部分である。

(下半身不随になったヤン)

これは、普通に考えて「異常な心理」だと言って良いだろう。
実際、ベスの姉やヤンの担当医師も、ヤンのベスに対するこうした要求を知って驚き、ベスに「彼は錯乱しているのだ」と、ヤンの指示に従わないように強く促す。当然、そのように判断して、そう助言するのが、まともな人間というものであろう。

ところが、前述のトリアー監督のエッセイ『映画を貫く〝善〟』では、このヤンの要求が『困難な〝善〟』に出たものだとしているのである。
つまり、ヤンは、自分がベスを性的に満足させてやれないことを申し訳ないと思い、せめてベスには自由に「性的な喜び」を享受してもらいたいと考え、ベスへの愛から、あえて「他の男に抱かれろ」と言った、ということになっているのだ。
映画にも描かれているように、ヤンは、決して錯乱しているのではなく、しごく冷静に、落ち着いた様子で、ベスに「そうしてくれ。それが俺を救うことでもあるのだ」と要求するのである。

そして、ヤンを心から愛しているベスは、当初は当たり前に「そんなことできない。できるわけがない!」と怒りと悲しみをあらわにして、ヤンの要求を拒絶するのだが、しかし、ヤンの容態が悪化すると、どうしていいかわからなくなり、教会へ行って神に相談する。すると神は「お前の愛を証明して見せよ」と言う。つまり「ヤンの要求どおりに、他の男に抱かれろ。それは、ヤンへの愛のための行為だから、決して恥じるべきことではないのだ」と、そういう意味である。
それで、子供のように純粋なベスは、他の男に触れることに大変な嫌悪を感じながらも、ただただヤンを救いたいがために、娼婦を装ってまで、見知らぬ男たちに抱かれ、やがては、厳格なキリスト教倫理に生きている村人たちから「汚れた女」として村八分にされ、子供たちからさえ「売春婦だ!売春婦だ!」と囃し立てられ、つきまとわれ、石を投げられまでするようになって、その無茶な行動の果てに、最後は死ぬことになるのである。

(「俺はバスに乗って、後ろからお前を見ている」というヤンのうわごとに従って、バスの後方に座った男性の横に移動し、こっそりと男性の性器を弄るベス)
(娼婦のように着飾って、労働者の男たちが集う酒場に一人で入っていくベス)

つまり、この映画で、トリアー監督がやっているのは、実のところ、「純愛を描く」ということではなく、「世間の偽善を嘲笑う」ことなのである。

そのために、ヤンは、異様に歪んだ『困難な〝善〟』の人として描かれ、一方ベスは「常識的な判断能力」を持たない、ただ「純粋なだけの女」として設定されたのだ。
「世間の偽善者たち」が、いかに「いやらしい存在」であるかを、これ見よがしに描くために、哀れなベスと異様なヤンを設定したのである。
したがって、本作は「純愛悲劇」のかたちを採りながらも、実際には(監督の本当の狙いとしては)「世間的な偽善に対する、悪意に基づく攻撃」を意図とした作品なのだ。

本作の最後では、売春を行ったがために、村の教会への立ち入りを禁じられ、村の共同体からも村八分にされた、哀れなベスが死んだ結果、教会での葬式は行われず、そのまま埋葬されることになったのだが、その埋葬で、牧師は「彼女はその行いによって、地獄に落ちる」などという説教を、わざわざする。
これはもちろん、トリアーが「キリスト教倫理」を敵視しているために、ことさら悪意を持って、彼らを「憎々しげで非情な人たち」として描いているにすぎない。ことさらに「悪役(ヒール)」として描いているにすぎないのだ(なお、こうした、極端な描き方は、トリアーにはしばしば見られるものだ)。

(ベスの埋葬。左から3人目が牧師。あとは教会の長老(運営役職者))

私のレビューをいくらか読んでくれている人なら知ってのとおり、私は自覚的な「無神論者」であり、徹底した「キリスト教批判者」なのだが、しかし、トリアーのこうした「アンフェア」なやり方には、まったく賛同できないし、嫌悪しか覚えない。
キリスト教を批判するのであれば、正々堂々と真正面から、理路整然と批判すればいいし、それは十分に可能なのだ。

ところが、トリアーのやっていることといえば「お前の母ちゃん出べそ」と言っているのと大差のない、幼稚な誹謗中傷の類に過ぎない。こんなものでは、「キリスト教批判」にも何にもなっていないのである。一一だがまた、ラース・フォン・トリアーという人は、そういう人なのだ。

この作品のラストは、上の「ストーリー」紹介にある通りで、

『数日後、奇跡的に容態が回復し、立てるまでに体の機能が回復したヤンが海上にいた。彼は仲間たちと、教会で葬儀を受けさせてもらえなかったベスを水葬する。そのとき確かに、曇天の上から高らかな鐘の音が響き渡った。』

ということになる。

村人たちによる埋葬を好ましく思わなかったヤンが、ひそかに棺からベスの遺体を抜き去り、代わりに砂を入れておいたので、村人たちは、この砂入りの棺に向かって「ベスは地獄に落ちる」と祈ったあと埋葬していたのである。

一方、ベスの遺体を奪ったヤンとその仕事仲間の友人たちは、船で沖合に出ると、ベスの死体を水葬にふした。棺は無かったものの、布で巻かれたベスの遺体が、海軍で行われるようなかたちで海洋投棄され、水葬にされたのだ。
そしてその後に、村の教会はもとより、村には存在しないはずの「葬送の鐘の音」が天高くから響き渡り、しかも、実際に雲の上で二つの鐘が振り鳴らされている(幻想的な)様子が、この映画では描かれるのである。

一一これで、少なからぬ人は「ベスとヤンの愛は、神の祝福を受け、ベスは天国に召されたのだ」と理解して「ハッピーエンド」だと思ったのかもしれない。だが、これは間抜けすぎる誤解である。

このラストの、これ見よがしな「天の鐘」の描写は、トリアー監督の「悪意ある皮肉」に他ならない。「このように描いておけば、お前らのような頭の悪い偽善者は、これをハッピーエンドだと思い込みたがるんだろう?」と、そういうことでしかないのである。

つまり、このラストの「天の鐘」は、監督自身によるエッセイ『困難な〝善〟』と同様に、「偽善者」たちを嘲笑うためのフェイクにすぎないのだ。

しかし、この程度のことは、本作を「虚心に鑑賞するならば」さほど難しいことではない。
たしかに、私を含めた、トリアーの「その後の作品」を知っている者は、前記パンフレットへの寄稿者たちよりは、ずいぶん有利な立場にあるというのは、否定できない事実であろう。
だが、それにしても、この作品から感じたことを、正直に語っていれば、本作を「純愛ラブストーリー」だと思ったり、『精神的な〝善〟と、困難な〝善〟』を描いて、『やがて受け入れられる〝善〟へ』という方向性を示した作品だなどと、トリアーの「誘導」どおりに考えたりしなかっただろう。安易に、その線に沿った評価など語らなかったはずなのである。
つまり、こうした評者たちは、トリアー監督に、まんまと嵌められ嘲笑われた、「偽善者」たちだったということである。

ちなみに、前記パンフレットへの寄稿者は、次のとおりである。

辻邦生(小説家)
宮本亜門(舞台演出家)
香山リカ(精神科医・評論家)
河原晶子(映画評論家)
小松弘(映画史家)
天願大介(映画監督)

以上の他に、トリアー監督の前記エッセイや、橋本シャーンのイラスト作品なども収録されているが、「作品」評価が語られているのではないので省いた。

上の6人のうちで、トリアー監督の仕掛けた「罠」にハマらなかったのは、小松弘ただ一人である。
あとの5人は、多かれ少なかれ、トリアー監督の罠にハマって、本作を「純愛ラブストーリー」であるかのように評した、いささか間抜けで無自覚な「偽善者」だったのである。

特にわかりやすい例をひとつだけ挙げておくと、天願大介はそのエッセイ「ラース・フォン・トリアーを観ることの悦び」の中で、直接インタビューして、トリアーから聞かされた話も踏まえたうえで、次のように書いていた。

『(※ 子供ができて、人の親になった) トリアーは〝悪〟の魅力を語るのをやめ、シニカルな笑いを捨て、神の視点から〝善〟について描くのを選んだ。』

なんという間抜けな能天気さだろう! こんな奴らに、映画を語る資格はないし、こんな奴らの「もっともらしいだけの言葉」を鵜呑みにしてしまうような者は、文字どおりの「盲目」であり、結局は、頭の悪い「権威迎合主義」者でしかない、ということなのだ。

ちなみに、天願大介なんて映画監督は知らないなと思って、ネット検索してみたところ、この人は「巨匠・今村昌平」の息子であることがわかった。
なるほどである。だが、世の中とは「そういうものだ」(カート・ヴォネガット)。

 ○ ○ ○

「感じるべき違和感」について、さらに一点指摘しておこう。

本作のポスターやDVDの表紙には、ヤンとの結婚式での、ベスのアップ写真が使われている。
もちろん、ベスを演じた、エミリー・ワトソンの顔のアップだが、これを見て「それほどの美人ではないな」と感じた人は正しい。

いや、たしかに彼女は美人女優なのかもしれないが、典型的な美人ではなく、少し「クセのある顔立ちの美人」と言う方が正しいだろう。細かくいえば、彼女の顔は「両目の間が少し狭い」という印象があって、そこに一種の「気味悪さ」のようなものが感じられるのだ(「ホラー映画向きの顔」と言っても良い)。

そして、これはたぶん、トリアー監督が意識的に彼女をベス役に選んだ「要件」でもあっただろう。彼女の「顔」は、どこか「神経質」そうな雰囲気を持っており、これはたぶん「両目の間が少し狭い」という印象を与えるところから来るものだ。
というのも、一般的には「両目の間が広い顔(ダゴン系)」というのは、人に「望洋とした、何も考えていないような印象」を与える。よくいえば「おおらかそう」ということになろう。
逆に「両目の間が狭い顔」というのは、人に「神経質で、何かを考えつめているという印象」を与えて、「緊張感」をもたらすことになる。

何が言いたいのかというと、エミリー・ワトソンの顔は、「神経症」や「精神に障害がある人」を演じるのに向いた顔立ちであり、見る者に「緊張感」や「不安」を無意識のうちに感じさせる顔だ、ということである。

なぜそうなるのかと言えば、私たちは「動物的本能」として「理解し得ない(意図を持った)もの」や「不自然なもの(普通ではないもの)」に「不安」を抱き「緊張」するようにできている、ということなのだ。これは「自己防衛本能」なのである。

だから、私たちは、たとえば電車やバズの中で、なにやら独り言を呟いている人を見かけると「気味が悪い」とか「怖い」と感じてしまう。それは、そうした人が、私たちの「常識」では推し量れない存在であり、要は「何をするかわからない」と感じているから、本能的に「緊張」することで「防御姿勢」を固めている、ということである。

そして、ここで肝心なことは、このこと自体は「差別ではない」ということなのだ。

前記のとおり私たちは、電車やバズの中で、なにやら独り言を呟いている人を見かけると「気味が悪い」とか「怖い」と感じるし、火傷のあとのひきつれを見れば「醜い」と感じる。
同様に「美人」を見れば「美しい」と思うし、その逆の人を見れば「醜い」と感じる。

例えば、ホラー映画『エルム街の悪夢』に登場する「夢に住むの殺人鬼」フレディー・クルーガーの顔は「焼け爛れた醜い顔」になっているが、なぜそうなっているのかと言えば、それは無論、観る人の「恐怖」を喚起するためである。

そして、このようにして「醜い」という感覚を抱いた場合、私たちはその「醜い人たち」を「差別」していることになるのだろうか?

そうではないと、私は考える。
なぜなら、「醜いものを醜い」と感じるのは「自然」なことであり、要は自己保存のための「本能」でしかないからだ。
そのため、これは「避けられないこと」だし、「醜いものが醜い」というのは「事実」なのだから、その事実自体を否定することはできないのである。

ただし、人間は「本能」だけで生きているわけではなく、「理性」を持った存在なのだから、「本能的」に「醜い」「怖い」と思っても、それをそのまま口にすべきではない場合があるというのを、「理性」の働きにおいて承知していなければならず、その「理性」の指し示すとおりに行動しなければならない。
つまり「顔がブサイクだ」とか「火傷の痕が醜い」と「感じた」としても、それをそのまま口にしてはいけないし、そうした「否定的な属性」をやむを得ずに持った人を、「差別」してはならない。

「否定的な属性」について「否定的な感覚」を持つことは、生存本能に由来する「不随意」反応なのだから、それ自体は仕方ないし、どうしようもないことだが、それをそのまま表出するのは、「理性ある人間」のすべきことではないのである。

だから、本作『奇跡の海』のポスターやDVDの表紙などに使われた、エミリー・ワトソンの「顔のアップ」に「違和感」を感じた人は、その感性に関しては、まったく正しいのである。

実際、ワトソンは、『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』ベスを、「本物」にしか見えないほどに、見事に演じ切っている。
だからこそ、映画の中の彼女の表情を見て「変」だとか「少し気持ち悪い」と感じるのは、ごく自然なことで、それ自体は「偏見」でもなんでもないのだ。

私たちは、否応なく「知的遅滞者」の表情や「統合失調症」患者の表情に「否定的な違和感」を感じるようにできており、それは何度も確認したとおり、「本能的なもの」であり避け難いものなのだ。
エミリー・ワトソンは「そう感じさせるように演技をし、そんな表情を作っている」のだし、トリアー監督は、その演技力は無論、そうした役柄向きの顔をもつ女優として、エミリー・ワトソンを選んだのである。

だから、ベスとしての、エミリー・ワトソンを、「綺麗だ」とか「可愛い」としか言わないような人は、基本的に「偽善者」である。
そういう人は、本音では「知的遅滞者」や「統合失調症」患者を気味悪がっていながら、口では「美しい」とか「可愛い」などという言葉を連発し、その一方で、自分の配偶者には、そうした人たちを決して選ぶことなどない、恥知らずの「偽善者」なのである。

だから、そんな「偽善者」たちを、トリアー監督が嘲笑うというのは、間違ったこととは言えないだろう。
ただし、問題なのは、トリアー監督のやり方が「騙して、嵌めて、陰で嘲笑う」という陰険なやり方である点なのだ。この人は、いつだってこういう「醜い」やり方でしか、「偽善者」を批判することができない、歪んだ人なのである。

だから、私の場合は、あえて「醜いもの」を観るために、トリアー監督の作品を観ていると言っても良いだろう。
この世には、「美しいもの」だけではなく、「醜いもの」が確実に存在する。そして、その「醜いもの」にも、「表面的に醜いだけなもの」と「本質的に醜いもの」の二種類があるのだが、いずれにしろ私たちは「醜い現実」から目を逸らそうとしてしまいがちだ。なぜなら、それが「本能」だからである。

しかし、人間には「理性」があるのだから、必要とあれば、そんな「本能」を「理性」の力でねじ伏せてでも、直視しなければならない「醜い現実」というものがある。

私たちは、そうした「現実」を直視し、その上で、「受け入れなければならない(表面的な)醜さ」と「受け入れてはならない(本質的な)醜さ」とに峻別して、後者を厳しく批判攻撃していかなくてはならないのだ。

「醜い」のは、そうした「人間倫理における理性的な責務」を放棄して、表面だけで「善人」ぶってみせる、「偽善」なのである。


(2023年12月22日)

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