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映画 『ロッタちゃん はじめてのおつかい』 : 可愛いだけじゃないから可愛い。

映画評:ヨハンナ・ハルド監督『ロッタちゃん はじめてのおつかい』1993年、スウェーデン映画)

日本でも『長くつ下のピッピ』などの作品でお馴染みの、スウェーデンの児童文学者アストリッド・リンドグレーンによる『ロッタちゃんのひっこし』の、映画化作品。
2000年に日本でも公開され、ミニシアター系作品としてロングランの大ヒットを飛ばした作品の、2Kリマスターでの再上映である。

私は、児童文学については詳しくないのだが、『長くつ下のピッピ』は、日本を代表するアニメ作家である高畑勲が、宮崎駿らとともに劇場用アニメ化しようとした作品としても有名。結局はリンドグレーンから許諾がおりなかったため、その時つくったピッピのキャラクターを流用したのが、今や伝説的な名作として知られる『パンダコパンダ』(1972年)とその続編『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(1973年)に登場する、「ミミちゃん」である。一一と、これは、古いアニメファンの基礎教養だと言えるだろう。

だが、リンドグレーンの作品としては、『名探偵カッレくん』などが少年探偵ものとして有名だし、『山賊のむすめローニャ』は(『山賊の娘ローニャ』として)、宮崎駿の息子・宮崎吾朗によって、NHKでテレビアニメ化もされている(2014年〜2015年)。

同様に、ロッタちゃんもリンドグレーンを代表するキャラクターの一人なのだが、私の守備範囲であるアニメにもミステリにも引っ掛からなかったので、この映画で初めて知ることになった。

私が、この映画の存在を知ったのは、今回のリバイバル上映のための予告編映像でであった。
で、何が気に入ったと言って、ポスターにもなっている「下着姿の膨れっ面で、片手に縫いぐるみのブタの尻尾を持ってつっ立っているロッタちゃん」の勇姿だ。
それには『可愛いだけのアタシじゃない』とあるけれど、まったくそのとおりで、もしも、いかにも可愛い(だけ)の少女の映画であれば、私は本作に興味を持たなかっただだろう。実際、そのような「美少女」が主人公の名作映画を、私はいくつもスルーしてきた。無論、美少女が嫌いだというわけではないのだが、当たり前に美少女だと、どこか鼻白んでしまうところがあるのだ。

その点、このポスターのロッタちゃんは、とてもよかった。不服そうに口を尖らせて、下から睨めつけるような目線は、まさに臨戦体制。「つっ立っている」と書いたけれども、ある意味では、この立ち姿は「肩の力を抜いた自然体の構え」で、「どこからでも、かかってこい!」という隙のなさを感じさせる。きっと、ロリコンおじさんなんかが不用意に近づいたりしたら、鉄砂の仕込まれた豚のぬいぐるみバムセの一閃を喰らって、血反吐を吐くことになるだろう。
ロッタちゃんが大きくなったら、きっと「GOGO夕張」(『キルビル』)のようになるのだと思う。

(お兄ちゃんとお姉ちゃんにおいてけぼりを食らっての、イーストウッドばりの、ハードボイルドな表情)

まあ、冗談はさておき、ロッタちゃんの魅力は、幼いながらも自分というものを頑として持っており、主張することを恐れない点だ。
この『はじめておつかい』でも、最初に描かれるのは、お父さんが出勤し、お兄ちゃんとお姉ちゃんは登校した後、お母さんとのお買い物で出かける際に、与えられた「白いセーター」を「絶対に着ない」と抵抗するエピソードである。

その理由は「チクチクするからイヤ」という、いかにも肌の敏感な子供らしい理由で、大人はつい「何、言ってんだ」と軽く考えてしまいがち。お母さんも「それで十分でしょ」と言うと、ロッタちゃんは「ベルベットの服がいい」と言う。それは日曜に教会へ行く時のための、いわば「よそ行きの服」なのだが、ロッタちゃんが言いたいのは、無論「チクチクしないし、肌触りがいい」ということだろう。だが、お母さんには、それが伝わらず、「下で待っているから、それを着て降りて来てね。来ないのなら、置いてっちゃうわよ」と言われ、ロッタちゃんは2階の子供部屋に一人残される。
そこで、パムセのぬいぐるみを片手に、下着姿で仁王立ちしている、ポスターのシーンとなるわけである。ロッタちゃんの目の前の椅子には、お母さんが置いていった白のセーターが掛けられており、それを着て降りてこいというわけだ。

だが、ロッタちゃんはぜんぜん納得していないので、「私は絶対着ないから」と言って、セーターを竹編みのかごの中に放り込むと、自分に言い聞かせるように独りごちたり、バムセにお母さんの悪口を言ったりする。
そして、たまたまそのかごのそばにハサミがあるのが目について、服が破れていれば、着ていけなくなるだろうと思いつき、さらに「犬に噛まれて破れた」という設定まで思いついて、その設定を口にしながらセーターを切り刻んでしまう。だが、切ってしまうと、なんだか不安になってくる。大変なことをしてしまったかも、という感じだ。

(ジョキジョキ)

そこへ、一階のお母さんから「ココアを飲む?」と声がかかる。ココアで機嫌をとって、買い物についてくるように仕向けようとの策だろう。だが、意地になっているロッタちゃんは、いったんは「そんなの飲んでやらない」と独り言するものの、やっぱり甘いココアは好きだから「ココアくらいは飲んであげてもいいわ」と自分に言い訳をして、下着姿のまま1階へ降りていく。
ココアは飲んだものの、ロッタちゃんがセーターを着る気がないようなので、お母さんは、ロッタちゃんにお留守番をしているのよと言って、買い物に出てしまう。

その姿を、2階の子供部屋の窓から、見下ろした後、ロッタちゃんは、セーターのことをどう説明して良いかわからなくなって、自分は酷い扱いを受けているから引っ越しする、ということにする。
引っ越しといっても、隣に住んでいる、仲良しの一人暮らしのおばあさんのところに住まわせてもらうと勝手に決めて、バムセを連れて、お隣へと向かうのだ。

(お隣の優しいおばあちゃんに、転んで作った傷を治療してもらう)

ロッタちゃんから話を聞いたおばあさんは、おおよそ事情を察して、ロッタちゃんの引っ越し計画に調子を合わせてやり、2階の物置部屋を片付けて、ロッタちゃんの部屋を作ってやる。
最初は、それに大満足な様子なのだが、しばらくすると「自分の家を持つって、本当に素敵だわ」「こっちの方が断然いい」などとしきり独り言するロッタちゃん。そうした独り言は、いかにも自分に言い聞かせているという感じで、それが健気でとても可愛い。
子供は子供なりに、このまま一人で生きていけるだろうかという不安を感じ、家族から離れてしまった寂しさも感じているのだが、それを認めたくないから、しきりに「引っ越しは素敵」という趣旨のことを独りごちるのである。

そのうち、おばあさんから報告を受けた、ロッタちゃんの家族が、様子を見にやってくる。
最初は、お兄ちゃんとお姉ちゃんがやってきて、良い遊び部屋ができたなという調子で、ロッタちゃんと一緒にその部屋でゴロゴロしながらも「お母さんが寂しがっているぞ」ということだけは、ちゃんと伝えるし、そのうち、お母さんがやってきて「お母さん寂しいわ。帰ってきてくれないの?」と尋ねると、ロッタちゃんは「私はもうここで暮らすの」と強気に言い、お母さんは、いかにも寂しいわという顔を作って、子供たちと帰っていく。そして、仕事から帰ったお父さんも様子を見に来て、「お母さんが寂しがっているから、クリスマスまでには帰ってきてくれ」と言い、ロッタちゃんはお母さんが可哀想だから、その頃までには帰ってあげるわと言わんばかりに「わかったわ」とお父さんに約束した後、「クリスマスって、どのくらい先?」と尋ねると、お父さんは「4ヶ月先だよ」と答えると、その時のロッタちゃんの「そんなに先なの」と言わんばかりの不安そうな表情が、なんとも言えず可愛い。

(歯医者さんで順番待ち。左から、お母さん、ロッタちゃん、お姉ちゃん、お兄ちゃん)

結局、ロッタちゃんは、おばあさんの家で一晩寝た後、家へと帰っていき、お母さんはロッタちゃんを抱きしめて、嫌なセーターを強いたことを詫び、ロッタちゃんはセーターを破ってことを謝罪して和解するのだ。

本作の場合、こうしたロッタちゃんをめぐる、大人と子供のやりとりが、子供の「世界」をよく理解した大人の、「大人の対応」として、たいへん見事に描かれている。
ロッタちゃんの「子供らしさ」を頭から否定するのではなく、子供には子供なりの「論理」があるのであり、それに対し「大人の論理」を力づくで押しつけるのではなく、子供にみずから気づかせるように仕向けるというのは、それが「大人の知恵」というものだろうし、これは大人の側に「精神的な余裕」がないとできるものではない。

ロッタちゃんはこの後、そのマイペースな行動で、大人たちを期せずして「救う」ことにもなるのだが、それは「子供にしかできないこと」があるという、何よりの証拠となっている。

(ロッタちゃんの大好きなお菓子屋さん。でも、お菓子屋さんは廃業して、故郷のギリシャへ帰ることになり、それを知らされたロッタちゃんは思わず泣いてしまう。その、らしくないロッタちゃんを見て、あわてたお菓子屋さんは「お前は〝愉快な子〟なんだから、泣くな」と言って、処分するつもりだったお菓子をどっさりと残してくれる)

大人基準での「可愛い子供」ではないロッタちゃんだからこそ、ロッタちゃんは生き生きとした子供なのであり、周囲からもその存在を尊重されているからこそ、自分を主張することを恐れない反面、他人のことを思いやる優しい気持ちを持つこともできるのであろう。

現代社会において「子供の子供らしさ」を尊重する余裕というものが、社会から失われているというのは、否定できない現実なのだろうが、しかし、そうしたものに救われるのは、他でもなく「大人」の方なのだということを、本作は語っているのではないだろうか。

(言葉にすること、話しかけることの大切さを教えてくれる、ロッタちゃんとバムセ)



(2024年3月21日)

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