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ポール・ヴァーホーベン監督 『ベネデッタ』 : 「映画」の常識を超えた リアリズム

映画評:ポール・ヴァーホーベン監督『ベネデッタ』

昨年(2022年)7月末の退職以来、映画を観まくってきた私だが、これは「楽しみだ」と思って観に行った映画は、それほど多くない。大半の作品は「ちょっと気になるから、これも観ておこう」とか「教養のために観ておこう」といった感じが多かった。
そんなわけで、それほど多くもない「期待作」であっても、しかし、結果として「期待どおりに面白かった」という作品は、ほとんどない。期待が大きければ大きいいほど、並みの作品では満足できないというのが人情だから、これは、ある意味では当然のことなのだろう。

一一だが、本作は違った。期待どおりに面白かったし、ある意味では、期待以上に興味深い作品であった。

私にとってポール・ヴァーホーベンは、「怖いもの知らずの、やらかしてくれる映画監督」と、おおよそそんな位置づけだった。特に、それを強く印象づけたのが、本作とは似ても似つかないSFアクション映画『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)だった。

これは、アメリカSF界の巨匠ロバート・A・ハインライン(1907年7月7日 - 1988年5月8日)の同名小説(邦題:『宇宙の戦士』)を原作とした映画なのだが、原作者のハインラインは、大雑把に言えば、右派の愛国主義者であり、この原作小説も、兵隊養成学校での訓練の中で、たくましく成長していく若者たちの姿を描いた物語となっており、蜘蛛型異星生物との戦いがメインとなる作品ではなかった。

この映画を観に行った頃の私は、すでに原作小説の方は読んでいて、そっちは「私には合わないし、つまらない」と感じていたのだが、それでも「アニメファンのSFファン」ではあったから、映画の方は、蜘蛛型異星生物とのバトルが中心の「SFアクションもの」だと割り切り、原作とは「別物」として、観に行ったのである。

で、どうだったかと言うと、『スターシップ・トゥルーパーズ』は、たしかに「SFアクション映画」であり、その点で「娯楽映画」として楽しめる作品に仕上がっていた。
原作の中心である兵隊養成学校の描写は「前振り」に過ぎず、あくまでも戦闘シーンを楽しむ映画になっていて、それだけで満足のできる楽しい映画になっていたのだが、一一しかし、それだけでは終わらない作品でもあった。

この映画は明らかに、原作の「マッチョイズム」をからかい、バカにしていたのだ。
兵士たちが勇敢に戦う姿も、どこか「頭の悪い戦争バカ」のような描かれ方で、決してカッコよくは描かれておらず、兵隊たちに対する共感的な描写など皆無であったと言ってもいいだろう。
だから、兵隊たちと蜘蛛型異星生物との戦闘シーンでは、兵隊たちの手足がちょん切れたり、頭を刺し貫かれたりする「エグいシーン」も多いのだが、監督は、まるでそれを楽しんでいるかのようだったのである。

つまり、ヴァーホーベン監督は、明らかに「反戦反軍」的な立場の人であり、政治的な立場でいうなら「左寄り」で、原作の精神を「忠実に再現する」気など、さらさら無ければ、それを真正面から「批判する」というのでもない。まさに、バカにし見下して「嘲笑っている」かのような作品であったのだ。
(下のレビューでも、このあたりのことを紹介しているので、ご参照を乞う)

で、そんなヴァーホーベン監督と、基本的な立場を同じくする私だったから、「そこまでやるか?」いうくらい、原作と原作者に対して挑発的な本作を大いに楽しんだわけなのだが、しかし、そんな私でも、前述のとおり「こんな映画で、よくも許されたものだな。ハインラインが生きていたら、怒り心頭に発して激怒したんじゃないか? それともヒットメーカーの監督が、ヒット作に仕上げてくれたから、遺族は、内容には目を瞑ったのだろうか? それとも、この嘲弄に気づかなかっただけなのだろうか?」などと考えていた。

また、そんな具合だったから、ハリウッドに招かれて大ヒットさせた『ロボコップ』(1987年)以降、ヒット作を連発しながらも、『スターシップ・トゥルーパーズ』から3年後に発表された『インビジブル』(2000年)をもって、ヴァーホーベンがハリウッドを去ったのは、彼の、徹底的に「我が道を行く」批評精神からすれば、ハリウッドの娯楽主義映画を撮り続けるのは、いかにも苦痛だったのだろうと、納得させられもしたのである。

しかし、ヴァーホーベンの「毒のある批評性」が大好きだった私も、昔から「恋愛もの」とか「エロティックもの」というのは好みではなかったから、その評判を耳にしながらも、今日まで『氷の微笑』(1992年)や『ショーガール』(1995年)といった、ハリウッドで撮られた「エロティックミステリー」に分類されるであろう作品は観なかった。端的に、そういうものには興味がなかったのだ。

(『氷の微笑』)

また、ハリウッドの娯楽大作向きではなかったヴァーホーベン監督が、ヨーロッパに戻ってから撮った、本作『ベネデッタ』以前の3本の映画、『ブラックブック』(2006年)、『ポール・ヴァーホーヴェン/トリック』(2012年)、『エル ELLE』(2016年)も、観ていない。
ヴァーホーベンの「その後」は気になっていたが、もともとが「SF映画」として『ロボコップ』や『トータル・リコール』そして『スターシップ・トゥルーパーズ』を観に行って楽しんだ私としては、ヨーロッパへ帰ってからの作品は、いかにも地味な印象があったし、日本での劇場公開も小規模だったので、「ヴァーホーベンの新作をやっているな」と思っているうちに、上映が終わっているという感じだった。
今とは違い、年にせいぜい5本くらいしか映画を観に行かなかった(映画よりも、意識的に読書を優先していた)当時の私としては、そのあたりまでフォローすることはなかったのである。

では、なぜ本作『ベネデッタ』を観に行ったのか? それは、本作が「キリスト教信仰」を扱っていたからに他ならない。

(敬虔な修道女ベネデッタ)

ヴァーホーベンのハリウッド大作を観に行っていた頃とは違い、今の私は、自覚的な「宗教批判者」であり、その宗教批判の主たる標的としていたのが、仏教などに比べて教義の明確な(つまり「議論」の土俵に載せやすい)「キリスト教」であったし、それを「あのヴァーホーベン」が撮るのだから、どんな映画になるのかは、良い意味で、おおよその見当がついたためである。

私は、本作『ベネデッタ』を映画館での予告編で、初めて知ったのだが、その内容は「修道尼の幻視」「レズビアニズム」「ペスト」といった、いかにも「神聖冒涜」的なものであり、これは巨匠ハインラインの原作をおちょくり倒したヴァーホーベンなら、嬉々として撮った作品であろうというのが、容易に察せられたのである。

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『17世紀イタリア。幼い頃から聖母マリアと対話し奇蹟を起こす少女とされていたベネデッタは6歳で修道院に入る。純粋無垢なまま成人したベネデッタは、ある日修道院に逃げ込んできた若い女性を助ける。様々な心情が絡み合い2人は秘密の関係を深めるが、同時期にベネデッタが聖痕を受け、イエスに娶られたとみなされ新しい修道院長に就任したことで周囲に波紋が広がる。民衆には聖女と崇められ権力を手にしたベネデッタだったが、彼女に疑惑と嫉妬の目を向けた修道女の身に耐えがたい悲劇が起こる。そして、ペスト流行にベネデッタを糾弾する教皇大使の来訪が重なり、町全体に更なる混乱と騒動が降りかかろうとしていた…。』

本作は、実在した尼僧ベネデッタについての研究書を原作とした作品で、意外にも、かなり原作を尊重した作品だった(ラストの暴動だけは、作劇上の都合で、史実に反して付け加えられたものだ)。
「意外にも」と言うのは、「修道尼の幻視」「レズビアニズム」「ペスト」といったことが、歴史的に散見された事実だとは知っていたが、私は、ヴァーホーベンが、キリスト教界が嫌がるようなネタを、わざわざ突っ込んだ作品だと思っていたからである。

私は、「宗教批判」「キリスト教批判」のために、キリスト教関係の文献を読んでいるから、「修道尼の幻視」「レズビアニズム」といったことについても、おおよそのことは知っていた。その手の翻訳書をたぶん5冊前後は贖っているはずである。ただし、残念ながら、そのいずれも積ん読の山に埋もれさせて、通読はしていないものの、おおよその内容は知っていたのだ。

(性愛関係を結ぶ、バルトロメアとベネデッタ。手にあるのは、マリア像を削って作った張型)

例えば、本作に描かれるベネデッタ・カルリーニではなく、もっと有名な「幻視した修道尼」である、マルグリット・マリー・アラコクは『修道院内の聖堂で祈っている最中にイエス・キリストが彼女の前に現れ自分の心臓を見せた。』という「幻」を見、それが今に続く「聖心」信仰の発端となっている。
この「幻視」は、教会公認の「奇蹟」となり、彼女は死後、カトリック教会から「聖人」認定を受けて、信仰の対象にすらなった人物なのだが、この「キリストの心臓=聖心」は「キリストの愛の象徴」と読み替えられて、「聖心信仰」となり、現在の「上皇后」(平成天皇の皇后)である正田美智子の通った、お嬢様学校として名高い、かの「聖心女子大学」にまで、つながっているものである。

(前修道院長の娘クリスティナは、ベネデッタの聖痕が偽物だと告発する)

つまり、私自身は、本作の主人公となる実在の修道尼ベネデッタ・カルリーニの名前までは記憶していなかったものの、この種の「幻視をした修道尼」の存在は、よく知っていた。

ほかには、その著書をかなり読んでいる種村季弘澁澤龍彦の盟友)に『ビンゲンのヒルデガルトの世界』があり、これも「幻視した修道尼」ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(のちに「聖人」認定される)を扱った本で、ヒルデガルドの見た『「生き生きした光の影」(umbra viventis luminis)が現れ、その光の中に様々な様相が形となって浮かび上がり輝く。』という「幻視」について、これを「偏頭痛における閃輝暗点」と関連づけた文章(本書だったか否かは失念)を、興味深く読んだりしたこともある。私自身、偏頭痛持ちであり、閃輝暗点を見るし、ヒルデガルドの残した絵が、閃輝暗点にそっくりで、「なるほど」と感心した記憶があるのだ。

ともあれ、本作『ベネデッタ』で描かれているとおり、修道尼たちの「幻視」は、それが「聖なる奇蹟」か、あるいは「悪魔の見せた、邪なる誘惑」かについては、教会(の奇蹟審問官)による厳格な検証を経て、どちらかに認定され、その結果いかんでは、あとの処遇が大きく異なった、というのは言うまでもないだろう。
本作『ベネデッタ』でも、ベネデッタの処遇が二転三転するのが描かれるが、所詮、その「幻視」が、「聖なる奇蹟」か、あるいは「悪魔の見せた、邪なる誘惑」かなどということは、客観的に判定できるようなものではなく、教会が経験的に設定した基準によって、一方的に決定したにすぎないのだが、宗教批判者である私にとっても、その正体が「ヒステリー」や「てんかん」などの「病気」や「脳内物理現象」の類であれ何であれ、「現にあったこと」として、興味を持っていたのである。

(火刑に架けられようとするベネデッタ)

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本作『ベネデッタ』は、期待どおり「キリスト教会が観たら、すごく嫌がる映画」であった。
昔なら、「破門」騒ぎの大問題になったような映画だが、今は、ヨーロッパでもキリスト教の教勢は弱まっているから、もう問題にはならないのだろう。
しかしながら、かえって今の日本なら、こんな「クリスチャンの人が観たら傷つく」ような映画は作れないのではないだろうか。

ともあれ、そこは今のヨーロッパであり、特に、本作を製作したフランスである。
フランスは、カトリック国ではあるものの、ローマ教皇庁(バチカン)とは歴史的に一線を画してきた「ガリカニスム」(フランス主義)の独立主義の国であり、「反権威」の国なので、伝統的に、「神聖冒涜」的な「エロティシズム文学」の書かれてきた国でもある。

例えば、マルキ・ド・サドピエール・クロソウスキー、あるいは、ジョルジュ・バタイユといった作家たちが、それだ。

そんなわけで、本作『ベネデッタ』においても、ヴァーホーベンは『スターシップ・トゥルーパーズ』同様に、遠慮会釈なく「やらかして」くれており、その点で、大いに満足したのだが、しかし、両作には、無視できない「違い」もあった。

それは、『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作にあった「愛国主義的マッチョイズム」に対しては、完全に「見下しバカにした悪意」を向けていたヴァーホーベンであったが、本作『ベネデッタ』における「批評性」は、もっと深いものを感じさせた、という点である。

本作『ベネデッタ』で、興味深いのは、ベネデッタの「幻視」を、てんからバカにして「否定している」というわけではなく、また、尼僧院での「レズビアニズム」についても、それを言挙げしてキリスト教会に「嫌がらせ」をしているという感じでもなくて、むしろ「そうしたことは、事実としてあったことだ。しかし、その意味するところは、必ずしも教会が考えるものだとは言えないんじゃないか?」というような、真正面からの「根源的問い」であった点だ。

つまりこの映画でヴァーホーベンは、「そんな都合の良い幻視なんて、妄想に決まっているだろう」とか「きれいごとを言っても、人間は動物なんだから性欲があるに決まっているんだよ」とかいった「わかりやすい批判」はしていない。
「幻視」や「レズビアニズム」を、単に「批判の道具」にしているわけではなく、それを、「現実」を描くためのものとして「キリスト教的な解釈」に対置し、「さて、どっちが真相だろうね?」と、答を出さずに、突きつけているだけ、なのである。

(バルトロメアとベネデッタ)

例えば、本作の主人公のベネデッタにあっては、「幻視する」のも「敬虔な信仰を持っている」というのも、ともに「事実」であり、その一方で、「性欲」もあれば「権勢欲」も持っており、それを実現するためなら「嘘」も「お芝居」も厭わないという、ある意味では、とても人間的な「多面性のある人物」として描かれている。

つまり、「幻視は、嘘か誠か?」「性欲は、善か悪か?」「正直者か嘘つきか?」「聖痕の出現は、本物かお芝居か?」といった「単純な二項対立」ではなく、また「どこまでが本物で、どこからが嘘か?」とか「どれが本物で、どれが嘘か?」といったような「単純な二分法」を許さないような、「虚実」入り交じって区別のつかない、どちらとも解釈可能なもの、それはベネデッタ自身にも、はっきりした区別のついていないことであり、そんな「両義的なもの」として、本作では描かれているのである。

(イエスに憑れたがごとく、男声で預言するベネデッタ)

だから、観客にとっては、この作品で描かれているあれこれが、「真相はこちらだ」「監督の意図はこちらだ」というようには断言できずに、迷わされ当惑させられてしまう描写になっているのだが、まさにその「現実における決定不可能性」こそが、ヴァーホーベンの描こうとした、「映画」の常識を超えた〈リアリズム〉なのだ。

「映画」ならば、普通は、監督の立場として、そうした「宗教的現象」について「肯定か否定か」いずれかの立場に立っているものなのだが、この作品については、そういう「創作物ゆえの(秘められてはいるが)明確な真相」を持たず、まるで「現実」がそうであるとおりに、多様な解釈を許す「決定不可能性」に開かれている。

しかし、この「決定不可能性」における「宗教的現象の描写」というのは、決して「中立的」なものでもなければ、ましてや「優柔不断な不決定」でもない。
そうではなく、そうしたリアリズムは、「キリスト教信仰」の側からすれば、最も「タチの悪い批判」となるものなのである。

なぜなら、はっきりとした「批判的立場」からなされる、「そんな都合の良い幻視なんて、妄想に決まっているだろう」とか「きれいごとを言っても、人間は動物なんだから性欲があるに決まっているんだよ」といった批判なら、それは「敵対的な悪意に由来するものでしかない」と認定して「無視すれば良い」だけなのだが、観客に向かって「さて、このような歴史的現実があったようなのだが、皆さんは、これをどう解釈理解しますか?」という立場での「疑義提出」であると、一方的に、議論の席を蹴って立ち、議論を拒否するという態度は、ほとんど「負け」を認めているも同然になってしまうからである。

(前修道院長の告発を受けて、ベネデッタの同性愛を裁きに来た教皇特使)

だが、だからと言って、まともに議論すれば、結論としては「それらは、第三者には真相を知り得ない、内面の真実であると同時に、その当事者にさえ十分に判断できない現象なのだから、結局、誰にも真実はわかりませんよね」ということにしかならないだろう。
だとすれば、「明確な教義」を持ち「それが意味するところは、こうだ」と明言してきた「キリスト教会」の、これまでの「断言」が、「明確な根拠を欠いた、単なる手前味噌な決めつけ(の盲信)」でしかなかったことを、認めるも同然となってしまい、結果としては、やはり「負け」になってしまうからである。

つまり、本作『ベネデッタ』における、ポール・ヴァーホーベンの、キリスト教への「批評性」は、『スターシップ・トゥルーパーズ』などでのそれとは、比較にならないほど「深く本質的」なものであり、その意味で本作は、まことに稀有な作品となり得ている。

そして本作が、こうした深く本質的な「批評性」を持ち得たのは、それもそのはず、ヴァーホーベンは「イエス・キリスト」に関する実証研究的な著作のある、その道の「専門家」でもあったからなのだ。

そんな彼は、かつてアメリカで、ペンタコステ派(聖霊派)の教会にふらりと立ち寄った際に、そこで演じられた「異言」を放つ人々による熱狂的な集会において、自身、ある種の「啓示的ビジョン」を見たことがあり、そうしたキリスト教的「ビジョン」つまり「幻視」は、何もその時だけではなかったそうなのだ。

しかし、ヴァーホーベンの非凡なところは、前記のペンタコステ派(聖霊派)の教会での「幻視」の際、それに感動して「回心」したとかいう、ありがちな話ではなく、「これはおかしい。これは何か違う。こんなものに巻き込まれてはいけない」と、自らの「ビジョン」を否定して、その場を立ち去り、その後、その意味するところを、自分なりに探求し始めた、というところである。

つまり、多くのクリスチャンは、パウロの「回心」がそうであったように、「否定し難い証拠」を見せられて「回心」するのだが、ヴァーホーベンは、己の見たものにさえ「疑義」を挟むことのできる、徹底的な「懐疑的理性」に持ち主だったのだ。

そして、そんな彼が、自身の中心的な関心領域である「信仰と奇跡」の問題を扱ったのだから、本作『ベネデッタ』が、当たり前の「キリスト教映画」や「アンチキリスト教映画」にならなかったのも当然であろう。

本作は、単に「他者としてのキリスト教(信仰)」と対決しただけのものではなく、何よりも「自分の見ているもの=自分の現実」とさえ対峙して見せた、ポール・ヴァーホーベンという「稀有な知性」の結晶だと、そう評価しうる作品なのだ。
そして、そう考えれば、本作が『トータル・リコール』や『インビジブル』といった作品とも直結した作品であったことが、容易に了解できるのである。


(2023年3月3日)

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