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フランク・ダラボン監督 『ショーシャンクの空に』 : 刑務所としての「この世」 の空に

映画評:フランク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に』

あまりにも有名な作品だから、さほど映画を観ない人でも、タイトルぐらい聞いたことがあるのではないだろうか。

最近でこそ、退職後のヒマにまかせて、新作のあれこれは無論、旧作までフォローして、ほとんど映画マニアに近い状態になってはいるが、なぜこれまでは、レンタルやサブスクリプションなどで映画を観なかったのかというと、それは、劇場にまで足を運ぶこともなく、簡単に鑑賞できてしまうそうしたサービスを利用すると、作品を厳選することなく、安易に観るようになってしまい、私の本来の趣味である「読書」に差し障りの出るのが、目に見えていたからだ。
また、そんなわけで私は、映画を観るにしても、学生時代の趣味の継続として、映画の中でも「アニメ作品」を優先してきたのである。

長らく続いた「ビデオレンタルの時代」を、私は一度も会員になることなく乗り越え、サブスクの時代を横目にしつつ、今でも、映画を観るのであれば、劇場まで足を運ぶか、中古DVDを購入するかに限定している。
中古DVDというのは、劇場で観るよりは安いことも少なくないが、サブスクよりは割高だろう。だが、だからこそ、それが一定の歯止めにもなれば、「篩」にもなる。
本作も、そうした「篩」にかけた上での、中古DVDでの鑑賞であった。

それにしても、「名作」の誉れ高い本作を、どうしてこれまで、中古DVDやテレビ放映などで視なかったのかというと、それは本作が、「感動作」であり「良い話」だと聞いていたからである。
私は、基本的に天の邪鬼だから、そういう作品は基本的に避けるし、少なくとも後回しにする。つまり、拒絶否定するわけではないが、優先順位が低いのである。だから、今になってしまった。

で、いよいよ鑑賞したわけだが、結果はどうであったか?

もちろん、素晴らしい「感動作」であった。映画ファンの評価が極めて高いというのも、素直に納得できる作品だった。

一一だが、評論文を書くことが趣味でもある私が、視終えてまず考えたのは「この作品を、どう論じれば良いだろうか?」ということだった。

こう書くと、「感動できればいいじゃないか」「作品は鑑賞するため、楽しむために観るものであって、論じるためにあるのじゃない。そんな考え方は、本末転倒だろう」と、そうおっしゃる方も決して少なくないはずだ。だが、私はそうは思わない。

実際、ネット時代の今日、多くの人は映画の「感想」を、SNSなどにアップしているはずだが、私の評論文書きの趣味は、そんな昨日今日に始まった、柔なものではないのである。

現在、多くの人がネットにアップしているようなものの多くは、「面白かった・面白くなかった」とか「感動した」とか「泣いた」とかいったものでしかない。
だが、そんなものは「批評文」でもなければ「評論文」でもない、というのは、一一『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)で、世界的にも有名になった、アニメ監督の押井守が、インタビュー「押井守が今の若い監督に望むことは? アニメーション業界における批評の不在を語る」で、次のように嘆くとおりである。

『インターネットの普及によって、コミュニケーションの手段が前よりいっぱいあるように見えるけど、作品に関する批評行為というのは、批評する側もされる側も何か真剣じゃないという感じがするね。』

『最近は批評する側も、炎上したくなくて予防線を張りまくっているからね。「これは個人的見解ですが……」とか、なんでそんなことを言う必要があるんだよって思う。文句を言われたら言い返せばいいし、辛いなら黙ってブロックすればいいじゃないの。叩くとか炎上させるとか、そういうのは欲求を晴らしているだけで、物を言うことと関係ないからね。たまにちゃんと物申す人がいると、それだけで注目されちゃうのは変だと思うよ。』

『昔、宮さん(宮﨑駿)が「漫画の世界には批評がない」とよく言っていたけど、アニメーションも同じなんだよね。サブカルチャー全般と言っていいのかもしれないけれど、批評の場がない。「良かった」「悪かった」しかないんですよ。ゲームでも、神ゲーとクソゲーしかない。神とクソしかないって、それは批評がないのと一緒だから。』

まったく、そのとおりである。
ただし、押井は、惜しいことに、私の存在を知らないのであろうが(※ ダジャレである)。

ともあれ、『「良かった」「悪かった」』とか「感動した」とか「泣いた」とかいった感想は、小学生の感想文を一歩も出るものではなく、無論それは「批評文」でも「評論文」でもないから、そんなものが、多少なりとも文化に寄与することはなくて、(排出して、自分がスッキリするだけの)単なるマスターベーションに過ぎない。

もちろん、今時の作家は、そんな「お客さん」でもいてもらわないと困るから、ありがたく「ご感想」を拝聴するポーズを採りはするけれど、多少なりとも頭のあるクリエーターなら、そんな「感想文」など、右から左に聞き流しているはずだ。聞くだけ時間の無駄だからである。

したがって、私が以下に書くのは、「批評文」であり「評論」だ。
それは「いつものこと」にすぎないのだが、本作のような「感動作」を論ずる機会に、「感動」で終わらせずに「論ずる」ことの重要性を、語っておくことにしたのである。

つまり、映画鑑賞に関する、世間様の『「感動できればいいじゃないか」「作品は鑑賞するため、楽しむために観るものであって、論じるためにあるのじゃない。そんな考え方は、本末転倒だろう」』というご意見は「間違っている」ということを、先に「論じて」おきたかった。「論じること」とは、まず「考えること」が、その前提となる行為なのである。

したがって、「論じること」、「批評文」「評論文」を書くことと、「感想文」を書くこととは、まったく意味が違うという、初歩的な認識について、確認しておこうと考えた。
そして、その上で「感動した」としか言えないような「お客さん」は「身の程を知れ(自分のことを理解しろよ)」と、そう「批評」しておいて、自らハードルを精一杯上げたうえで、私の『ショーシャンクの空に』論を、以下に記そうというのである(無論、この「前説」は、後で書いて、付け加えたものではない)。

 ○ ○ ○

本作『ショーシャンクの空に』は、ホラー作家として名高い、かのスティーブン・キングの中編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」を原作とした、映画化作品である。だが、「ホラー」ではない。

(リタ・ヘイワースをポスターを手にするアンディ)

1994年公開で、1995年の「第67回アカデミー賞」では7部門にノミネートされたものの受賞には至らなかったが、日本の映画専門誌である『キネマ旬報』の読者投票では洋画部門のベストワンに選ばれ、ネットの映画批評サイトなどでは、今もなお評判の高い作品。
言うなれば「評価の定まった歴史的名作」であり、すでに「古典」といっても過言ではない作品である。

しかしまあ、そういう作品だからこそ「いつでも観られる」ということで、これまで観なかったわけでもあるのだが、今回鑑賞してみて、この「ほぼ完璧な傑作」を「どう論じればいいのか?」と、しばらく考え込んでしまった。

「感動作」であるというは、あらためて言うまでもないことで、この作品を評するのに「感動作」という言葉は、1兆回以上繰り返されてきたであろう(たぶん)。だから、そんなことを書くのは、SDGsにも反する行為であり、意味がないばかりか、悪徳行為かもしれない。
ならば、まったく前例のない評価を語るのは不可能にしても、まあ、めったには読めないようなものを書こうと考え、それが書ければ、公開する意味もあると考え、また、それが「書ける」とも考えたのである(ちなみに、Wikipediaの所収の「分析」など、考察の類は参照しなかった)。

さて、議論の前提としての「ストーリー紹介(概要)」だが、これは、下のサイトに「頭から最後まで」要領よくまとめて紹介されているので、記して、ありがたく引用させてもらうことにする。
すでに鑑賞済みの方は、飛ばして、そのあとの本論を読んでいただきたい。

『 「ショーシャンクの空に」プロローグ

アンドリュー・ディフレーン=アンディ(ティム・ロビンス)は、妻と不倫関係にある愛人を、憎悪から二人を銃で撃ち殺そうとしていましたが、実際は引き金を引く事ができないでいました。しかし、不運にも偶然二人は銃殺されてしまうのです。身に覚えのないアンディ―は、必死に裁判で否認するも懲役が決定してしまいます。そして刑が確定し、ショーシャンク刑務所にやってくるところから話が始まります。

 「ショーシャンクの空に」仲間との出会いのきっかけ

刑務所での生活に絶望しかなかったアンディは、たった12人しか選ばれない、ショーシャンク刑務所の屋根の補修作業に選ばれることになりました。

その作業中に、刑務官ハドリーが遺産相続の問題を抱えている話が耳に入って来ます。元銀行員のアンディは作業を止めて乗り出します。同じ補修作業をしている仲間たちへのビールを与えることと引き換えに、ハドリーに対して、遺産相続問題の解決策を提示します。見事ビールを手に入れ、今まで距離を感じていた仲間たちとも近づくきっかけとなります。

やがて、アンディは図書係への配置換えとなります。彼に刑務官の財務処理をさせるのが本当の目的でした。しかし、元銀行員のアンディにとって、財務の仕事は、場所は刑務所の中であったとしても、自分が信念を持ってやって来た仕事には変わりはありませんでした。そうこうしているうちにアンディは図書館の予算に関して、州議会とやりとりをするようになり、刑務官たちからも厚い信頼を勝ち得ていきます。

ノートン所長は、ショーシャンク刑務所において絶対的な存在。彼からも絶大な信頼を得ているアンディは、部屋の抜き打ちチェックも他の囚人とは異なり、多少緩いチェックとなります。部屋には、囚人仲間のレッド(モーガン・フリーマン)から仕入れたリタ・ヘイワーズの大きなポスターがありました。本当なら没収されても不思議ではない、そのポスターをノートン所長は見逃してしました。そのポスターのウラにあるものなど、想像も付いていないのです。見つめるノートン所長の様子をうかがうその時のアンディの鼓動が伝わってくるようで見ている側にとってはハラハラします。

二人のやりとりの中で、聖書を読むアンディに対し、ノートン所長が「聖書を読むことはいいことだ。私もよく読んでいる。好きな言葉を暗唱聖句したまえ」と言います。そこでアンディは「起きていなさい 主は、いつ戻るかわからない」と答えます。それに対し、ノートン所長は「私に従う者は 命の光を得る」が好きだと互いに言い合います。

聖書の意味を軽々に話すことはできませんが、アンディの言った意味は、起きていることが示す先、それは希望の到来、すなわち自分がショーシャンクを出ることでした。アメリカ人にとっての聖書とは、その良心によって従うものであります。そして高い階級や、教養の深い人程、聖書の意味は大きい。だからアンディが聖書を読み込んでいることでノートン所長はアンディを信じることにしたのでした。

アンディが州議会にさらに手紙でのやりとりを続けた結果、毎年の予算まで確保できるようになり、図書館は囚人達に束の間の娯楽を与える施設となりました。その頃、ノートン所長は、表向きは囚人達の社会更生を図るという名目で、彼らを労働力として野外作業をさせ始め、土建業者達からの賄賂を受け取り始めます。そしてアンディは「ランドール・スティーブンス」という架空の人物を作り出し、その多額の不正蓄財を見事に元銀行員の敏腕を生かして、見事に隠蔽していたのです。

1965年、新たに入所した若者のトミーとアンディは出会います。トミーはアンディと打ち解けるうちに彼の過去を知ると、アンディが冤罪に巻き込まれた射殺事件の真犯人に心当たりがあると話す。アンディはノートン所長に再審請求したいと頼み込むが、優秀な経理担当者と同時に不正蓄財を知っている彼を釈放する考えなどもってのほかで、アンディを懲罰房に入れ、考えを改めるよう迫る。1ヶ月経っても全く考えを変える姿勢のないアンディに痺れを切らしたノートン所長は、冤罪の証拠を握るトミーを呼び出して射殺、後日アンディには「脱走したため撃った」と嘘を伝えるのです。

トミーの死から1ヶ月経った日、再び不正経理を行うことを条件にアンディは懲罰房から出されます。しかし、アンディの様子はどこかおかしく、レッドによくわからない伝言を残します。レッドら仲間達はアンディが自殺を考えていると疑い、嵐の晩に心配が募ります。

翌朝、アンディが房から消えていることが発覚します。アンディの房でノートン所長が見逃していた、ポスターの裏の壁に大穴が開いていることを見つかります。アンディは約20年間、壁を掘り続け、ついに1966年、脱獄したのです。アンディは不正処理を行う際に作り上げた架空の人物「スティーブンス」に成りすましてノートン所長の不正蓄財を引き出すと同時に、ノートン所長による不正経理の告発状を新聞社へ送り、難なくメキシコへ逃亡するのです。

それから間もなくレッドは服役40年目にしてようやく仮釈放されますが、外の生活に順応できず、不安に駆られます。しかし、レッドはアンディの残した伝言を信じてメキシコのジワタネホへ向かう。そして、海岸線で悠々自適の生活を送るアンディと再会し、喜びの抱擁を交わすのです。』

これだけ立派な「紹介文」を掲載しているにもかかわらず、このサイトでの本作に対する「評価」なり「感想」は、たったのこれだけだ。

『 感動する洋画「ショーシャンクの空に」の魅力

映画「ショーシャンクの空に」の魅力は、アンディが理不尽な状況に置かれながらも、自分の力を発揮して、プライドを守り、他の囚人仲間(※ トミー)にも高校卒業の資格を取らせるなど、決して絶望せず、人にも希望を与え続ける姿勢が「ショーシャンクの空に」全体通して描かれています。刑務所というリアルな世界を丁寧に描き、観る者にも人生を考えさせてくれる映画になっています。』

『 感動する洋画「ショーシャンクの空に」のまとめ

いかがでしたでしょうか?洋画「ショーシャンクの空に」はあらゆる逆境の中でも、腐心せず、希望を持ち続けたアンディの半生を描いた感動的なヒューマンドラマ作品です。重いテーマを扱った洋画ですが、人生について考えさせられる一作となっておりますので、ぜひご覧になってください!』

要は、「人生を考えさせてくれる感動作だ」というだけ、なのである。
つまり、これも「紹介文+感想文」でしかなく、「批評文」や、ましてや「評論文(作品論)」などではない、ということだ。

 ○ ○ ○

本作は「無実の罪で終身刑を言い渡され、刑務所に入れられた主人公が、その中で腐ることなく希望を持ち続け、やがて刑務所の中での幸福の追求に限界を見たとき、脱獄を敢行してまんまと成功し、憧れの地での生活という夢を実現して、のちには、刑務所で親友だった友人を呼び寄せて、ともに幸福な後半生を送った」という、絵に描いたような「ハッピーエンドの感動作」である。

このような内容だから、「感動作」だというのは当然として、「逆境に腐ることなく、希望を持ち続け、地道に努力することが、幸福への道である」といった、わかりきった「教訓」を得るだけなら、それは小学生にだって可能なこと。

だが、いい年をした大人が、そんな「感想」しか持つことができないとしたら、それは、この傑作も泣こうというものではないだろうか? 観客が泣くことしか知らないなら、むしろ、この傑作は、その成果の虚しさにおいて悲しみ、泣くことにもなろう(し、「ボーッと観てんじゃねえよ!」と言うかもしれない)。

どういうことかと言うと、大人の鑑賞であれば、「現実は、こううまくはいかない」と知っていなくてはいけないし、それを知ったうえで、この作品に描かれたものを「考えなければならない」ということである。

たしかに、ごく稀には、本作の主人公のような「並外れた人間(スーパーマン)」も存在するだろう。彼は、言うなれば「スーパーマン」だからこそ(『カリオストロの城』のルパンではないが)「空だって飛べた」のである。つまり、こんな普通は不可能な脱獄を実現させ、しかも幸福な後半生を手に入れた。

しかし、私たちの多くは、彼のような「スーパーマン」ではないから、きっと同じような逆境におかれたら「挫けて」「腐って」「絶望」してしまうだろう。
他の多くの囚人、特に「終身刑の囚人」がそうであるように、希望を捨てて、ただ刑務所の中の日々を送る、文字どおりの「囚人」になってしまうだろう。

だが、こうした「希望を捨てて、ただ刑務所の中の日々を送る囚人」とは、じつのところ「私たちの似姿」なのではないだろうか。

たしかに私たちは「シャバ(塀の外)」にいて、一定の「自由」を謳歌しているのだが、しかし、それは本作主人公の二人が手に入れたようなものだろうか?

それこそ「映画ではない」のだから、そんな「絵に描いたような」人生を歩んではいないはず。
「塀の外には、塀の外なりの制限があり、不自由がある」し、その意味では、塀の外にいる私たちもまた、別の「塀」に囲まれており、その中での「許された範囲の自由」を生きているだけではないのか?

じっさい、50年間服役した後で「仮釈放」が決まった、終身刑の囚人であったブルックス老人は、外に出るのが「怖ろしい」と言って「仮釈放」を拒もうとするが、そんな勝手は許されず、嫌々ながら外の世界へ出て行き、当初はそれでも「外の世界」に馴染もうと努力したのだが、結局は、孤独と不安に苛まれて、首吊り自殺するのである。

つまり、私たちが「(塀の)外の世界」に生きているのは、「ここ」が「天国のように、自由で幸福な場所だから」ではない。
そうではなく、私たちは「終身刑の囚人」たちと同じように、この「出られない世界」に、やむなく「順応」して、そこで得られる「小さな幸せ」に満足するように努め、やがて、それが「当たり前」だと思うようになっているだけなのだ。
だが、そんな「外の世界」の現実は、ブルックス老人が自殺しなければならなかったほど、「孤独と不安」に満ちた「冷たい世界」でしかないのである。

(アンディと、心やさしき老囚人ブルックス)
(塀の外に出て、不安げに立ち尽くすブルックス)
(バスに乗ることさえ不安である)

そして、そう考えるなら、本作主人公アンディの「脱獄」と、それによって掴んだ「(塀の外の)夢」とは、いったい何を意味しているのだろうか?

私は「アンディの脱獄」を、「精一杯、希望を持って生きたうえでの、死」であると考えた。

つまり、アンディーが脱獄によってたどり着いた「夢の地」である『メキシコのジワタネホ』は、ラストシーンの「美しい海辺」の景色が示すとおり、「天国」の暗喩なのではないだろうか。
したがって、夢のように美しく、かつ、他にひと気のない海辺での、アンディと親友レッドとの再会とは、じつのところ「天国での、親友との再会」を意味していたのではないか。

(本作末尾に掲げられた献辞。グリーンは、ダラボン監督の盟友であった)

しかし、こう書くと、せっかくの「パッピーエンドの感動作」が台無しだと言われそうだが、私がここで強調したいのは、アンディやレッドが、決して「絶望して自殺したわけではない」という点である。

アンディは、刑務所の中でも「希望」を持ち続けて、決して捨てることはしなかった。刑務所の先輩であるレッドは、希望というのは多くの場合、失望に終わるしかないことを知っているから、アンディに「希望」なんか持たない方が良いと助言するが、それでもアンディは決して「希望」を捨てはしなかった。
だが、アンディに「冤罪を晴らす」希望をもたらしてくれた、アンディが目をかけた新入りの若き囚人トミーが刑務所所長に殺され、刑務所の中を「幸福な世界」にするという「希望」が完全に絶たれたと知った時、アンディは「刑務所の外」へと「希望」をつないだのである。

(ポスターの下に隠されていた脱獄用のトンネルに驚くノートン所長)

しかしながら、また、こう書くと、「それでは、アンディの脱獄とは、やはり自殺の暗喩ではないのか。じっさい、レッドだって、仮釈放になった後、ブルックス老人と同じように、いったんは自殺しようとした。ただ、そのギリギリのところでアンディとの約束を思い出すことで、アンディからの招待状を手に入れて、ジワタネホへ行ったのだから、ジワタネホが天国の暗喩なのだとすれば、結局は二人はともに、自殺したと考えなければならなくなるのではないか」と指摘されるかもしれない。一一たしかに、その指摘は、かなり鋭いもので、ここはよく考えなければならないところだが、結果から言えば、それは、ちょっと違うと、私は思う。

(アンディの残したメッセージを読むレッド)

と言うのも、アンディが脱獄したのは、単に「刑務所生活に絶望した」からではなく、それでも「夢の実現という希望を捨てなかった」からだし、レッドがアンディの誘いによってジワタネホにたどり着けたのも、それは彼が「友情」という「希望」を見失わなかったからだろう。
その点で、「孤独と不安」そして「絶望」の果てに自殺したブルックスとは、やはり違っていたのだと思う。

つまり、本作『ショーシャンクの空に』は、「希望を捨てなければ、希望は実現できる(天国に行ける)」ということを語っているのではなく、「希望を手放さないで生きているかぎり、どこであろうと、そこは天国なんだ。よそに天国なんてないんだよ」ということを語っているのではないだろうか。

たしかに人間は、生きているかぎり、どこであろうと「生きる苦しみ」を感じないではいられない。しかし、「希望」を持って、今を精一杯前向きに生きていれば、たとえ「夢」が実現しなくても、その瞬間瞬間が「幸福」なものであり、つまり「天国」なのではないだろうか。だからこそ、アンディは「決して希望を捨てない」主人公として描かれたのではないだろうか。

言い換えれば、肝心なのは、「夢を実現する」ことではなく、「希望を持って今を生きる」ことであり、それが「天国に生きる」ことだということなのではないか。

じっさい、アンディの脱獄が、一種の「死」を暗示しているというのは、彼が刑務所から下水管を伝って、外の川まで逃げ延び、膝まで浸かった川の中で、それまで着ていた「囚人服を脱ぎ捨て」、おりから降ってきた雨に打たれたながら、天を仰いで、両腕を大きく開くというシーンが、暗示的に語っているように、私には思える。

つまりこのシーンは、この映画のポスターにもなっており、この映画のテーマである「自由と幸福」ということを象徴しているのだろうが、私はこのアンディを見て、「十字架のイエス」を想起したのである。

たしかにイエスは、無実の罪で十字架に架けられて死んだし、四福音書の一つである「マタイによる福音書」では、十字架に架けられたイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と嘆き、「絶望」したことになっていて、他の福音書の「天の父の望まれるままに」といった調子の、悟ったイエスとは違って、最も「リアル」なイエス像だと考えられている。

しかし、いずれにしろ、イエスは十字架に架けられて死ぬことによって、天に昇って神に左側に坐する存在となったのであり、「救世主(キリスト)」に生まれ変わることもできたのである。

つまり、アンディーの「脱獄」を、イエスの「十字架による(贖罪)死」であると考えれば、彼の「死」は、決して不幸なものではなく、「キリスト(救世主)」への転生をうながす契機であったと理解することも可能であり、だからこそアンディは、彼の友情を忘れなかったレッドを、「天国」であるジワタネホへと招き入れることもできた、ということになるのではないだろうか。

(アンディがハンマーを隠していた聖書)

 ○ ○ ○

こうした観点からすれば、この作品に特徴的なのは、「天と地」の関係性ということなのかもしれない。

具体的にいうならば、前記の脱獄シーンで、アンディが「天を仰いだ」というだけではなく、この映画では、ショーシャンク刑務所を「空撮」したシーンがきわめて印象的で、それはまるで、人間たちを見守る「神の視点」でもあるかのようだし、アンディが、刑務所の図書館用に寄贈された本の中から、歌劇『フィガロの結婚』のレコードを見つけ、これを勝手に、全所放送した際、刑務所の中庭にいた囚人たちが、高所に設置されているスピーカーを見上げて、驚きながらも歌に聞き入るという印象的なシーンでも、彼らは「天を見上げている」ように見える。

それに、そもそも本作のタイトルが、原作の「刑務所のリタ・ヘイワース」ではなく、原題では「The Shawshank Redemption」で、直訳すると「ショーシャンクの贖い(贖罪)となり、いかにも「キリスト教」的なもので、邦題ではそれを『ショーシャンクの空に』と、「空」という言葉を使って「上方」を示唆しているのは、この映画では「上を見ること=希望を持ち続けること」の重要性を語ってからではないだろうか。

無論、「天」には「天国=(神の国)」があり、しかも「神の国」とは、聖書にもある通りで「どこにでもある希望」の象徴なのでないだろうか(その意味で、窓のない懲罰房は、絶望の象徴かもしれない)。

『ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 』

「ルカによる福音書」より)

そんなわけで、本作で描かれている「脱獄」とは、決して「逃避」を意味しているのではない。むしろ、それとは真逆に、「今ここ」に「絶望しないこと=希望を捨てないこと」を、意味しているのではないだろうか。

ショーシャンク刑務所の「空」にだって、彼らを見守る「神」がいて、「神」のいる「天国」という「希望」が存在していた。
だから、私たちがこの映画から学ぶべきことは、現実に絶望してうつむくのではなく、それでも「空」を見上げ、顔を上げて生き抜く「希望」を持ち続けるべきだ、ということなのではないだろうか。


(2023年3月19日)

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【追記】「空(から)になったアンディの房」と「空になったイエスの墓」

上の本稿(本文)を書き上げ、アップした後に気づいたことを、(すでに「いいね」を下さった方もいるので)本稿への加筆ではなく、追記とさせていただくことにした。

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私は、本稿本文で、アンディが、脱獄を果たした後、雨の中で「天を仰いで、両腕を大きく開く」シーンについて、「十字架のイエスを想起する」と書いたが、しかし、この脱出の成功は、「十字架に架けられたイエス」の意味もあるだろうが、より直接的には「イエスの死後三日目の復活」を意味するのではないかと気づいた。

イエスは十字架に架けられて処刑され、その遺骸が墓に入れられて石の蓋をされたものの、処刑の3日後に、マグダラのマリアなどの女弟子たちがが、遺体に香料を塗るために墓へ行ったら、墓の蓋が開いており中は空っぽで、その場にいた天使が、彼女らに「イエスの復活」を告げた、という描写があるからだ(マタイ28:1-15;ルカ24:1-12;ヨハネ20:1-1)。

(アンディの房からの消失に驚く刑務官)

つまり、アンディの1ヶ月余りの懲罰房入りは、それまでの「囚人」としての彼の「埋葬」、つまり「死」を象徴的に暗示したものであり、その後、元の個人房に戻されてすぐ、そこから彼が忽然と姿を消したという描写は、「イエスの復活」が重ねられていたのではないか、ということである。

したがって、刑務所を脱出して、雨の中で「天を仰いで、両腕を大きく開く」アンディの姿は「十字架に磔刑されたイエス」というよりも、単に彼が「復活のイエス」と重ねられていることを、ポーズとしてわかりやすく示した、ということなのではないだろうか。

また、だからこそ、脱出に成功したアンディは、イエスが弟子たちの前に姿を現した後、生身のまま天に登ったのと同じように、レッドに絵葉書を送った後、国境を越えて、「天国」の暗喩である、メキシコのジワタネホへと旅立ったのではないだろうか。

(2023年3月20日午前1時35分)

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