フランク・ダラボン監督 『ショーシャンクの空に』 : 刑務所としての「この世」 の空に
映画評:フランク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に』
あまりにも有名な作品だから、さほど映画を観ない人でも、タイトルぐらい聞いたことがあるのではないだろうか。
最近でこそ、退職後のヒマにまかせて、新作のあれこれは無論、旧作までフォローして、ほとんど映画マニアに近い状態になってはいるが、なぜこれまでは、レンタルやサブスクリプションなどで映画を観なかったのかというと、それは、劇場にまで足を運ぶこともなく、簡単に鑑賞できてしまうそうしたサービスを利用すると、作品を厳選することなく、安易に観るようになってしまい、私の本来の趣味である「読書」に差し障りの出るのが、目に見えていたからだ。
また、そんなわけで私は、映画を観るにしても、学生時代の趣味の継続として、映画の中でも「アニメ作品」を優先してきたのである。
長らく続いた「ビデオレンタルの時代」を、私は一度も会員になることなく乗り越え、サブスクの時代を横目にしつつ、今でも、映画を観るのであれば、劇場まで足を運ぶか、中古DVDを購入するかに限定している。
中古DVDというのは、劇場で観るよりは安いことも少なくないが、サブスクよりは割高だろう。だが、だからこそ、それが一定の歯止めにもなれば、「篩」にもなる。
本作も、そうした「篩」にかけた上での、中古DVDでの鑑賞であった。
それにしても、「名作」の誉れ高い本作を、どうしてこれまで、中古DVDやテレビ放映などで視なかったのかというと、それは本作が、「感動作」であり「良い話」だと聞いていたからである。
私は、基本的に天の邪鬼だから、そういう作品は基本的に避けるし、少なくとも後回しにする。つまり、拒絶否定するわけではないが、優先順位が低いのである。だから、今になってしまった。
で、いよいよ鑑賞したわけだが、結果はどうであったか?
もちろん、素晴らしい「感動作」であった。映画ファンの評価が極めて高いというのも、素直に納得できる作品だった。
一一だが、評論文を書くことが趣味でもある私が、視終えてまず考えたのは「この作品を、どう論じれば良いだろうか?」ということだった。
こう書くと、「感動できればいいじゃないか」「作品は鑑賞するため、楽しむために観るものであって、論じるためにあるのじゃない。そんな考え方は、本末転倒だろう」と、そうおっしゃる方も決して少なくないはずだ。だが、私はそうは思わない。
実際、ネット時代の今日、多くの人は映画の「感想」を、SNSなどにアップしているはずだが、私の評論文書きの趣味は、そんな昨日今日に始まった、柔なものではないのである。
現在、多くの人がネットにアップしているようなものの多くは、「面白かった・面白くなかった」とか「感動した」とか「泣いた」とかいったものでしかない。
だが、そんなものは「批評文」でもなければ「評論文」でもない、というのは、一一『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)で、世界的にも有名になった、アニメ監督の押井守が、インタビュー「押井守が今の若い監督に望むことは? アニメーション業界における批評の不在を語る」で、次のように嘆くとおりである。
まったく、そのとおりである。
ただし、押井は、惜しいことに、私の存在を知らないのであろうが(※ ダジャレである)。
ともあれ、『「良かった」「悪かった」』とか「感動した」とか「泣いた」とかいった感想は、小学生の感想文を一歩も出るものではなく、無論それは「批評文」でも「評論文」でもないから、そんなものが、多少なりとも文化に寄与することはなくて、(排出して、自分がスッキリするだけの)単なるマスターベーションに過ぎない。
もちろん、今時の作家は、そんな「お客さん」でもいてもらわないと困るから、ありがたく「ご感想」を拝聴するポーズを採りはするけれど、多少なりとも頭のあるクリエーターなら、そんな「感想文」など、右から左に聞き流しているはずだ。聞くだけ時間の無駄だからである。
したがって、私が以下に書くのは、「批評文」であり「評論」だ。
それは「いつものこと」にすぎないのだが、本作のような「感動作」を論ずる機会に、「感動」で終わらせずに「論ずる」ことの重要性を、語っておくことにしたのである。
つまり、映画鑑賞に関する、世間様の『「感動できればいいじゃないか」「作品は鑑賞するため、楽しむために観るものであって、論じるためにあるのじゃない。そんな考え方は、本末転倒だろう」』というご意見は「間違っている」ということを、先に「論じて」おきたかった。「論じること」とは、まず「考えること」が、その前提となる行為なのである。
したがって、「論じること」、「批評文」「評論文」を書くことと、「感想文」を書くこととは、まったく意味が違うという、初歩的な認識について、確認しておこうと考えた。
そして、その上で「感動した」としか言えないような「お客さん」は「身の程を知れ(自分のことを理解しろよ)」と、そう「批評」しておいて、自らハードルを精一杯上げたうえで、私の『ショーシャンクの空に』論を、以下に記そうというのである(無論、この「前説」は、後で書いて、付け加えたものではない)。
○ ○ ○
本作『ショーシャンクの空に』は、ホラー作家として名高い、かのスティーブン・キングの中編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」を原作とした、映画化作品である。だが、「ホラー」ではない。
1994年公開で、1995年の「第67回アカデミー賞」では7部門にノミネートされたものの受賞には至らなかったが、日本の映画専門誌である『キネマ旬報』の読者投票では洋画部門のベストワンに選ばれ、ネットの映画批評サイトなどでは、今もなお評判の高い作品。
言うなれば「評価の定まった歴史的名作」であり、すでに「古典」といっても過言ではない作品である。
しかしまあ、そういう作品だからこそ「いつでも観られる」ということで、これまで観なかったわけでもあるのだが、今回鑑賞してみて、この「ほぼ完璧な傑作」を「どう論じればいいのか?」と、しばらく考え込んでしまった。
「感動作」であるというは、あらためて言うまでもないことで、この作品を評するのに「感動作」という言葉は、1兆回以上繰り返されてきたであろう(たぶん)。だから、そんなことを書くのは、SDGsにも反する行為であり、意味がないばかりか、悪徳行為かもしれない。
ならば、まったく前例のない評価を語るのは不可能にしても、まあ、めったには読めないようなものを書こうと考え、それが書ければ、公開する意味もあると考え、また、それが「書ける」とも考えたのである(ちなみに、Wikipediaの所収の「分析」など、考察の類は参照しなかった)。
さて、議論の前提としての「ストーリー紹介(概要)」だが、これは、下のサイトに「頭から最後まで」要領よくまとめて紹介されているので、記して、ありがたく引用させてもらうことにする。
すでに鑑賞済みの方は、飛ばして、そのあとの本論を読んでいただきたい。
これだけ立派な「紹介文」を掲載しているにもかかわらず、このサイトでの本作に対する「評価」なり「感想」は、たったのこれだけだ。
要は、「人生を考えさせてくれる感動作だ」というだけ、なのである。
つまり、これも「紹介文+感想文」でしかなく、「批評文」や、ましてや「評論文(作品論)」などではない、ということだ。
○ ○ ○
本作は「無実の罪で終身刑を言い渡され、刑務所に入れられた主人公が、その中で腐ることなく希望を持ち続け、やがて刑務所の中での幸福の追求に限界を見たとき、脱獄を敢行してまんまと成功し、憧れの地での生活という夢を実現して、のちには、刑務所で親友だった友人を呼び寄せて、ともに幸福な後半生を送った」という、絵に描いたような「ハッピーエンドの感動作」である。
このような内容だから、「感動作」だというのは当然として、「逆境に腐ることなく、希望を持ち続け、地道に努力することが、幸福への道である」といった、わかりきった「教訓」を得るだけなら、それは小学生にだって可能なこと。
だが、いい年をした大人が、そんな「感想」しか持つことができないとしたら、それは、この傑作も泣こうというものではないだろうか? 観客が泣くことしか知らないなら、むしろ、この傑作は、その成果の虚しさにおいて悲しみ、泣くことにもなろう(し、「ボーッと観てんじゃねえよ!」と言うかもしれない)。
どういうことかと言うと、大人の鑑賞であれば、「現実は、こううまくはいかない」と知っていなくてはいけないし、それを知ったうえで、この作品に描かれたものを「考えなければならない」ということである。
たしかに、ごく稀には、本作の主人公のような「並外れた人間(スーパーマン)」も存在するだろう。彼は、言うなれば「スーパーマン」だからこそ(『カリオストロの城』のルパンではないが)「空だって飛べた」のである。つまり、こんな普通は不可能な脱獄を実現させ、しかも幸福な後半生を手に入れた。
しかし、私たちの多くは、彼のような「スーパーマン」ではないから、きっと同じような逆境におかれたら「挫けて」「腐って」「絶望」してしまうだろう。
他の多くの囚人、特に「終身刑の囚人」がそうであるように、希望を捨てて、ただ刑務所の中の日々を送る、文字どおりの「囚人」になってしまうだろう。
だが、こうした「希望を捨てて、ただ刑務所の中の日々を送る囚人」とは、じつのところ「私たちの似姿」なのではないだろうか。
たしかに私たちは「シャバ(塀の外)」にいて、一定の「自由」を謳歌しているのだが、しかし、それは本作主人公の二人が手に入れたようなものだろうか?
それこそ「映画ではない」のだから、そんな「絵に描いたような」人生を歩んではいないはず。
「塀の外には、塀の外なりの制限があり、不自由がある」し、その意味では、塀の外にいる私たちもまた、別の「塀」に囲まれており、その中での「許された範囲の自由」を生きているだけではないのか?
じっさい、50年間服役した後で「仮釈放」が決まった、終身刑の囚人であったブルックス老人は、外に出るのが「怖ろしい」と言って「仮釈放」を拒もうとするが、そんな勝手は許されず、嫌々ながら外の世界へ出て行き、当初はそれでも「外の世界」に馴染もうと努力したのだが、結局は、孤独と不安に苛まれて、首吊り自殺するのである。
つまり、私たちが「(塀の)外の世界」に生きているのは、「ここ」が「天国のように、自由で幸福な場所だから」ではない。
そうではなく、私たちは「終身刑の囚人」たちと同じように、この「出られない世界」に、やむなく「順応」して、そこで得られる「小さな幸せ」に満足するように努め、やがて、それが「当たり前」だと思うようになっているだけなのだ。
だが、そんな「外の世界」の現実は、ブルックス老人が自殺しなければならなかったほど、「孤独と不安」に満ちた「冷たい世界」でしかないのである。
そして、そう考えるなら、本作主人公アンディの「脱獄」と、それによって掴んだ「(塀の外の)夢」とは、いったい何を意味しているのだろうか?
私は「アンディの脱獄」を、「精一杯、希望を持って生きたうえでの、死」であると考えた。
つまり、アンディーが脱獄によってたどり着いた「夢の地」である『メキシコのジワタネホ』は、ラストシーンの「美しい海辺」の景色が示すとおり、「天国」の暗喩なのではないだろうか。
したがって、夢のように美しく、かつ、他にひと気のない海辺での、アンディと親友レッドとの再会とは、じつのところ「天国での、親友との再会」を意味していたのではないか。
しかし、こう書くと、せっかくの「パッピーエンドの感動作」が台無しだと言われそうだが、私がここで強調したいのは、アンディやレッドが、決して「絶望して自殺したわけではない」という点である。
アンディは、刑務所の中でも「希望」を持ち続けて、決して捨てることはしなかった。刑務所の先輩であるレッドは、希望というのは多くの場合、失望に終わるしかないことを知っているから、アンディに「希望」なんか持たない方が良いと助言するが、それでもアンディは決して「希望」を捨てはしなかった。
だが、アンディに「冤罪を晴らす」希望をもたらしてくれた、アンディが目をかけた新入りの若き囚人トミーが刑務所所長に殺され、刑務所の中を「幸福な世界」にするという「希望」が完全に絶たれたと知った時、アンディは「刑務所の外」へと「希望」をつないだのである。
しかしながら、また、こう書くと、「それでは、アンディの脱獄とは、やはり自殺の暗喩ではないのか。じっさい、レッドだって、仮釈放になった後、ブルックス老人と同じように、いったんは自殺しようとした。ただ、そのギリギリのところでアンディとの約束を思い出すことで、アンディからの招待状を手に入れて、ジワタネホへ行ったのだから、ジワタネホが天国の暗喩なのだとすれば、結局は二人はともに、自殺したと考えなければならなくなるのではないか」と指摘されるかもしれない。一一たしかに、その指摘は、かなり鋭いもので、ここはよく考えなければならないところだが、結果から言えば、それは、ちょっと違うと、私は思う。
と言うのも、アンディが脱獄したのは、単に「刑務所生活に絶望した」からではなく、それでも「夢の実現という希望を捨てなかった」からだし、レッドがアンディの誘いによってジワタネホにたどり着けたのも、それは彼が「友情」という「希望」を見失わなかったからだろう。
その点で、「孤独と不安」そして「絶望」の果てに自殺したブルックスとは、やはり違っていたのだと思う。
つまり、本作『ショーシャンクの空に』は、「希望を捨てなければ、希望は実現できる(天国に行ける)」ということを語っているのではなく、「希望を手放さないで生きているかぎり、どこであろうと、そこは天国なんだ。よそに天国なんてないんだよ」ということを語っているのではないだろうか。
たしかに人間は、生きているかぎり、どこであろうと「生きる苦しみ」を感じないではいられない。しかし、「希望」を持って、今を精一杯前向きに生きていれば、たとえ「夢」が実現しなくても、その瞬間瞬間が「幸福」なものであり、つまり「天国」なのではないだろうか。だからこそ、アンディは「決して希望を捨てない」主人公として描かれたのではないだろうか。
言い換えれば、肝心なのは、「夢を実現する」ことではなく、「希望を持って今を生きる」ことであり、それが「天国に生きる」ことだということなのではないか。
じっさい、アンディの脱獄が、一種の「死」を暗示しているというのは、彼が刑務所から下水管を伝って、外の川まで逃げ延び、膝まで浸かった川の中で、それまで着ていた「囚人服を脱ぎ捨て」、おりから降ってきた雨に打たれたながら、天を仰いで、両腕を大きく開くというシーンが、暗示的に語っているように、私には思える。
つまりこのシーンは、この映画のポスターにもなっており、この映画のテーマである「自由と幸福」ということを象徴しているのだろうが、私はこのアンディを見て、「十字架のイエス」を想起したのである。
たしかにイエスは、無実の罪で十字架に架けられて死んだし、四福音書の一つである「マタイによる福音書」では、十字架に架けられたイエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と嘆き、「絶望」したことになっていて、他の福音書の「天の父の望まれるままに」といった調子の、悟ったイエスとは違って、最も「リアル」なイエス像だと考えられている。
しかし、いずれにしろ、イエスは十字架に架けられて死ぬことによって、天に昇って神に左側に坐する存在となったのであり、「救世主(キリスト)」に生まれ変わることもできたのである。
つまり、アンディーの「脱獄」を、イエスの「十字架による(贖罪)死」であると考えれば、彼の「死」は、決して不幸なものではなく、「キリスト(救世主)」への転生をうながす契機であったと理解することも可能であり、だからこそアンディは、彼の友情を忘れなかったレッドを、「天国」であるジワタネホへと招き入れることもできた、ということになるのではないだろうか。
○ ○ ○
こうした観点からすれば、この作品に特徴的なのは、「天と地」の関係性ということなのかもしれない。
具体的にいうならば、前記の脱獄シーンで、アンディが「天を仰いだ」というだけではなく、この映画では、ショーシャンク刑務所を「空撮」したシーンがきわめて印象的で、それはまるで、人間たちを見守る「神の視点」でもあるかのようだし、アンディが、刑務所の図書館用に寄贈された本の中から、歌劇『フィガロの結婚』のレコードを見つけ、これを勝手に、全所放送した際、刑務所の中庭にいた囚人たちが、高所に設置されているスピーカーを見上げて、驚きながらも歌に聞き入るという印象的なシーンでも、彼らは「天を見上げている」ように見える。
それに、そもそも本作のタイトルが、原作の「刑務所のリタ・ヘイワース」ではなく、原題では「The Shawshank Redemption」で、直訳すると「ショーシャンクの贖い(贖罪)」となり、いかにも「キリスト教」的なもので、邦題ではそれを『ショーシャンクの空に』と、「空」という言葉を使って「上方」を示唆しているのは、この映画では「上を見ること=希望を持ち続けること」の重要性を語ってからではないだろうか。
無論、「天」には「天国=(神の国)」があり、しかも「神の国」とは、聖書にもある通りで「どこにでもある希望」の象徴なのでないだろうか(その意味で、窓のない懲罰房は、絶望の象徴かもしれない)。
そんなわけで、本作で描かれている「脱獄」とは、決して「逃避」を意味しているのではない。むしろ、それとは真逆に、「今ここ」に「絶望しないこと=希望を捨てないこと」を、意味しているのではないだろうか。
ショーシャンク刑務所の「空」にだって、彼らを見守る「神」がいて、「神」のいる「天国」という「希望」が存在していた。
だから、私たちがこの映画から学ぶべきことは、現実に絶望してうつむくのではなく、それでも「空」を見上げ、顔を上げて生き抜く「希望」を持ち続けるべきだ、ということなのではないだろうか。
(2023年3月19日)
——————————————————————————————————
【追記】「空(から)になったアンディの房」と「空になったイエスの墓」
上の本稿(本文)を書き上げ、アップした後に気づいたことを、(すでに「いいね」を下さった方もいるので)本稿への加筆ではなく、追記とさせていただくことにした。
○ ○ ○
私は、本稿本文で、アンディが、脱獄を果たした後、雨の中で「天を仰いで、両腕を大きく開く」シーンについて、「十字架のイエスを想起する」と書いたが、しかし、この脱出の成功は、「十字架に架けられたイエス」の意味もあるだろうが、より直接的には「イエスの死後三日目の復活」を意味するのではないかと気づいた。
イエスは十字架に架けられて処刑され、その遺骸が墓に入れられて石の蓋をされたものの、処刑の3日後に、マグダラのマリアなどの女弟子たちがが、遺体に香料を塗るために墓へ行ったら、墓の蓋が開いており中は空っぽで、その場にいた天使が、彼女らに「イエスの復活」を告げた、という描写があるからだ(マタイ28:1-15;ルカ24:1-12;ヨハネ20:1-1)。
つまり、アンディの1ヶ月余りの懲罰房入りは、それまでの「囚人」としての彼の「埋葬」、つまり「死」を象徴的に暗示したものであり、その後、元の個人房に戻されてすぐ、そこから彼が忽然と姿を消したという描写は、「イエスの復活」が重ねられていたのではないか、ということである。
したがって、刑務所を脱出して、雨の中で「天を仰いで、両腕を大きく開く」アンディの姿は「十字架に磔刑されたイエス」というよりも、単に彼が「復活のイエス」と重ねられていることを、ポーズとしてわかりやすく示した、ということなのではないだろうか。
また、だからこそ、脱出に成功したアンディは、イエスが弟子たちの前に姿を現した後、生身のまま天に登ったのと同じように、レッドに絵葉書を送った後、国境を越えて、「天国」の暗喩である、メキシコのジワタネホへと旅立ったのではないだろうか。
(2023年3月20日午前1時35分)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・