見出し画像

宮崎賢太郎 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』 : 宮崎賢太郎批判(2)一一カトリック的ダブルスタンダード

書評:宮崎賢太郎『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(KADOKAWA)

キリスト教について、ある程度の知識がある者にとっては、本書における著者・宮崎賢太郎教授の「ご意見」は、およそ穴だらけで、お話にならない代物である。

本書には書かれていないが、宮崎は、

『父方が長崎県の外海の、母方が浦上の復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔の一人として、長崎市内に生まれました。生後三日目にカトリック教会で洗礼を受け、その後、典型的な長崎のカトリック信者のコースをたどりました。大学院在学中イタリアに渡り、三〇歳のときに帰国して長崎にあるカトリック系の大学に奉職しました。その後三〇年にわたり、主として長崎県下に現存するカクレキリシタンの調査研究に従事してきました。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P4「はじめに」より)

という経歴の持ち主である(※ 「イタリア」とは、もちろんバチカンのことである。つまり宮崎は、総本山がえりのエリートだ)。
この明白な、しかし、いささか屈折した出自と経歴を考え合わせれば、宮崎の主張の一貫性の無さや感情論的傾向の存在も、自ずと理解できる。

宮崎の「偏見」「屈折」の理由は、彼が一貫したカトリック信者であり、その中で職を得て、今の立場を確立したという「現実」が、まず大きい。
次には、彼が「正統カトリックの信仰とは程遠い、異端と呼ぶにも値しないほどに変容した信仰しか持たなかった隠れキリシタンの末裔であり、その隠れキリシタンの信仰を捨てて、権威あるカトリック教会に転宗した(転んだ)者の末裔」であるという事実にある。

つまり、彼は「客観的な学者」の振りをしており、本人も半ばそのつもりなのだろうが、実際には、彼の根底にあるのは「カトリック信仰は、何よりも素晴らしい」という「信仰者特有の主観的(手前味噌な)価値判断」と「主流の中の傍流出身者としてのコンプレックス」なのである。

後者「主流の中の傍流出身者としてのコンプレックス」について簡単に説明すると、これは「外様意識が嵩じて、生まれながらの主流者よりも、強く主流・正統派であろうと忠誠を尽くす」強迫心理的態度だ。
さらに噛み砕いて言えば、生まれながらの王様なら、自分が王様であることを殊更にアピールする必要など感じないだろうが、成り上がり者はいつ周囲から脚を引っぱられるかわからないという不安があるので、ことさらに自分の正統性をアピールしたがる、といったものだ。そうした態度が「正統カトリック信仰とは程遠い、異端と呼ぶにも値しないほどに変容した信仰しか持たなかった隠れキリシタンの末裔であり、その隠れキリシタンの信仰を捨てて、権威あるカトリック教会に転宗した(転んだ)者の末裔」である、宮崎の「屈折した身振り」にはよく表れている。

だが、宮崎の「非論理性」をわかりやすくに示すのは、やはり「カトリック信仰は、何よりも素晴らしい」という信仰者特有の主観的価値判断を内心で持ちながら、それを隠して、ことさらに「学者的客観性」の持ち主であることを自己アピールしている点にある。

『なにが「事実(fact)」であり、何が作られた「物語(stiry)」であるかをしっかりと再確認する必要がある。事実は信仰を危うくすることはない。危ういのは、事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしないことにある。』(P87)

『「夢とロマンの幻想世界」から目を覚まし、常識という偏見にとらわれない自由な眼差しで、実像の歴史を明らかにしていくことの大切さ』(P287)

と、このように立派に宣言した上で、宮崎は、カトリック教会で語られる、日本での「信徒発見の奇跡」について、内容的に全くリアリティーないとし、「謎の日本人伝道師バスチャン」についても、

『 この話は少々できすぎているような気がしないではない。まず、バスチャンという日本人伝道師と、その師ジワン親父が実在の人物かどうかは、資料の上では確認できない。外海で活動したジワンという神父が実在の人物であったならば、その動向がまったく記録に残されていないということはありえない。
 またジワンをめぐる多くの話も、「海上を歩いて遠くの波間に消え失せてしまった」とか、「指で椿の幹に十字を印すと、幹に十字の印が浮き出た」といった荒唐無稽な伝承である。』(P160)

と、カトリック的な伝承を、学問的に否定して、日本における「信徒発見の奇跡」は、

『日本のキリシタンたちを、真正なキリスト教徒として再生させるために、プチジャン(※ 神父)が創作した自作自演のドラマと見るのが至当であろう。』(P172)

と適切に断じて見せもする。

しかし、誰もが気づくとおり、このように『なにが「事実(fact)」であり、何が作られた「物語(stiry)」であるかをしっかりと再確認する必要がある。事実は信仰を危うくすることはない。危ういのは、事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしないこと』だと主張するのならば、どうして宮崎は「カトリックの信仰」自体が「事実(fact)」ではなく「物語(stiry)」に過ぎない、ということを当たり前に直視できないのか?
それをしたところで『事実は信仰を危うくすることはない。』のではなかったのか?

だが、宮崎のこの「心にもない奇麗ごと」に反して、実際には「事実は信仰を危うくする」。

宮崎は、日本でキリスト教の教勢が伸びないという「事実」の理由を、もっぱら「日本人の舶来ロマン主義」が、キリスト教の変容土着化を妨げ、その結果、

『キリスト教徒になるには、それまでの自堕落で、いい加減な、ご都合主義的な生活態度を改めなければ、「敬虔なクリスチャン」になれないとしたら、敬遠したくなるのもむりはない。』(P252)

といった「日本人の側の特殊事情」に求める。
しかし、二昔前もならいざしらず、現在でも日本でキリスト教信者が増えないのは、こんなカトリック教会に都合のよい理由だけではないだろう。

今の日本人ならば、高学歴者ではなくても「キリスト教の胡散臭さや偽善性」は、多少なりとも知っている。
異端審問や十字軍による虐殺行為をまったく聞いたことがないという日本人は多くはないだろうし、カトリック教会の世界伝道が、かつては帝国主義的植民地開拓と一体化したものであったという話も耳にしたことがあるだろう。また最近では、カトリック司祭による「性的な児童虐待」といったニュースにも接しているかもしれない。
つまり、クリスチャンと言えば「敬虔」だという紋切り型のイメージは、日本人にとっても、ことの一面であって、それがすべてではないのに、宮崎は『カトリック教会に都合のよい理由だけ』を語りたがるのである。

『事実は信仰を危うくすることはない。』と主張する宮崎は、なぜカトリック教会に不都合な「事実(fact)」を語ろうとしないのだろうか?
それは無論『事実は信仰を危うくすることはない。』なんてことを、自身も信じてはいないからである。

本気で『事実は信仰を危うくすることはない。』と信じているのであれば、宮崎は『ジワンをめぐる多くの話も、「海上を歩いて遠くの波間に消え失せてしまった」とか、「指で椿の幹に十字を印すと、幹に十字の印が浮き出た」といった荒唐無稽な伝承』を否定するだけで、イエスやマリアに関する『荒唐無稽な伝承』の方は無条件に信じる「正直で敬虔なカトリック教徒」などといった「一貫性を欠いた」人間でいられるものであろうか?
なぜ「そんな荒唐無稽な話、あり得ないでしょう?」と、宮崎は言えないのか?

それは、最初に書いたとおり、宮崎がカトリックとして生まれ育ち『その中で職を得て、今の立場を確立したという「現実」』を背負って、今の現実を生きているからである。
つまり、今更「カトリック信仰は、荒唐無稽な物語(stiry)に過ぎず、それを信じるのは「夢とロマンの幻想世界」に耽溺することでしかない」と正直に言ってしまうと、「今の地位と信用を失うから」に他ならない。

それは、宮崎が、カトリックに「帰正」しなかった「カクレキリシタン」の「やめたくても、周囲の目があるのでやめられない」という趣旨の発言を紹介して、それが本音だろうなと理解共感を示していることからも容易に窺うことが出来る。

『「(略)カクレをやめればたたられるとかもしれない、自分だけやめれば仲間外れにされるかもしれないなどと考えてやめられなかったが、全員がやめることによってやっと解放されたという気持ちである。なにはともあれ行事が大変すぎた」
 この言葉には解散した彼らの気持ちがよくあらわれている。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタン』P131)

『多くの信徒は早く解散したいと思っていても、長く役職を務めた長老が絶対にそれを許さないので、仕方なく続けているケースもあります。現職の役職者として、テレビや新聞紙上で、本音は早く解散したいなどと立場上言えないこともあります。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P193)

隠れキリシタンだけではなく、どんな宗教宗派でも、そのコミュニティーの中に入って地位を築いてしまえば、その宗教宗派の教義を「荒唐無稽な物語(stiry)」に過ぎないなどと断じることは、現世的な損得勘定としても出来なくなってしまうし、いきおいそういう人は「敬虔な信者」を演じ、自分でもそうなのだと「自己暗示」をかけてしまいがちなのである。
しかしそれは、宮崎自身が批判した『事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしない』態度であることは、論を待たない。

『 このようなたとえ話は噴飯ものかもしれないが、ある宗教がキリスト教に対して、次のようにいったとしたらどうであろうか。返答は断固ノーであろう。
「十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話である。進化論や地動説など、聖書も誤っていることが、科学によって証明されており、キリスト教は偽りの宗教である。ゆえにあなたは十字架やマリア像や聖書などをただちに焼き捨て、こちらの宗教に改宗しなければ救われません」
 キリスト教はこれと真逆のことを、自分で気づかないうちに、日本の諸宗教に押しつけてはこなかっただろうか。』(P277〜278)

このたとえ話が『噴飯もの』となり得るのは、キリスト教にこう問うたのが「他の宗教宗派」だった場合であって、こう問うたのが「非信仰者」や「無神論者」であったならば、決して「噴飯もの」では済まされなくなる。

つまり、似たような『荒唐無稽な作り話』を信じている「宗教信者」同士だからこそ「目くそ鼻くそを嗤う」といった類いの批判は「噴飯もの」でしかないのだが、宗教が語る教義や世界観を「それは、事実(fact)ではなく、物語(stiry)にすぎない。現実を直視し、自己欺瞞でしかない信仰を捨てよ」と追及する「非信仰者」や「無神論者」に対し、カトリック信者である宮崎は、決して『返答は断固ノー』だけでは済まされない。
なぜならば、そうした態度は、自らが主張した『「夢とロマンの幻想世界」から目を覚まし、常識という偏見にとらわれない自由な眼差しで、実像の歴史を明らかにしていくことの大切さ』を無視黙殺した、非理性的に頑な「妄信者」的態度に他ならないからである。

宮崎は、こうした自己矛盾や「カトリック的ダブルスタンダード」批判に対する予防線として、次のように書いている。

『奇跡を信じ、そのような(※ カクレキリシタンについてのような、非現実的な)歴史を称えるのは、信仰の立場からは認められるが、実証的な学問の立場からは受け入れられない。』(P170)

つまり宮崎は、自身についてもまた「信仰者の立場」としてなら『十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話』も「嘘でも作り話でもないと信じられるし、そうした妄信は許される」と言いたいのであるが、これが手前味噌な「ダブルスタンダード」であることは論を待たない。

そもそも『十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話』を「嘘や作り話ではないと信じられるし、そうした妄信は許される」と主張することは、じつはその人が(この場合、宮崎自身だが)「イエスの復活やマリアの処女懐胎」あるいは「(人間)ローマ教皇の無謬性」などを、本音では「信じていない」ということにしかならないのである。

だからこそ、その後ろめたさと社会的保身の故に、宮崎は「カトリックの教勢」の心配をし、多少は妥協してもいいから土着化を進めろなどという、教義に反した「政治的(現実的)助言」までして見せる。自論とも齟齬があるにもかかわらず、コニュニティーにおける責任を果たしているというポーズを採りたがるのだ。
しかし、そこにあるのは「学者」の姿ではないし、純粋な「カトリック信者」の姿でもない。

このようなわけで、宮崎賢太郎の「隠れキリシタン」を対象とした「事実関係に関する調査研究」についてなら、それを高く評価するに吝かではないけれども、その成果を利用した、彼の「判断・評価・意見」は、彼の「党派性」や「政治性」によって、まったく信用できない代物だと、私は厳格に評価せざるを得ないのである。

宮崎賢太郎のやっていることは、研究成果を利用した、いかにもカトリックらしい「宗教的党派政治」にすぎないのである。

【補記】
私は現段階で、宮崎賢太郎の著作を『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川引文館)、『カクレキリシタン 現代に生きる民俗宗教』(角川ソフィア文庫)、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)の順に3冊読んでいる。
そして、最初の『カクレキリシタンの実像』を読んだ段階で、Amazonレビューとして「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」と題する文章をアップしているので、併せて読んでいただければ幸いである。
なお、3冊読んだ現段階でも、先のレビューを修正する必要は感じていないという事実を申し添えておこう。

初出:2018年10月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○




 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文