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渡辺京二 『バテレンの世紀』 : 〈殉教〉賛美の 非人間的教義

書評:渡辺京二『バテレンの世紀』(新潮社)

徳川幕府による熾烈きわまりないクリスチャン狩りは、映画にもなった遠藤周作の『沈黙』などでも描かれて、かなり有名なのではないかと思う。
しかし、事がそこに至るまでには、それ相応の経緯があったということを、私たちは知っておくべきだろう。

ここで言う「私たち」とは、「日本人」という意味ではない。「物事を客観的に見て、フェアに評価しようとする人間」のことであり、国籍や所属などの問題ではないのである。
つまり、私たちは、迫害されたクリスチャンの側でも、迫害した日本の権力者の側でもなく、この歴史上の対立の意味を正しく理解しようとする「後世の人間」として、この歴史的な事件に向き合わなければならないのだ。

端的に言おう。かつての日本において、西欧とは違ったかたちで、キリスト教徒への苛烈な迫害が行われたのは、異教に対する「怒り」もさることながら、そこには「恐怖」があったからである。

たしかに、キリスト教が社会を覆った西欧世界においても、「異端」と呼ばれたキリスト教非主流派に対する「拷問」や「虐殺」が横行した。
しかし、そこにあったのは、主流としての「正統たる(ローマ)教会」の「教義」と「地位」を脅かす、「異端」への、極めて「政治的」かつ、その意味で「理性的な怒り」であった。「やつらを野放しにしておいたら、正統教会の権威が保てない」という「政治的判断による怒り」が、「異端」にむけられた結果として、「異端審問」や「魔女狩り」(あるいは「アルビジョワ十字軍」)といった凄惨きわまりない暴力行使がなされたのである。

ところが、もともとキリスト教のような絶対的宗教としての「一神教」をもたなかった日本では、基本的には、宗教宗派間の理論的対決は行われても、政治的に殺しあうというようなことはなかったし、政治権力者もそのようなことを許さなかった。
だから、宗教というものは、権力にとって、さほど理解不能なものではなかったし、基本的に意のままに従わせることのできるものとして容認されていた。また、だからこそキリスト教以前では、「一向一揆」の一向宗だけは徹底的に弾圧されたのである。

しかし、そんな日本の権力者にとって、キリスト教は、理解不能な宗教だった。
それは「わざわざ死を望む=殉教待望」だけではなく、その「刑死者=殉教者」を敬うに止まらず、その遺体に群がり、「聖遺物」としての「衣服や遺体」さえ持ち帰ろうとする信者たちの姿は、権力者に「嫌悪と恐怖」の感情を惹起せしめた。
「聖遺物」に群がるキリシタンの姿は、権力に従わない者への「見せしめ」としてキリシタンを処刑した権力者にとっては、死をも怖れず、その意味で権力さえも怖れない「人外」、今で言えば「ゾンビ」のような存在に見えて、「恐怖」を覚えたのではないだろうか。

そしてその結果、それでも「ローマ教皇を頂点としたキリスト教」権力に屈するわけにはいかない日本の権力者は、迫害を徹底することによって「クリスチャンの一掃」を目指したのではないか。その意識は、まさに「駆除」であった。
私たちが、恐ろしいエボラウィルスと共存できないように、かつての日本の権力者は、共存し得ない存在として、クリスチャンを日本から一層しようとしたのである。

その証拠に、キリシタン禁制が発せられた後も、数十年にわたってキリシタンの存在は大目に見られていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らは、キリスト教の布教を好ましくは思わなくても、交易は強く望んでいたので、バテレンとの関係を完全に断つことまではしなかったのである。

しかし、プロテスタント国であったためにその例外となりえたオランダをのぞく他の国、つまりカトリック国にとっては、布教と貿易はワンセットであって、宣教という最大のミッションを果たすことなしに貿易だけに専念するという選択肢はあり得なかった。

そして、彼らの熱心な布教が、幕府の重臣たちの間にも広がり、あまつさえ「天草の乱」が勃発するにいたって、ついに日本の権力者は、キリシタンの徹底的な弾圧を覚悟しなければならなかったのである。
日本の最高権力者たる自分よりも上に「神」を置いて、それに従うような信仰を容認することは、到底できない相談だったからだ。

『 一六一四年一月、全国禁教令が布かれても、いきなり厳しい迫害が始まったわけではなかった。禁教の実施を荷う役人たちは、できうる限り穏便な措置を心掛けたようで、一般の空気もキリシタンに同情的だった。京都のイエズス会の上長を務めていたモレホンの『続日本殉教録』では、信者を過酷な運命から救おうとした役人や非信者たちの努力を数々伝えている。
 家康のお膝元駿府でキリシタンの(※ 処罰を目的とした)名簿が作成されたとき、奉行の彦坂九兵衛は「情深く穏やかな人であり、この(※ 禁教令に示された取締りと刑罰の)ような過酷な手段を正しいと思わなかったので」、名簿に登録する人数をできるだけ少数にとどめるよう、部下に命じた。しかし、信者たちは信仰の強さを競うかのように争って名乗り出た。九兵衛は登録者の多さに怒ったが、そのうち考えを改めるか身を隠すかするものと期待して、訊問・投獄を一日延ばしにした。いつまでもそうする訳にもいかず、九兵衛は三月二七日、登録者を全員呼び出した。しかし彼は、登録者の隣人や親戚・友人らに、外見上棄教したふりをするよう説得せよと、事前に秘密指令を出していたのである。もちろん登録者たちはそれを拒む。そうすると九兵衛は牢が一杯だという理由で、彼らの大部分を親戚や隣人に預け、家康への申訳けとして、ファン道寿ら五人を牢入りさせるにとどめた。それも彼らが逃亡するのを期待して、牢に送る途中縛りもしなかったというのだから、九兵衛の姿勢は徹底していた。その後、さらに三名が牢入りし、併せて八名が七ヶ月の囚獄生活を送ったが、その間彼らは二六名の囚人を牢中で受洗させてしまった。
 その事実を知った家康は大いに怒り、キリシタンの名誉とする十字架上の死を与えず、代りに彼らの額に烙印を捺し、手指を切断し脚の腱を切って野外に遺棄せよと命じた。武装兵がこの命を執行する間、九兵衛は立ち会うこともせず、家来たちにも執行に関与させなかった。』(P324〜325)

現場の役人たちにとっては、キリシタンとは格別な憎しみを感じるほどの相手ではなかった。だからこそ、こうした役人が少なからずいたとしても、何の不思議もありはしない。誰だって、憎くもない相手を責め苛み、処刑することを望んだりはしないのだ。

しかし、彦坂九兵衛のような態度が、いつまでも許されるものでなかったというのも、理の当然である。なにしろそれは「抗命」にも等しいものなのだから、こうした穏健な態度は、自らの身をも破滅させるものとして、役人たちに厳禁されることになる。
そしてそうなると、現場の役人たちの感情も「これほど助けてやろうとしているのに、こいつらはどうして、わざわざその救いの手を振り払って、我々を苦しめるのか」という「怒り」に転ずるのも、時間の問題であり、感情的必然であったろう。

三代将軍家光の時代になって、日本の交易相手はオランダに限られ、場所も長崎の出島に限定された。「鎖国」の完成である。キリスト教は完全に禁止され、それに逆らう者には情け容赦のない刑罰が科されることとなった。だが、それはこのような経緯があってのことで、誰もそれを望んだ訳ではなかったのである。
いや、望んだ者がいるとすれば、それは他ならぬ、キリシタンたち自身であったとさえ言えたのだ。

宗教において「信仰を守るための殉教」が誉められるというのは、理解できない話ではない。なにしろ、いちばん大事なのは「信仰」であって、「命」は二の次なのである。宗教は、生死を超えたものなのだから、信仰が命よりも重視されるのは、当然のことなのだ。
しかしまた、権力者が、自分よりも大きな権力の存在を許さないというのも、当然の話である。だからこれは「生死を超えた絶対者」と「この世の現実の支配者」との、妥協しようのない対決とならざるを得ない。
現在の近代国家においてさえ、「宗教を否定し去った政体(世俗権力の制覇)」や「宗教主導の政体(宗教権力の制覇)」という決着ならありえても、「宗教が政治権力の存在を否定しさった世界(政治権力の存在しない、純粋宗教的世界)」などというものは、論理的にあり得ないのである。

しかし、こうした「宗教と政治権力の相剋」によって、人の命が無惨に失われる現実に対して、私たちは、どう考えればいいのだろう。
「宗教が殉教を賛美するのはやむを得ない」しかし「国家権力が国家権力を超える存在を許さないというのもやむを得ない」とすれば、私たちは、どこに妥協点を見いだすべきなのだろうか。

結局のところその答は、その人の立場に依存するしかないのかもしれない。
そしてその前提で言えば、「無神論者」である私としては「宗教が殉教を賛美するのは止めるべきである。そうではなく、この世での命の重要性をこそ強調すべきだ。生きてこの世での信仰を継続するための、偽装棄教も肯定すべきである」と考える。つまり「勇ましく、かつ見かけの美しい殉教」ではなく「泥まみれでも、生きて信仰を貫け」という立場だ。
もちろん、これとて簡単なことではないからこそ、そこに「真の信仰」を見ても、あながち間違いではないのではないか。

そんな私にとっては「美しく死ね」と教える信仰は、「特攻による散華」を賛美した大日本帝国の教義と、大差の無いものにしか映らないのである。

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【補記】

ちなみに、本書のような「通史」を軽んじたがる、自称「専門家」としての「専門バカ」や「オタク」が、少なからずいるようだが、こういう人たちは「それしか読まない」偏頗な知識に満足した「知的田舎者」でしかないと言えよう。

本書で扱われるのは「キリスト教」「宣教史」「世界史」「外交史」「貿易史」「日本史」「戦国史」「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川史」といった、専門分野にまたがる話題であって、例えば、「豊臣秀吉の専門家」は「キリスト教神学」の詳しい中身までは、とうてい勉強している暇などない。ましてや、上に上げたようなすべてについて「専門的知識」を得ることなど、物理的に無理なのである。

しかし、部分だけを見ていては、世界を見誤ってしまうことにもなろうから、大雑把にでも「全体観=見取り図」というものが必要となってくるのであり、そのために必要なのが「通史」なのである。

「全体観=見取り図」もなく、自分の専門領域だけを自己満足的に重要視して、重箱の隅を突くような議論だけで「専門家」づらをしているような「オタク」は、しかし「専門家」の名には値しない。
真の「専門家」とは、「全体に奉仕せんがために、自己の功績を部分に限定する人」のことなのである。

「歴史オタク」は知らないかもしれないが、「科学」の世界でも「科学啓蒙書」の執筆者を見下す、自称「専門家」がいる。しかし「専門家」であると同時に、広く世界を見ることのできる人こそ、本物の「科学者」なのではないだろうか。
かのカール・セーガンが啓蒙書『コスモス』を書いたがために、業界において地位的に不利益を被ったという事実などがあるが、しかし、そのことをして彼を「科学者」として二流と評価するような者こそ、二流の科学者なのだと、私は確信する。

初出:2019年7月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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