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宮崎賢太郎 『カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰』 : 宮崎賢太郎批判(3)一一 鈍感と傲慢

書評:宮崎賢太郎『カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰』(角川ソフィア文庫)

すでに私は、宮崎賢太郎の著作『カクレキリシタンの実像 一一日本人のキリスト教理解と受容』(吉川引文館)と『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)の2册について、Amazonレビューとして、

「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」
「宮崎賢太郎批判(2)一一カトリック的ダブルスタンダード」

をそれぞれアップしており、宮崎の著作の問題点について、基本的な部分は指摘済みである。
その上で、今回は宮崎の「読解力」や「批評能力」という、より根本的な部分での問題点を、文芸批評的に分析批判しておきたい。事実をありのままに扱うことが建前となっている学者と言えども、こうした物書きとしての基本能力が乏しければ、おのずとその著作(意見表明)は「誤った認識」を開陳するものとならざるを得ないからだ。
総じて、今の日本の研究者は、実務能力こそ高くても、物事を徹底して考えるという批評能力に乏しいように思えてならない。「銭になる研究を求める大学改革」の弊害なのかどうかは知らないが、ともあれそんな悪しき実例の一人として、今回は宗教学者である宮崎賢太郎を批判しておきたい。

長崎純心大学教授・宮崎賢太郎教授の30年にも渡る「隠れキリシタン」研究は、地道な現地調査による極めて有意義なものであることは論を待たない。しかしまた、その研究を利用してなされる「隠れキリシタン」についての、宮崎の「判断・評価・意見」に対する批判も少なくない。
端的に言えば「カトリックを、キリスト教のスタンダード」だと思いこんでいる宮崎の、カトリック信者であるが故の価値観の偏向が、当然のことながら、学問的客観性を欠いているからである。

私は現段階で宮崎の著書を、『カクレキリシタンの実像』、『カクレキリシタン』(本書)、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』の3冊読んでいるが、その中で宮崎の出自・経歴が明示されているのは『カクレキリシタンの実像』の、次のような記述のみである。

『著者は、父方が長崎県の外海の、母方が浦上の復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔の一人として、長崎市内に生まれました。生後三日目にカトリック教会で洗礼を受け、その後、典型的な長崎のカトリック信者のコースをたどりました。大学院在学中イタリアに渡り、三〇歳のときに帰国して長崎にあるカトリック系の大学に奉職しました。その後三〇年にわたり、主として長崎県下に現存するカクレキリシタンの調査研究に従事してきました。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P4「はじめに」より)

言うまでもなく(5年以上もバチカンに留学していた)宮崎は、べったりのカトリック信者であり、カトリック信仰の相対化などまったく出来てはいない。それが出来ていれば、自身の認識的偏向を自己分析して語ることをするだろうし、「隠れキリシタン」評価の前提としての、自身の立場を律儀に明示しもしただろう。
だが、自身がカトリック信者であるという基本情報を書いたり書かなかったりするのは、宮崎に自身の「立場」と「批評という行為」についての認識が極めて薄いからだ。「自分はカトリックだけれど、学者だから、当然客観的に評価している」などと単純に思いこめるほど、浅薄な自己認識しか持っていない証拠なのである。

さて、そんな宮崎のどうしようもなさは、本書の冒頭付近の、次のような言葉にも明らかである。

『 私のカクレキリシタン研究の結論である、「彼らは隠れてもいなければ、キリシタンでもない」という見方からすれば、すっきり片仮名で「カクレキリシタン」と表記するのが最善であると思う。残念ながら百科事典や新聞記事を依頼してくる編集者はいまだに隠れキリシタンに拘泥している人が多い。私の説明には充分納得しても、辞典の項目は是が非でも「隠れキリシタン」でなければ困るらしい。項目名さえ「隠れキリシタン」で揚げるのを認めてくれたら、説明文はカクレキリシタンを使用いただいて結構ですという。困ったものである。
(中略)
 小説家はほぼ一〇〇%「隠れキリシタン」だ。芥川賞を受賞した青来有一氏の『聖水』にも私の本を参考文献として揚げていただいているが、やはり「隠れキリシタン」だ。理屈はともあれ、みんな隠れることが好きなのかもしれない。隠された秘密を垣間みるのが好きなのではないか。カクレキリシタンには隠れていて欲しいという、ひそかな願望がその表記法にも投影されているように思われてならない。宗教とは本来ミステリアスな存在であって、神秘的であればあるほど強く心ひかれるものである。』(P27〜28)

「隠れキリシタン研究の権威」である大先生は、周囲の無理解にいささかお冠である。
「なんで私の言う道理が理解できんのだ。本当に脳内ファンタジーの馬鹿ばかりで『困ったものである。』」と。
だが、編集者や小説家が「隠れキリシタン」という言葉に拘泥するのは、それ相応の理由があってのことだ。それを宮崎先生が理解できない(察することが出来ない)だけなのである。

宮崎の言う「カクレキリシタン」という表記の正しさの根拠というのは、極めて即物的な「彼らは隠れてもいなければ、キリシタンでもない」という認識にある。
日本でキリスト教への禁教令が解除された後は、それまで隠れていたキリシタンたちも隠れている必要がなくなったので「隠れてもいない」というのが事実である。また、禁教時代のキリシタンも含めて彼らはまともにキリスト教の教義を知らないまま、神道や仏教をベースにキリスト教のガジェットが混じり込んだ民俗宗教を信じていただけなのだから、そもそも彼らはキリシタンではない、というのが宮崎の意見だ。だから、潜伏キリシタンの末裔である、禁教令解除後の隠れていないキリシタンたちについては「隠れキリシタン」ではなく、音だけをを引き継いだ「カクレキリシタン」と表記した方が誤解が無くていいと、ただそれだけの話なのである。

宮崎も言うとおり、多くの部外者は「隠れキリシタン」に対し「美しきファンタジー」を見ているというのは事実であろう。「でも、カクレキリシタンは、到底キリシタンと呼べるようなもの、あなた方が無知なまま勝手にイメージするようなものではないんですよ。あれはキリスト教とはとうてい呼べない代物なんだ」と、そう宮崎は嘆き苛立っているのだ。
だから「カクレキリシタンはキリスト教徒だ」という世間のファンタジー(誤解)が貼付いた「隠れキリシタン」という言葉ではなく、自身がカトリックの立場から「キリスト教性を漂白した」言葉としての「カクレキリシタン」という言葉を「布教」したいのである。

しかし、言葉の専門家である編集者や小説家は「言葉」というものを、そんな風に単純には捉えてはいない。
言葉とは「歴史を背負った」ものであり、「語義」という意味での「実用性」だけのものではないのである。
つまり「隠れキリシタン」という言葉には「キリシタンと呼ばれて迫害された人たちの、言語に絶する過酷な運命の歴史が、血文字として刻まれている」のである。だから、それに連なる信仰者(末裔)たちは、たとえその信仰が「カトリック」のそれと似ても似つかなくても、すでに隠れる生活をしていなくても、やはり「隠れキリシタン」なのである。
そのことが「キリスト教の正統信仰」を自称するカトリック教会の信者である「権威主義者」の宮崎には、どうしてもはわからない。

じっさい、宮崎が思うほど、編集者も作家も馬鹿ではない。「隠れていてくれた方が夢があっていい」なんてお気楽なことだけを考えているわけではない。もちろんそういう人も中に入るだろうが、少なくとも「イエスは処刑後、三日目に復活した」とか「マリアは無原罪で生まれ、処女懐胎し、肉体を持ったまま天に登った、普通の人間である」なんて「わけのわからないファンタジー」を信じている(はずの)宮崎から、「脳内ファンタジー」呼ばわりされたくはないだろう。

編集者が、宮崎教授の『説明には充分納得しても、辞典の項目は是が非でも「隠れキリシタン」でなければ困る』と言うのは「カクレキリシタンという新造語は、貴方(宮崎)の個人的な考えに基づく特殊用語でしかありませんから、貴方の理屈は分かりますが、まだ一般用語としては使えませんよ。そもそも私が貴方に原稿を依頼したのは、実際のところ、貴方の肩書きに原稿依頼しただけなんですし」と率直に言うことを、職務上の配慮として遠慮しているだけなのだ(学者を「先生」呼ばわりしている編集者や小説家が、学者を心から尊敬していると思うのは、愚かである。会社で「馬鹿でも社長は社長」なのと同じことだ)。
そして、この程度のこともわからないのは、宮崎が、人の心が分からない、純粋培養で世間知らずのカトリック信者であり、かつ権威主義者の「大先生」だからである。
そして、宮崎賢太郎の著作は、こういう「読解力」や「批評能力」の上に書かれたものなのである。

なお、東大の助教である岡美穂子が「宮崎先生への批判について考える」という文章を書いているが、これもおよそ中味の無い浅薄な擁護論で、これが今の学者の「素顔」や「学者間のおつきあいのあり様」を示している。岡のそれが、多くの「宮崎賢太郎批判」への反論になっているか否か、ぜひ参照願いたい。


初出:2018年10月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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