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広野真嗣 『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」一一長崎・生月島の人々』 : 〈論点整理〉 非在の神への信仰に 正誤なし

書評:広野真嗣『消された信仰: 「最後のかくれキリシタン」一一長崎・生月島の人々』(小学館)

近年の「隠れキリシタン」研究を主導してきた、長崎純心大学教授・宮崎賢太郎の著書が、カトリック信仰の正統性や優等性という手前味噌な「党派制」を内面化した、偏頗なものでしかない、という点を鋭く指摘した点において、本書は「隠れキリシタン研究」に重要な一石を投じる作品として、極めて高く評価できる。

にもかかわらず、amazonレビューにおいて、本書の評価が大きく二分される理由は、キリスト教と一口に言っても、カトリックとプロテスタントでは、信仰に対する考え方がまったく違っており、決して相容れない部分があるからだ。
その違いの意味を理解せずに、原理原則と現実適応のいずれが大切なのかと議論しても、初歩的な水掛け論にしかならない。

そもそも「宗教」というのは「文化的フィクション」に過ぎないと考える「無神論者」にとっては、「カトリックとプロテスタントの、どちらの考え方が正しいのか?」という設問自体が、無意味である。
なぜなら、どちらも根本的に間違っており、間違った者同士が「こちらが正しい」と言い合う、不毛な争いに過ぎないからだ。

しかし、キリスト教を始めとした「宗教」が、所詮は「願望充足的フィクション」に過ぎなかったとしても、それが人間文化に多大な影響を及ぼし、文化発展の原動力にもなったという事実は、誰にも否定できない。
つまり「宗教」は「実効性のあるフィクション」であり、そうした有力な「人間文化」の一つとして、宗教は一定の敬意と尊重を持って遇せられるべきものでもあるのだ。

「宗教」とは「現実理解(認識)としては間違い(虚妄)ではあるものの、結果としては人間文化に大きな力をもたらしたフィクションである」というのが、平均的な非信仰者の「信仰」理解であると言えるだろう。自分では信じないが、他人の信仰(宗教)を頭ごなしに否定しはしない、という態度である。

したがってここには、

(1)科学的な非宗教的(一般的)世界観と宗教的(信者的)世界観との対立の位相
(2)宗教の社会に対する実効的価値を認めた上で、宗教宗派の文化的優劣を論ずる(文化論的)位相
(3)宗教教義を絶対的真理と前提して、その上で優劣正邪を論ずる(宗教内的)位相

の、三つの位相が絡まり合って存在する。

本書で論じられるのは、もっぱら(2)と(3)の混交した位相においてである。
そして、その曖昧さによって、本書は「一般的人情に訴える作品」にはなっているものの、「宗教の存在(価値)論」を突き詰めるような本質的価値までは持ち得ていないのだ。

何故そうなるのか。
それは、本書の著者の立場が、「いちおうプロテスタント」に止まる自称『ペーパークリスチャン』でしかないからだ。
つまり、どこまでキリスト教の教義を信じているのかが、読者には不分明(例えば「イエスは処刑後3日目に肉体を持って復活し、肉体を持ったまま天に昇った」なんてお話を信じるのか、かなり疑問)だし、また本人にとっても「いい加減」に放置されたまま、カトリック的(宮崎賢太郎的カトリック絶対主義)立場の是非を否定的に論じてしまっているようにしか見えない。

だが、人の絶対的立場を批判する時に、批判者の側の立場が定まらず、時に都合よくクリスチャンであったりなかったり出来る「非信者に極めて近い信者」という「中途半端で無責任な立場」を採るというのは、批評的にフェアなものだとは到底言えまい。

著者・広野真嗣のこうした立場、つまり前記(2)と(3)の曖昧に混交した立場から書かれたものだからこそ、本書の評価は、自ずとハッキリ分かれざるを得ないのである。
つまり、(2)の位相において本書は、非信仰者や非クリスチャンの「判官びいき的人情」に訴えて高く評価される一方、(3)のキリスト教信者の位相においては、自身の信仰的立場(教義的真理)に責任を負っているカトリック信者からは当然の反発を受け、おのずと対立せざるを得ず、そうした強信者たちと、「信仰は厳格であるべきか、そこそこ寛容にやればいいのか」という点で対立せざるを得ないのだ。

私はすでに、本書でも批判的に言及されている宮崎賢太郎の著書『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』について、「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」と題したamazonレビューで、その傲慢かつ陰険な「隠れキリシタン」誹謗を批判している。
宮崎の宗教民俗学的研究については、もちろん高く評価するに吝かではないが、その研究成果のカトリック的「政治利用」を容認することは出来ず、もっぱらその点において「星1つ」という評価を与えた。

それとは逆に、本書に対しては、上記のような本質的不満を抱きながらも「星5つ」という高い評価を与えたのは、本書の宮崎賢太郎批判の立場がもっと注目され、宮崎によって隠微なかたちで毀損されてきた「(カトリックに帰正しなかった)隠れキリシタン」の信仰的尊厳と名誉が回復されなければならない、と考えたからである。

私は、基本的に非信仰・無神論の立場に立つ者であり、宗教やオカルトはすべて「虚妄」だという立場である。
そしてその上で、しかし人間という存在はそうした「幻想」無しでは生きられないという「弱さ」の実在をも直視するからこそ、常に宗教的現実を厳しく検証していかなければならないと考えている。
言い換えれば「宗教なんて所詮は幻想なんだから、相手にする必要はない。あれは馬鹿のすることだ」などというお気楽な現実認識をも批判する立場なのである。

だからこそ、「隠れキリシタン」というものの現実を客観的に評価すると同時に、メジャー宗教たるキリスト教もまた、同じ意味で厳格に評価されなければならない。

宗教の本質的無実態性において宗教を論じるに値しないものと考える宗教全否定論も批判するし、宗教的実効性の故に宗教を大雑把に高く評価したりする安直な宗教肯定論も批判する(カトリックもオウム真理教も同じ宗教であり、新旧の問題ではない)。

そのようなわけで、著者・広野真嗣には「ペーパークリスチャン」などといういい加減な免罪符で、無責任な宗教論を語って欲しくはない。
宗教をめぐる発言を公にするのであれば、まず自身の足下をしっかり踏み固めた上で、責任ある発言をして欲しいと要求したいのである。

よって、本レビューは、個別宗教論の側面よりも、その前提となる、言論人の責任論を語ったものだと理解してもらえれば幸甚である。

なお、本書を酷評しているレビュアーの少なからぬ者が「カクレカトリック」だというのは、ほぼ間違いないように思う。
また、にもかかわらず、一人として自身の信仰的立場を明示せず、それでいて自身の偏頗な知識を誇示しながら、本書の著者を貶めて見せるところが、いかにもカトリックだと、私にはそう思えてならないが、さていかがであろうか?

初出:2018年10月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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