宮崎賢太郎 『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』 : 宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ
書評:宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館)
いかにもカトリックらしい、慇懃無礼で陰険な、異端誹謗の書である。
キリスト教のことをほとんど知らない日本の読者は無論、聖書の通読すらままならない不勉強なクリスチャンなら、この程度でも説得されるのだろうが、カトリックの歴史と教義史を多少なりともかじった者には、あちこちに欺瞞の手つきが透けてしまう。
信教の自由が保証されたこの時代になっても、先祖伝来の信仰を捨てようとしない頑迷固陋な隠れキリシタンたちなど、はっきり言えば、許さざる「異端」でしかない。
しかし、第2バチカン公会議を経た今の時代、仮にも洗礼を受けた者の末裔の真面目な信仰を、頭ごなしに「異端」だ、取るに足らない野蛮な「土俗宗教」だと呼ぶわけにもいかない。
しかしまた、あんなものを我々正統なるカトリックと同じキリスト教だなどと思われては迷惑千万。したがって、隠れキリシタンがキリスト教徒などではないということを、非クリスチャンの方にも、とっくりと理解してもらおうではないか。
—— これが、本書の趣旨である。
本書は、著者・宮崎賢太郎が長年研究してきた隠れキリシタンの習俗を紹介しつつ、宮崎の「見解主張」を紹介した本だが、ここに表れているのは、信仰心が「学者としてと客観性」を失わせしめ、その判断評価をカトリックの信仰に都合よく偏向せしめられたという、憐れむべき事実である。
宮崎はなぜ、ここまで隠れキリシタンの信仰がキリスト教信仰とは似ても似つかないものだと強調したがるのか?
それは、隠れキリシタンとしての伝統と先祖への連帯を捨てて、世界に冠たるカトリック教会という「正統権威」に「転向したというやましさ」が、「帰正」信徒の子孫である宮崎自身にあったからではないか。
異端審問や十字軍といった「血まみれの歴史」を後ろ手に隠す正統教会。その継続的な教導を受け得なかった隠れキリシタンたちの中にこそ息づく素朴な「信仰心の真髄」を見ず、所詮は歴史的に創作構築されたものでしかない「正統教義」と比べて、隠れキリシタンのそれが形式的にいかに違ったものかを、否定的に問題にしなければならないのは、カトリック教会に「帰正」した宮崎たちこそが一種の「転び」で、隠れキリシタンの伝統を守る者たち、カトリック教会に再回収されなかった者たちへの「負い目」があり、滅びを受け入れてでも信仰を変えようとしない彼らが、なんとも目障りな存在だったからではないのか。
もちろん、こうした負い目や無意識的なコンプレックスに促されて、宮崎が隠れキリシタンたちを否定的に評価したというだけなら、学者としてはお粗末な無自覚的言動であったとしても、盲信的信者としてはやむを得ないと言えないこともない。
だか、隠れキリシタンの信仰は現世利益の曖昧な俗信であり、イエスやマリアに祈り捧げる高尚な信仰とは大違いだという「手前味噌なイメージ」を読者にむけて執拗に繰り返し、信仰としての「貴賎差別」を露骨に語っておきながら、最終章では、日本ではキリスト教がいっかな広まらないという周知の問題にからんで、それまでの主張に反する「キリスト教の土着化」の必要性に訳知り顔で言及したかと思えば、キリスト教徒は増えなくても「キリスト教精神」の方は日本人にも広く根付いているのだから、別に洗礼を受けた信者が増えないことばかりを問題にする必要はないなどと、非クリスチャンの日本人読者向けには耳障りがいいが、カトリックの根本教義を軽んずるような極めて無責任な発言をするところなどを見ると、宮崎の欺瞞性はとうてい無自覚なものと見るわけにはいくまい。
「教会の外に救いはない」し、洗礼を受けなければ、無垢な赤子ですら天には召されない、神の国には入れないというのが、カトリックの売りではないか。(※ D・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件』を参照せよ)
原子力ムラ学者の抜け目のない物言いを「東大話法」と呼んだりするが、さしづめ宮崎のそれは、偽善的なダブルスタンダードを弄する「カトリック話法」とでも呼ぶべきだろう。
それでも、第2バチカン公会議において主導的な役割を果たした、リベラルな神学者カール・ラーナーは「無名のキリスト者」という概念を用いて、他宗教信者への神の救いの可能性を示唆したが、宮崎の場合は、やむなく司祭の教導を受け得なかった隠れキリシタンたちを、キリストの名における救いの対象とは考えないようだ。
だが、そこに自ら語ったキリスト教の精神が、イエスの教えが生きていると言えるだろうか。
世が世なら宮崎は、隠れキリシタンたちを、ボゴミル派やカタリ派と同様に遇して躊躇わないカトリックだとしか、私には見えない。
アドルフ・アイヒマンが凡庸な官僚であったように、宮崎賢太郎もまた、無自覚かつ凡庸なカトリック信者なのである。
【増補】(H30.10.24)
自分のレビューを投稿した後に、ぽん太氏やpanthers go go氏が、本書『カクレキリシタンの実像』における著者・宮崎賢太郎の問題点について、私とおおよそ同じ趣旨の批判的指摘をしていることに気づいた。
私は、自身のレビューを投稿する前、それ以前に投稿されていた4本のレビューについては、星5つや4つの高評価のものばかりだったので、てっきり本書を全面的に肯定する立場から書かれたレビューだと憶断し、そんなものをわざわざ読む価値もないと思って、読まなかったのだ。
拙レビューの冒頭部分が『キリスト教のことをほとんど知らない日本の読者は無論、聖書の通読すらままならない不勉強なクリスチャンなら、この程度でも説得されるのだろうが、カトリックの歴史と教義史を多少なりともかじった者には、あちこちに欺瞞の手つきが透けてしまう。』という、読者に対しても辛辣なものになっているのは、先の4本のレビューが、いずれも本書の問題点を読み取れなかったものだという誤認と苛立ちのもとに書かれたものであったからだ。
しかし、一読すればわかるとおり、ぽん太氏やpanthers go go氏は、本書の問題点を的確に読み取って指摘なさっている。
ただ、その指摘にあたっては、本書の宗教民族学的研究の部分を高く評価した上で、著者である宮崎による「キリスト教評価」の杜撰さを、補足的に指摘するにとどめるものであったから、全体としては、本書と著者の「重大な問題点」は目立たないかたちになってしまった。
そこで、本書と著者の「重大な問題点」に関する認識は大筋で同じではあれ、「宮崎賢太郎批判」の側面を前面に出した私のレビューにも存在価値があると考える。
私に言わせれば、宮崎賢太郎の示す「カクレキリシタン」に対する「共感や同情」的なものは、自己保身のための予防線であり、見え透いた演技でしかない。宮崎の本音は、カトリックに帰正しなかった「身の程知らずの隠れキリシタン」たちを、宗教として世間的に貶めることだったとしか思えない。
つまり、宮崎にはカトリックらしい「偽善」や「二面性」がある。
彼を信じ、そのフィールドワークに協力した人たちを裏切り、後足で砂をかけるような宮崎の行為は、とうてい容認しがたいものであり、彼の「カクレキリシタン論」の「通説化」など断じて許すわけにはいかないと、私は斯様に考えたのである。
実際、宮崎の「隠れキリシタン」研究における態度は、極めて「文化帝国主義的」だ。
あるテーマに関する著書を多く持つ大学教授が、そのジャンルのエキスパートだとうっかり思ってしまうのは、門外漢には仕方のない部分ではあるのだが、ある程度キリスト教に関する知識がある者になら比較的容易に指摘できるような本質的問題を孕み、それを改める様子もなく繰り返し続ける宮崎教授の「カクレキリシタン論」は、彼の目論みどおりに、通説になって良いようなものではない。学問の世界において(そして信仰の世界においても)「肩書きと多弁さ」で押し切るようなやり方を、簡単に通用させてはいけないのである。
なお、下は、ぽん太氏のレビューのコメント欄へ投稿した私のコメントである。
panthers go go氏のコメント欄にも、ほぼ同様の文章を書き込んでおいた。
(※ Amazonレビューのコメント機能が廃止されたため、現在では読めません)
初出:2018年10月23日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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