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広田照幸 『陸軍将校の教育社会史 立身出世と天皇制』 : 戦争と〈オリンピック〉

書評:広田照幸『陸軍将校の教育社会史 立身出世と天皇制』(ちくま学芸文庫)

本書に「知的刺激」だけを求めるような人(=娯楽的読者)は、どうしても上巻における篤実な「研究」部分を退屈だと感じてしまうだろう。堅実さの重要性に対する理解ではなく、自分のお易い興味だけで、著者の意図を無視した、独りよがりな「無い物ねだり」に走ってしまったりするだろう。
しかし、著者が、文庫版上下巻にわたる大部の中で示したものは、今の私たちにとっても、十二分に「刺激」的なものであり、その意味で、本書を「23年ぶりに読んで真価を理解」というタイトルのレビューを投稿している「くまじ」氏による『現在の日本「世間」にもそのまま当てはまる話だ。』という理解は、完全に正しい。

また、完全に正しいからこそ、著者の指摘から「目を逸らさなければいられない人が多い」というのも、理の当然。本書が、最終的に描いてみせるのは、今も昔も変わらない、日本人特有の「偽善」と「無節操さ」なのである。

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著者は、本書のおける問題設定として、明治維新から十五年戦争の敗戦までにおける「皇国史観」教育において、当時の人たちは、それを一方的に刷り込まれるかたちで「内面化」してしまった、という「単純な理解」でいいのだろうか、と問うている。

繰り返し強制的に教え込まれたから、当時の人たちは、データを注入されたロボットのように、その「データ」を、まんま「鵜呑み」にしてしまったと、そう理解していいのか。そんな単純な話なのか、と問うてみせる。
そして、それが事実かどうかを確かめるためには、「皇国史観」教育を、最も純粋に「内面化」したと考えられている、当時の陸軍士官や将校たちを研究するのが最適なのではないかと、著者はそう考えて、陸軍士官学校の士官候補生たちを中心とした人々の言説やデータに、深く分け入っていった。
(したがって、このように説明されている、著者の研究方針を無視して、あっちはどうなったとか、こっちを研究すればよかった、などという注文は、およそ非論理的で非学問的なものでしかないのは明らかである)

そうした「将校教育の現場」における言説について、その多くが「タテマエ」に覆われたものであることを承知で、それでもそこから滲み出す、本人にすら十分に自覚されえない「ホンネ」の部分、「タテマエとホンネが相互侵襲し、癒着して絡み合った部分(患部)」を剔抉したのが、本書だと言えるだろう。

つまり、「御国のため」「天皇陛下のため」と言いながら、その実、自身の「栄達(社会的栄誉)」を願い、自己の「生活」の向上を願った人たちの、「当たり前に太々しい、生の現実」を剔抉してみせたのが、本書なのだ。
また、だからこそ次のようなことにもなる。

『既存の権力の存立根拠に対する「白紙委任」こそが、人々に共通に見られるイデオロギー教化の「成果」であった。それゆえ、彼らは「何が正義なのか」については合意していた。中国人殺害や教え子を戦場に送ること、戦争遂行に非協力的な隣人を「非国民」と非難することはいずれも「正義」なのである。確かに「なぜ正義なのか」を「説明」しようとする空疎な言説が戦時期には充満していた。しかしその「説明」に納得したがゆえに庶民は戦争に協力していったというのは、皇道主義的右翼や転向知識人・学徒兵の経験を拡大解釈した一面的な説明にすぎない。』(文庫版下巻P223)

どういうことか。

要は、当時の日本においては『中国人殺害や教え子を戦場に送ること、戦争遂行に非協力的な隣人を「非国民」と非難すること』は、「周囲」の誰もが認めてくれる「正義」だったのであり、その「正義」を自身のものとして受け入れているかぎり、彼(彼女)は、当時の日本においては、「天皇の権威を背負った」「泣く子も黙る」「正義の人」として、威張り散らすことができ、何かと「美味しい」思いをすることもできた、ということである。

一一つまり「皇国史観」や「天皇制イデオロギー」といったことを、多くの日本国民が、いかにも「鵜呑み」にしていたのは、それを「押しつけられたから」という一方的で「被害者的」な理由からだけではなく、それについての「是非善悪判断を停止」して「鵜呑み」にしておけば、何かと「良い目が見られる」からだったのだ。自分の「得になった」からなのである。

つまり、戦後になって「私たちは(皇国史観や天皇制イデオロギーに)騙されていた」と「被害者」づらした人の多くは、じつのところ、半ば「共犯」だったのではないか、ということだ。じつのところ「未必の故意」くらいはあったのではないか、ということなのである。

天皇が神様だとか、近隣国に出ていってその国に傀儡政権を立てて国政に干渉することが、結局は「アジアの平和のため」なのだとかいった「キレイゴト」を、日本国民の多くは「刷り込まれて、鵜呑みにしていた」のではない。
そう信じる方が、個人的にも「得だから」信じることにしたのである。少なくとも、積極的に「信じようとした」のだ(=自主的選択)。

つまり、教育学者である著者の立場から言えば、「教育」とは、一方的なものではない、ということである。
教える側が、いくらシャカリキになっても、学生の側に「その気」が無ければ、教育カリキュラムの内容を、そのまま学生の頭に刷り込むことなどできはしない。
それが可能となるのは、学生の側に「それを身につけたほうが、得だ」という「個人的な利得」意識がある場合だけなのである。

「教育と学習」は一対・表裏のものであり、教育者と学生は「共犯」。
その事実を理解しないかぎり、一方的な「教育」は、いつでも空回りして、「別の何か」を結果するしかないのである。

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さて、レビュアー「くまじ」氏による『現在の日本「世間」にもそのまま当てはまる話だ。』という指摘は、いったいどのような事実を指すものなのだろうか。
私はここで、そのわかりやすい実例を紹介しておこう。

それは「コロナ禍の最中におけるオリンピック」に対する、「日本国民」の「ダブルスタンダードによる自己欺瞞」である。

つまり、

(1)「コロナ禍の最中なのに、オリンピックに莫大な税金を使っている場合ではないだろう。今日も、コロナで死ぬ人が確実にいて、大切な家族を失う人が現にいる。また、ろくな保証もされない休業要請という名の強制のために、仕事を失い、生活基盤を失ってしまった人も大勢いるのだ」

という「正論」と同時に、

(2)「しかし、オリンピックを始めた以上、選手たちには頑張ってもらうしかない。彼らには、何の罪もないのだから」

という「もうひとつの正論」の、「無理のある並立容認」である。

論理的には、(1)と(2)は、明らかに矛盾する。
コロナ禍による「被害者」を、本気で少しでも減らしたければ、オリンピックなどやっている場合ではない。

当然、これまでの人生のすべてを、その「スポーツ競技」に賭けて生きてきたアスリートたちには、とうてい受け入れがたい「残酷な現実」だとしても、「金メダルより、人の命の方が大切」なのは明らかであり、オリンピック出場選手だとて、それを「公然と」否定しさる者は、一人もいないだろう(金メダリストでも、嫌われ者になっては、元も子もないからである)。

そして「金メダルより、人の命の方が大切」というのは、(2)の「しかし、オリンピックを始めた以上、選手たちには頑張ってもらうしかない。彼らには、何の罪もないのだから」といった見解を口にする「妙に物分かりの良い、日本国民」だって認めざるを得ないところであろう。

一一つまり「金メダルで、人の命は購えない」のである。

ところが、テレビのニュースキャスターやコメンテーターは無論、日本国民の多くは「金メダルで、人の命は購えない」などとは、決して口にしない。なぜか?

それは、世間の「空気」を読んで、「ダブルスタンダード」を選んだ方が「得だ」と判断しているからである。

「このコロナ禍において、自己実現のためでしかない金メダル獲得のために、コロナで死ぬ人々の存在から、意図的に目をそらし口を噤んでいるアスリートたち」を含む「すべてのオリンピック擁護者」は、間違いなく、所詮は「見知らぬ他人の命など、犠牲にしてもいい」と思っている〝偽善者〟のエゴイストであり、彼らの自他にわたる欺瞞は(ホロコーストと同様に)「いずれ歴史が裁くことになるだろう」ということだ。

金メダルの獲得者たちは、決して「ろくな治療も受けられずに、死んだ人たち」に対する「償い」などしないだろう。オリンピック開催のために使われた「税金」を、「コロナ対策」のために使うべきだと言わなかった自分自身を、公然と責めることはないだろう。それは、中国戦線での「我が手による地獄」を体験した兵士たちが「戦後に口を噤んだ」のと同じ心理によるものだからだ。

無論、中には「あの頃はどうしても金メダルを諦めることができず、オリンピックの開催を望んでしまった。コロナで死ぬ人が出ていることを知っていながら、その現実には目をつぶって、目の前の競技だけに専念してしまった」と、正直に悔いる人も、少数ながら出てくるだろう。
だが、それは「生き残った者」の言い訳であり、自己正当化でしかあり得ない。彼(彼女)は、金メダルで得た「利得」を、生涯にわたって、コロナで死んだ人たちのために「償い」として、使うことなどないからである。

無論、オリンピックに熱狂したり、「選手には罪はない」などと「不正義の正当化」に加担してしまった、一般の日本国民もまた、「同罪」である。

彼らも、家族をコロナで失ったり、自分がコロナで死ぬ思いをしていたら、「オリンピック選手に、罪はない」などという、薄っぺらい「偽善」を、軽々に口にすることなどできなかったはずだ。
そして当たり前に「彼らが、オリンピックに出たいという気持ちは理解できる。しかし、コロナで死ぬ人が大勢出ている中で、それでもオリンピックの開催を望むことは、非倫理的・非人道的であり、人の命よりも、自分の金メダルを望んでいるとしか言いようがない」と語ったことだろう。

だが、オリンピック選手も、オリンピックを楽しみたいだけのお気楽な一般国民も、あるいはオリンピックの「偽善」を重々承知していながらも、「非国民」になるのが怖くて本音を語れない多くの日本国民も、すべては「コロナ禍においてオリンピックを強行した政権」と同罪である。主犯ではなくても、「共犯」として同罪なのだ。

コロナ禍における「死者」たちからすれば、彼らは「コロナの被害者」ではなく、「人身御供(犠牲)」を送り出した「加害者」に他ならないのである。

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このように、日本人というのは、今も昔も、基本的には変わっていない。
本書著者の言うとおり、そしてレビュアー「くまじ」氏の指摘するとおり、日本人はいつでも「共犯者」としての「利得」にあずかるために、「騙されたふり」をして、すべての責任を「権力者」たちに押し付けておけば、それで済まされると高を括っている、姑息な「偽善者」なのだ。

したがって、本書を、本当の意味での「痛み」をともなって読める人など、千人に一人もいないだろう。
本書に、各種の賞を与えた「有識者」ですら、必ずや「偽善者」であるはずだ。せいぜい、後になってから「私は当時から、そうした偽善に気づいていた」などと言い訳するのが、関の山といった人々であろう。

本書を読んで、いったんは、日本人に絶望してしまわないかぎり、日本人は決して変われはしないのである。

初出:2021年8月6日「Amazonレビュー」

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