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笙野頼子 『会いに行って 静流藤娘紀行』 : 〈文学者〉という アリバイ

書評:笙野頼子『会いに行って 静流藤娘紀行』(講談社)

「癖のある作家」が好きなので、笙野頼子の作品には、いつも一定の興味を持って、遠目に眺めてきた。
これまでに読んだのは、小説では『二百回忌』『レストレス・ドリーム』の2冊と、あとタイトルは失念したが大塚英志との論争本の、都合3冊で、今回のが4冊目となる。
ただし、このほかに『タイムスリップ・コンビナート』『増殖商店街』『母の発達』、あるいは『幽界森娘異聞』『金毘羅』といった刊行時に評判の高かった作品も、その都度購入していたのだが、結局は積読の山に埋もれさせている。

『二百回忌』は「変な作品」という意味では、嫌いなパターンではなかったが、自分の趣味には合わないという意味では、特別面白いとは思わなかった。
むしろ、大塚英志との論争本の言いたい放題がとても印象的かつ愉快で、笙野頼子の印象はこの論争本によって固まった。だが、笙野の論争のパターンは概ねわかった気がしたので、同じようなものを何冊も読もうとは思わず、その後に買ったのは、小説作品だけだった(ちなみに私は、宮武外骨のファンである)。

『幽界森娘異聞』は、もともと森茉莉がけっこう好きだったので買ったのだが、前述のとおり、読まないまま埋もれさせてしまった。
そして今回の『会いに行って 静流藤娘紀行』も、藤枝静男に興味があったので読んでみることにした。

と言っても、藤枝作品は未読であり、気になってはいたが読む機会のなかった作家のひとりとして興味であり、この『会いに行って 静流藤娘紀行』で当たりをつけて、その気になれば読もうと考え、今回は本書を購入即読みすることができた。そして、さっそく講談社文芸文庫の『田紳有楽・空気頭』を入手した。

さて、肝心の『会いに行って 静流藤娘紀行』であるが、ハッキリ言って、期待したほどではなかった。
最初の方の、好き勝手に書いているとこらあたりは、期待どおりに楽しめたのだが、「文学者」だ「私小説(作家)」だをやたらに強調する部分が、だんだん鼻についてきた。

それでも、中盤の『志賀直哉・天皇・中野重治』を扱った部分は、見かけによらず鑑識眼のあるところを見せつけて、かなり感心させられたのだが、しかし、その鑑識眼の鋭さも、結局は(志賀直哉への文壇伝統的な過大評価に見られるとおり)「文学者」教の論理に、手前味噌に回収されていくところが、まったくいただけなかった。

言うまでもないことだが、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」というものに、確定した「本質」や「存在そのもの=イデア」など存在しない。そんなものは、作家やファンや読者が、それぞれに自分なりの見地から追い求めて形成していく「概念」でしかない。

こう書くと、笙野ならそれを「評論家的な、冷たい知的理解」として馬鹿にするのだろうが、残念ながら私は、けっこう宗教には詳しい「無神論者」なので、「文学者教」や「文学教」など、妄信する気はさらさらないのである。
それらはあくまでも「個人的な趣味」や「個人的求道」でしかないし、それなら全然かまわないし、大いに結構なことなのだが、そんなものが「実在」するものであるかのように、つまり誰にでも通用しなければならないかのように言われるのは、まったくもってウザい。
それはちょうど、ひと昔前の創価学会員さんが「あなたの信仰は間違っていますよ。いますぐその邪教を捨てて、この信心を始めなさい」なんていう、ほとんど本人の思い込み(妄信)と断言だけの「折伏」と、何ら選ぶところのないものだからである。

しかしながら、笙野頼子と件の創価学会員さんを比較すれば、まだしも創価学会員さんのほうに、同情の余地がある。なにしろ、その人はそれを本気で信じているんだから、そんな「妄信」が傍迷惑だとは言え、「信じてしまっているんだから、しかたないよなあ…」と思う部分もあるからだ。

ところが、笙野頼子の場合は、そうではない。
笙野の場合は、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「存在そのもの=イデア」が存在するなどと、「妄信」しているわけではない。むしろ、そんなものは存在しないと理解していながら、それが在る方が好都合だから、さもそれがあるかのように「演技」しているだけなのだ(つまり、大川隆法みたいなものだ)。
その意識的な演技とは、例えば、次のようなものなのである。

『一一 論争などする時、私は自分を素直で単純な人間にするように語りを作り込む、そうすると自然と論争はしやすくなる。キャラが固まるなどとは絶対に言わないが、ひとつの論点に絞って言葉を繰り出せるのだ。』(P270)

要は「論争時に見せている私の姿は、意識的に単純化されたものであって、本当の私は、あんな単細胞ではないよ」という意味である。

そして、事実そのとおりなのだが、しかし、この「場面に応じて、自身に利するようにキャラを作る」というのは、なにも「論争」時に限った話ではない、ということなのだ。
つまり、「ふざけた」時も「キチガイめいた」時も、そして「真摯で誠実」な時も、笙野はそれを意識的に「演じている」のであり、これは笙野が、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「そのもの=イデア」が存在すると「妄信しているふり(演技)」をもしている、ということを意味するのである。

では、なぜ笙野頼子は、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」に、確定した「本質」や「存在そのもの=イデア」が存在すると「妄信」している、「演技」などするのであろうか。

それは、抜き難いその劣等感を鎧い、脆弱な自我を守るものとして、「文学」や「文学者」、あるいは「私小説」や「私小説作家」といった「特権階級としてのレッテル」は、非常に便利なものだからである。

本書でも冒頭から、本作は「師匠説=私小説」であり「評論」や「研究」ではない、と宣言される。そのことによって、「事実に即した客観性」という「縛り(義務)」が免除されている。なにしろこれは「小説なんだから」ということだ。

さらに、著者は「文学者」であり「私小説家」であって、「評論家」や「研究者」ではないから、自分の「思い込み」や「願望」で書いてもかまわない。いや、むしろ「思い込みや願望を否定せず、それに即して書くべきである」という「物書きとしてのフリーハンド」を自身に与えている。
要は「私は文学者で私小説家だし、書いているものも文学であり小説なんだから、世間一般の常識や配慮や責任は免除されるべきなのだ」と、そう手前味噌に訴え、あらかじめ「自己正当化」し「自己免責」しているのである。

笙野頼子は、自分の作品に冷たかった「醒めた評論家」たちに対して、「所詮あいつらは、文学がわからない、頭でっかちの理屈屋でしかない」と決めつけ、それを繰り返すことをライフワークとしているようだが、「文学者」や「私小説家」に「特有の倫理」があると考えるのなら、当然「評論家」や「研究者」にも「特有の倫理」があると考えるのが、人としての「フェアさ(公正さ)」というものだろう。
しかし、笙野の場合は、そういう「当たり前の公正さ」から、「文学者」だけは免責されている、と主張する。なにしろ「文学者」や「私小説家」は、「普通の人間」ではなく、またそうであってはならず、「特別な人間」であり、またそうでなくてはならない、という「文学教」の教理を押し通して恥じない。

そして、こうした「アンフェア」や「不条理」が、「文学教」の信者の間では、ありがたいものとして通用するのである。なにしろ「私たちは、選ばれた人間だ」ということなのだから、それに反対する理由などないのだ。

しかし、この種の「鼻持ちならないエリート主義」は、例えば「金持ち」や「政治家」といった社会的エリートたちのそれと、本質的には、何も違わない。「自分たちは特別な存在であり、特別扱いをうけて当然なのだ」という意識のあり方は、ジャンルこそ違え、本質は同じものなのだ。

しかしながら、知ってのとおり、笙野は「金持ち」や「政治家」といったエリートたちの「特権意識」は認めない。彼らを批判する時だけは、自分は「貧乏」「低階層」「難病持ち」の人間であると主張し、その「逆権威」で、「金持ち」や「政治家」といったエリートたちを攻撃して、恥ずるところを知らないのである。

政治的な立場としては、私は笙野とほとんど同じで、基本リベラルであり、反安倍晋三であり、反差別の人間なのだが、だからこそ、笙野のこうした「臆面のないご都合主義」には、「文学者」的な「怒り」を禁じ得ない。

読める読者なら、本作にもハッキリと読みとれるはずだが、笙野は「身内に甘く、きわめて党派的」な人間である。

単に、本書の主題である藤枝静男に甘いという話ではなく、有名無名を含む「藤枝の周辺人物」に甘く、自分を評価してくれる人たちに甘く、その一方、自分を評価してくれない人間や、してくれなかった人間には、差別的なまでに冷たい悪意を差し向けている。
しかも、同じ、自分を評価しない人間でも、有力者やまだ生きている者、あるいは、もろに反撃がきそうな者について言及する場合、その物言いが婉曲になる一方、すでに亡くなった者については、ずいぶん偉そうに堂々と否定して見せる。

つまり、端的に言えば、笙野頼子は、自分がもともと「一般的な人気」を得られるような人間ではないことを熟知自覚しているので、味方になってくれそうなところをピンポイントで選び、そういう人たちを喜ばせるようなことを書いているだけなのだ。つまり、彼女が目指すのは「オタサーの姫」みたいなものでしかないのである。

無論、自分の趣味に合わないからといって、笙野の小説を否定することなどしない。私は、その点については、「文学者的主観主義」を振り回す気はなく、あくまでも「評論家的公正さ」を持って語る。
そして、そうした観点を抜きにしても、笙野頼子の「過激な変人ぶり」は好みだから、そこは「面白い」と評価もする。「面白いものは面白い」のだ。

しかし、私がいかに面白がろうと、笙野頼子の文学は、彼女の死後には消え去るだろう、と判断する。これは「批評家」的な「公正さ」による評価だ。

なぜ笙野文学が残らないのかと言えば、それは彼女の「文学」が、多くの「私小説家」の場合と同様、彼女の「人物」と合わせての一つものであり、笙野頼子本体が死んでいなくなれば、彼女の作品は、その魅力を半減させるからである。笙野頼子という稀有な「キャラクター」を抜きにしての「笙野文学」などというものは、ミイラみたいなものでしかないのだ。

喩えば、笙野頼子を「文学者」と言うより、「芸人」とでも考えたら、わかりやすい。
彼女は、そのコンプレックスを逆手にとった、稀有な芸人であり、彼女は非常に面白い。しかし、彼女の文筆作品は、彼女が人生の舞台で演ずる際の「ネタ」であり「脚本」であって、笙野頼子という演じ手の肉体を失った「ネタ」や「脚本」は、もはや「笙野文学」ではあり得ないのだ。
笙野頼子とは、そういう意味での「私小説家」であり、良く言えば「人生即作品」の「古い文学者」なのである。

それにしても、本書でげんなりさせられたのは、終盤で、極めてわかりやすくも通俗的な「いい話=感動話」になってしまっている点だ。
なるほどこれなら、笙野の周辺の藤枝ファンや関係者は喜んでくれるだろう。「師匠は、本当はとても繊細で優しい人でした」と聞かされて、藤枝ファンが「我が意を得たり」と思うのは当然のことだが、これは「猫」や「難病」に、無条件に共感同情するのと、同程度の話でしかない。
しかし、この程度の、在り来たりな「作家論」では、とても「関係者以外」が感心することはできない。できる人は、きっと、ファンか「感動乞食」かなのだろう。

しかし、こういう「在り来たりな感動話」に落としたとしても、あらかじめ「これは師匠説であり、師匠を全肯定するために書いている」と、しっかり予防線を張っているから、それである程度は「下らない」という酷評を避けることもできるだろう。
更には、前述のとおり「私は文学者だから、客観性よりも主観性を優先して書くのだ」という「特権」を振り回すので、気の弱い人は「では、しかたがないな」と黙ってしまうだろう。

だが、こんなものをもって「文学」だ「文学者」だと、個人的な「文学教」を、自己保身のために担ぎ回られるのは、傍迷惑である。言うまでもなく、それは「文学」であり「文学者」の名を貶める行為でしかないからだ。

大西巨人も言ったとおり、論争をしようという「構え」は評価できる。しかし、自身を「文学者という特権階級」だと勝手に自己規定して、相手と対等の立場で戦おうとはしない笙野頼子は、「文学者」である前に「人間」として、ただの「自己正当化が酷いオバサン」にすぎない。
この場合、「私は、人間である前に、文学者なのだ」などという寝言は、「身内」のなかだけで頷き合っていろ、としか言いようもないのである。

初出:2020年7月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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