ローレンス・オリヴィエ 『ヘンリー五世』 : 華やかで巧なメタフィクション
映画評:ローレンス・オリヴィエ『ヘンリー五世』(1945年・イギリス映画)
ウィリアム・シェイクスピアは、『リア王』『マクベス』などを、若い頃に何冊か読んだきりだ。
当時からシェイクスピアにはほとんど興味はなかったが、それでも読む気になったのは、山口昌男の「道化論」関係の著作で、王付き道化の登場する『リア王』や、ユニークな悪漢フォルスタッフの登場する『ヘンリー四世』などにしばしば言及されていたのと、『マクベス』の方は、たぶん柄谷行人か吉本隆明が論じていたので、そっちを読むために読んだのだと思う。
若い頃に読んだ、私の親の世代またはそれ以前の文芸評論家や思想家にとって、シェイクスピアというのは基本的な教養であり、読んでいて当然のものだったようなのだが、無論、私の世代にもなると、もはやそんなことはなかったし、ましてや昨今では、シェイクスピアなど時代遅れという感じで、若い人は誰も読まないようだ。大学で英文学を専攻するにしても、もっと新しい現代作家をやるのではないだろうか。
で、今回、シェイクスピア俳優(舞台俳優)にして映画俳優でもあったローレンス・オリヴィエが監督・主演をつとめた映画『ヘンリー五世』を見ることにしたのは、「武蔵大学の教授」で「シェイクスピア研究者」である北村紗衣先生と、このところ「親しく」させていただいているからである。
DVD自体は少し前に買っていたのだが、しばらく後回しにしてしまっていた。
しかし、この機会をとらえて見るのが、いちばん良いと考えたのだ。
もう、忘れてる人も少なくないだろうが、シェイクスピアほどは古くない、「いつやるか? 今でしょ!」(林修)というわけである。
それに、私がシェイクスピアの素人ゆえに、間違ったことなんか書いたりしたら、北村紗衣先生が「ここぞ」とばかりにツッコミを入れてきてはくれないかなと、そんな下心もある。
だって、先生ったら、私にちょっとカマされてから、すっかり無視を決め込んじゃったんで、私としてはまだまだぜんぜん物足りない。格の違う笠井さんほど長くつきあう気はないけれど、それはそれなりにおつきあいはしてさし上げたい。
だから、それならまたこちらから、ちょっかいを出すしかないのだ。「ツノ出せ、ヤリ出せ、ボロを出せ」ということで。
しかしながら、このDVDを買った動機は、決してそんな不純なものではない。
すでにレビューも書いているが、尊敬するオーソン・ウェルズの『フォルスタッフ』を見た際、そこで「若き日のヘンリー五世」が描かれていたので、それなら、ついでにその先を描いた本作『ヘンリー五世』を見ようと考えたのだ。
だから、どこにもやましいところはないのである(ゴホンといえば龍角散・古)。
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さて、冗談(?)はさておいて、本作『ヘンリー五世』について書いていこう。
まずは、本作の「あらすじ」である。
原作を読んでいないので、正確なところはわからないが、要は、英仏戦争におけるイギリス側の英雄たる「ヘンリー五世」の活躍を描いた戦争英雄譚である。
わかりやすく、イギリス側に正義があり、フランス側は卑怯で憎たらしい悪役。
王位だか領地の継承権だかをめぐって、イギリスに対し舐めたことを言ってきたフランスを懲らしめるべく、ヘンリーが軍勢を引き連れ、海を渡る。そして、フランスを相手に善戦したは良いものの、疫病によって想定を超える兵力の損耗をだしたので、いったん領地カレーへ引きあげて体制を整えようとした。そこへ、好機到来とフランス側が大軍の投入で一気にイギリス軍を攻めつぶそうとしたのだが、ヘンリーに率いられたイギリス軍は、その勇猛果敢な戦いによって奇跡の勝利を収め、フランス軍を降伏させる。
そして、平和を求めるヘンリーは、仲介者の申し出を受けて、フランスと和平を結ぶとともに、かねてより「質実剛健なイギリス人」に興味を持っていた、美貌のキャサリン姫と結ばれることにもなった。一一と、そんなお話である。
本作は、第二次世界大戦中に作られた作品で、国威発揚の意味もあったため、政府からの援助も受けた作品である。
よって、シェイクスピアの原作はどうだか知らないが、この映画版のお話は、とてもわかりやすい「勧善懲悪の英雄譚」でしかなく、内容的には特に論ずるほどのものはない。
しかし、私が個人的に興味を持ったのは、本作が「枠物語」であり、今の言葉で言えば「メタフィクション」である点だ。
外枠(額縁)は、『一六〇〇年五月一日、ロンドンのグローヴ座』の「舞台」であり、中身になるのは、もちろんそこで演じられる『シェクスピアの史劇「ヘンリー五世」』の「作品内世界」ということになる。
つまり、「舞台で演じられる芝居」から始まって、その世界が徐々に「芝居内世界としての虚構世界」へと入っていくのである。
だが、本作の面白いところは、最初と最後に「額縁世界」が設定されているだけで、それ以外の中身は当たり前に「虚構内世界」という、そんなに「単純な作りには、なっていない」点だ。
基本的には、ヘンリーが、海を渡るまで(と、最後の最後、ヘンリーとキャサリン姫が二人並んで玉座に座るラスト)は「グローヴ座の舞台」として描かれており、俳優たちの演技も、いかにも「舞台のお芝居」らしく誇張されたものとなっている。
また、それに比べれば、フランスへ渡ってからのお芝居は、かなり「映画的」になるし、舞台では基本あり得ない心内語による独白のシーンなどもあるのだが、しかし、完全に「映画的リアリズム」にはなってしまわないところが面白いのだ。
例えば、野営するヘンリーの陣営やフランス側の宮廷の様子を描いたシーンなどは、「グローブ座」の狭い舞台にはとうてい収まらない広い場所でのシーンなのだが、しかし、室内にしろ室外にしろ、背景となる遠景は「書き割り」になっている。
つまり、完全な「現実世界」そのものではない、ということが示されているのである。
したがって、フランスに渡ってからの「作品内世界」が、完全に映画的な「リアルな世界」なのかと言えば、そうではなく、言うなれば、「半々」なのである。
戦闘シーンなどでは、広々とした屋外の実景がそのまま使われ、しかし、野営地のシーンだとか、室内のシーンは、背景が「書き割り」になっていて、その「舞台空間」とも「映画的実景」ともつかぬ融通無碍なミックス具合が、不思議な味わいを醸し出している。
で、こうした、好意的に見れば「面白い」作り、人によっては「中途半端」だと感じられるような作りが採用されているのは、たぶん、もとが舞台出身のシェイクスピア俳優オリヴィエとしては、シェイクスピアを、当たり前に映画的な「リアリズム」のドラマに仕立て直してしまっては、その魅力が損なわれると、そう考えたのではないだろうか。
舞台用脚本として書かれた、表現の誇張されたシェイクスピア劇の、主に「セリフの魅力」は、完全に「リアルな世界」にはそぐわない。それだと、演技と世界観に齟齬が生じてしまうと考え、オリヴィエは故意に、「舞台」と「映画」の両方の魅力をミックスできるように、その中間的なあたりを行き来するような、不思議な空間を描くことにし、それに成功した、ということなのではなかったかと思う。
なお、『ヘンリー五世』については、『RADA(王立演劇学校)を首席で卒業した後、23歳の時にロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)に参加し、数多くの舞台に立』ち『「ローレンス・オリヴィエの再来」と呼ばれ、シェイクスピア俳優として有名』な映画俳優ケネス・ブラナーが、
のだが、私はこちらの、リアリズム版『ヘンリー五世』は見ていないので、本作オリヴィエ版との比較はできない。
ただ、もともと「メタ・フィクション」である「作中作」的な作りの作品が好きな私なので、オリヴィエ版『ヘンリー五世』を「ストーリー以外のところ」で面白いと思う一方、ケネス・ブラナーのリアリズム版『ヘンリー五世』の方には、あまり興味が持てない。きっとリアリズム表現を活かした「重厚な演技」で見させる作品になっているのだろうと推測はしても、さほど触手が動かず、たぶん積極的に見ることはないだろう。
だから、できればこのケネス・ブラナー版『ヘンリー五世』を、「シェイクスピアの専門家」であるらしい北村紗衣先生が鑑賞なさって、褒めたり貶したりしてくれると、私も見る気になるかも、なんて思ってもいるので、そういう展開を期待したいものである。
イギリスの武人風とは言えないかもしれないが、私もヘンリー五世と同様、正々堂々の立ち合いを望んでいる。
いや、北村紗衣先生はイギリス好きだから、イギリスは譲って、私がフランスでも構わないので、そこんとこ、ご検討のほど、よろしく願いたいものなのだ。
(2024年10月4日)
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