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フリッツ・ラング監督 『暗黒街の弾痕』 : 業界用語の信用ならなさ

映画評:フリッツ・ラング監督『暗黒街の弾痕』1937年・アメリカ映画)

『メトロポリス』などで知られる、サイレント時代のドイツ映画の巨匠が、協力を要請するナチス政権から逃れ、アメリカへ渡ってからの作品である。

この作品については、何よりもまず言っておかなくではならないのは、その「邦題のひどさ」だ。

古いアメリカ映画で『暗黒街の弾痕というタイトルであれば、日本人は、どのようなジャンルの映画を思い浮かべるだろうか?
一一まあ、普通に考えれば「ギャング映画」である。

しかもご丁寧なことには、本作が、映画業界で言うところの「フィルム・ノワール」だという紹介・説明まであったりするだから、この言葉だけは知っている、私のような半端な映画ファンであれば、間違いなく本作を「ギャング映画」だと思い込むだろう。私は、そう思い込んだのだ。思い込まされたのである。

『フリッツ・ラング監督の渡米2作目の映画であり、シルヴィア・シドニーヘンリー・フォンダが主演した。フィルム・ノワールの古典映画である。』

(Wikipedia『暗黒街の弾痕』

ちなみに、「フィルム・ノワール」の「定義」とは、次のようなものである。

『フランス語で暗い映画の意味を持つが、アメリカにおける映画用語。虚無的・悲観的・退廃的なテイストを持つ犯罪映画、異常心理映画を指し、『マルタの鷹』(1941年・昭和16年)をフィルム・ノワールの原点とし、『黒い罠』(1958年・昭和33年)までの時期に作られた作品を対象とされることが多い。特徴として、犯罪者など反社会的な思想を持つ破滅的な性格の男性が主人公、回想などの一人称のナレーション、夜間のロケーションが多く、影やコントラストを際立てた色調でほとんどがモノクロ、魅力的だが危険な女が登場する、低予算で製作されたB級映画などが挙げられる。また、『現金に手を出すな』(1954年・昭和29年)『男の争い』(1955年・昭和30年)などのフランスのギャング映画をフレンチ・フィルム・ノワール、『男たちの挽歌』(1986年・昭和61年)をはじめとしたジョン・ウー監督の作品を「香港ノワール」と呼ぶ。』

【ホームメイト】フィルム・ノワール|映画用語辞典

フィルム・ノワール(仏: Film Noir)は一般に1940年代から1950年代後半にハリウッドでさかんに作られた犯罪映画のジャンルを指し、アメリカ社会の殺伐とした都市風景やシニカルな男性の主人公、その周囲に現れる謎めいた女性の登場人物(ファム・ファタール)などを主な物語上の特徴とする。第二次大戦前後のアメリカ映画を分析したフランスの批評家によって命名された。

映像面では照明のコントラストを強くしたシャープなモノクロ画面や、スタイリッシュな構図が作品の緊張感を強調するために多用されることが多い。

ただし何を「フィルム・ノワール」とするかは論者によって幅が大きく、明確な定義は定まっていない。しかしこうした物語・映像表現上の特徴を受けついでヨーロッパや香港など、世界各地で制作された映画を指して「ネオ・ノワール」、近年韓国で作られるようになったものが「韓国ノワール」と呼ばれるなど、批評用語としては広く定着した表現である。』

(Wikipedia「フィルム・ノワール」)

見てのとおり、
『虚無的・悲観的・退廃的なテイストを持つ犯罪映画、異常心理映画を指し、(中略)特徴として、犯罪者など反社会的な思想を持つ破滅的な性格の男性が主人公』
だとか
『犯罪映画のジャンルを指し、アメリカ社会の殺伐とした都市風景やシニカルな男性の主人公、その周囲に現れる謎めいた女性の登場人物(ファム・ファタール)などを主な物語上の特徴』
などとあるのだから、これを読めば、本作『暗黒街の弾痕』を「ギャング映画だと思うな」という方が無理な話だろう。

一一だが、本作は「ギャング映画」ではない。

たしかに「銀行ギャング(強盗)」のシーンはあるのだが、主人公が、その犯人だというわけではない。簡単に言えば本作は、

「冤罪によって死刑になりかけた男が、脱獄のために殺人を犯してしまい、この国にはもういられないと絶望して、新妻と共に逃避行の旅するに出、やむなく給油所強盗などをしながら国外逃亡を目指すが…」

という物語である。

つまり、本作の主人公は、「冤罪」で逮捕されて、死刑が執行されるというその日に、やむなく脱獄を試み、その過程で、彼を説得しようとした神父を、殺す気はなかったものの拳銃で撃ち、結果として殺してしまい、本物の犯罪者になってしまう、という悲劇の人なのだ。

したがって、「冤罪」で捕まえられ、死刑執行目前にまで追い詰められないければ、彼は、脱獄することも無かったし、殺人を犯すこともなかった。
その意味で、彼を殺人犯にしたのは、誤認逮捕をし、裁判で「死刑判決」を言い渡した「国家」である、と言っても過言ではないのである。

確かに、彼とその妻は、その後の逃亡時に、やむなくガソリンスタンドを襲って、ガソリンやタイヤを盗んだりはした。
これは立派な強盗(ギャング行為)ではあるけれど、こうしたことを私たち日本人は、普通「ギャング」だとは言わないだろうし、そんな犯罪者を描いた作品を「ギャング映画」とも呼びはしない。
一一だから、いくら、ある種の「犯罪」を描いた作品だと言っても、本作を「フイルム・ノワール」と呼ぶのは、あまりにもミスリードに過ぎるのだ。

例えば、私があまり評価していない映画評論家の山田宏一でも、もう少し、慎重な言葉で本作を評している。それは、『フィルム・ノワールを予告する鮮烈なイメージに彩られた犯罪映画の古典的名作』というものだ。
つまり「フィルム・ノワールを予告」はしているが、「フィルム・ノワール(そのもの)ではない」。しかし、当然「フィルム・ノワール的な要素を持った作品」だというほどの評価である。これなら、私だって納得もいく。

明日なき恋人たちの逃避行を描く ロマンチシズムとペシミズムに彩られた犯罪映画の古典的名作
 1937年キネマ旬報外国映画ベストテン第9位

 どしゃ降りの雨のなかを黒いこうもり傘の群れがうごめ<白昼の銀行強盗、深い闇と霧のなかを光と影がゆらぐ暗い夜の脱獄シーン、照準器のなかに十字架の磔のように受難の恋人たちの姿をとらえる狙撃銃・・・・・・
 迫りくるナチの恐怖から逃れてハリウッドに亡命したドイツ表現主義映画の巨匠、フリッツ・ラング監督が、『激怒』(1936)に次いで放ったアメリカ映画の衝撃作で、のちの一一戦中戦後の一一フィルム・ノワールを予告する鮮烈なイメージに彩られた犯罪映画の古典的名作である。
『俺たちに明日はない』アーサー・ペン監督、1967)のボニーとクライドをモデルにした最初の映画化としても知られる。

 山田宏一』

IVC社DVD『暗黒街の弾痕』ケース背面の作品解説より)

「見出し」にあたる『明日なき恋人たちの逃避行を描く ロマンチシズムとペシミズムに彩られた犯罪映画の古典的名作』や『1937年キネマ旬報外国映画ベストテン第9位』という紹介文は、山田宏一の「解説文」には含まれないものなのかもしれない。だが、ここで重要なのは、本作のポイントが「ギャング映画」というところにはなく、「ロマンチシズムとペシミズムに彩られた犯罪映画」だと表現している点にあるのだ。

そう。確かに「犯罪映画」だというのは間違いない。だが、ここで思い出してもらわなければならないのは、本作の邦題が『暗黒街の弾痕』であるという点である。
一一いくら「犯罪映画」だからと言って、それを大雑把に「フィルム・ノワール」のうちに含めたり、『暗黒街の弾痕』という邦題をつけるなどというのは、あまりにも「雑」すぎて、作品や制作者に対して失礼ではないかと、私は言いたいのだ。

実際、本作の原題は『YOU ONLY LIVE ONCE』であり、日本語にすれば「人生は一度だけ」となる。
まさにこの原題どおりの作品を、いくら「売らんかな」とは言え『暗黒街の弾痕』としてしまうのは、あまりにも酷すぎると思うし、だからこの邦題は、何度でも、きちんと批判されるべきなのだ。そうでないと、誤った印象と誤解を与える「レッテル」だけが、永遠に付いて回ることになるからだ。

さて、本作の「ストーリー」は、次のとおりである。

『恋人ジョーンシルヴィア・シドニー)が涙を流して、官選弁護士スティーヴン・ウィットニー(バートン・マクレーン)が運動したお蔭で、前科三犯のエディ(※ ヘンリー・フォンダ)は保釈出獄を許される。
ドーラン神父(ウィリアム・ガーガン)に送られ自由の身となった彼は、ウィットニーの世話である運送会社のトラック運転手となる。ジョーンの姉ボニー(ジーン・ディクソン)は妹がエディと結婚することに反対し、彼女に恋をしているウィットニーと結婚するように勧めたが、ジョーンは即日エディと式を挙げる。前科者と蔑む世間の冷たい眼に苦しめられながらも、二人に幸せな日が続いていた。郊外に庭園つきの小住宅を月賦払いで買うことになり、そこへ引移った日、エディの雇主は遅刻を理由に、非情にも彼をクビにする。
なんとか職を見つけようと狂人のように町をさまようエディだが、前科者の烙印がどこまでも前途を妨げた。

その頃、毒ガスを用いて銀行を襲撃し、現金を積んだトラックを奪取した怪盗がいた。乗り捨てた自動車には、エディの頭文字の入った帽子が残されていた。直ちにエディ逮捕の網が張られる。エディはジョーンに帽子は盗まれたので身に覚えがないことを告白し、逃走しようとしたが、彼女は無実を証明するため自首を勧める。そこへ警官が現れて彼は捕縛され、裁判の結果死刑が宣告された。

執行の当日、エディは囚人マグシイの助けを得て自ら負傷して病室に移された時、医師を人質に脱獄を計った。その時、銀行破りの真犯人がトラックもろとも河中に転落水死しているのが発見され、エディの釈放状が着いた。ドーラン神父は拳銃を構えたエディのもとへその知らせを持って近づくが、彼は官憲のトリックと思い、神父を射殺して逃走する。ウィットニーは、ジョーンに自分の車を提供して二人を逃がす。

神父を殺した悔恨に悩みながら、二人の長い逃避行が続く。野に伏し山に寝て、その中にジョーンには赤ん坊が生まれた。秘かに子供をウィットニーとボニーに托した二人は、ようやく国境近くまでたどりつく。その時、警官隊に発見され、抱き合ったまま銃弾を浴びて崩れるように倒れるのだった。』

「映画.com」『暗黒街の弾痕』より、 原文に適宜改行を加えた)

この映画の後半(のみ)が、山田宏一が指摘するところの『『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン監督、1967)のボニーとクライドをモデルにした』作品だということだ。要は、世を騒がせたいくつかの実際の事件から「ヒントを得ていた」というだけの話である。

ただ、ここで問題なのは、例えば本作のタイトルが『俺たちに明日はない』とか『明日に向って撃て!』だったら、私は「騙された」とも「邦訳がひどい」とも思わなかっただろう、ということだ。
「世間の冷たさに絶望して、人生は一度だけなんだから、多少の犯罪を犯してでも、二人で生き延びよう」とした二人の姿を描いた作品のタイトルとして、これらなら十分に「許容範囲」に収まっているからだが、それにしても、『暗黒街の弾丸』はないだろう、ということなのである。

で、「本題」に入る前に、本作についての私の評価を語っておこう。

本作の本質は、その原題からも分かるとおり「メロドラマ」である。

要は「世間の冷たさと偏見に敗れた男女が、ついに本物の犯罪者へと堕ちて、逃亡の果てに射殺されてしまう」と、見る者の「同情を買い、涙を誘う作品」であって、「ギャング映画」や「犯罪映画」という言葉が連想させるような「非情の物語」ではない。
たしかに「世間は非情」だが、主人公たちは「情のある、当たり前な人間」なのだ。ただ、「非情な世界が、彼らを犯罪者へと追いやった」だけなのである。

そんなわけで、私に言わせれば、本作は「泣かせ」が目的の、いささか型通りに「感傷的なエンタメ作品」である。
この作品の売りは、その「シャープな映像」と、若きヘンリー・フォンダの演技であり、ストーリーや作品の内容にはないと言っても良い。昔の歌謡曲でいえば、

貧しさに負けた いえ世間に負けた
この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

踏まれても耐えた そう傷つきながら
淋しさをかみしめ
夢を持とうと話した
幸せなんて 望まぬが
人並みでいたい
流れ星見つめ 二人は枯れすすき

この俺を捨てろ なぜこんなに好きよ
死ぬ時は一緒と
あの日決めたじゃないのよ
世間の風の 冷たさに
こみあげる涙
苦しみに耐える 二人は枯れすすき

という、歌謡曲「昭和枯れすすき」(作詞:山田孝雄)と「だいたい同じ」ような心理を描いた、叙情的な作品だと言えるだろう。
もちろん、映画の方は、アメリカらしく「犯罪を犯してでも生き延びよう」とするのに対し、日本の「昭和枯れすすき」の方は「心中もの」の伝統をひいてか、抵抗することなく、もっぱら耐え忍ぶだけというところが、その「感傷性」の質と程度に違いがあるのではあるがだ。

だから、総論的に言えば、本作は、話としては「いささかベタな悲劇を描いた犯罪もの」ということになろう。したがって、前記のとおり、売りとなるのは、その「映像美」と「ヘンリー・フォンダの演技」ということになる、そんな「佳作」なのである。

映画界の通説としては「アメリカへ渡ってからのラングは、B級作品ばかりを撮った」などと言われがちだが、どうして、映像的には、決して旧作に劣るものではないのである。
ただ、やむなく、扱う「題材」が通俗的なものになった、そうしたものしか撮らせてもらえなかった、というだけの話だったのだ。

 ○ ○ ○

さて、「ここからが本題だ」と書けば、私の記事をよく読んでくれている方の中には、「まさか!?」と、ピンと来る方もいらっしゃるかもしれない。だが、その「まさか」である。
一一私が、ここで語りたいのは、「専門用語の定義の曖昧さ」の問題なのだ。

つい先日、映画評論家でもある「武蔵大学の教授」で「表象文化論学会の幹事」である、自称「フェミニスト」である北村紗衣が、映画『ダーティハリー』(1971年、ドン・シーゲル監督)を評して「アメリカン・ニューシネマ」の一つに数え、そこから「アメリカン・ニューシネマ」の特徴を「暴力とセックス」であるとして、フェミニストの立場から「アメリカン・ニューシネマ」を批判的に語った。

(※  【お詫びと訂正】上の部分、北村紗衣氏のインタビュー記事の内容について、私の読み落としによる誤解がありました。
北村氏は、このインタビューで、『『ダーティハリー』もこのニュー・シネマの影響下にある警察映画だと思うんですが……でもニュー・シネマ的なのかどうかがよくわかりませんでした。』と語っているので、『ダーティハリー』を「アメリカン・ニューシネマ的な作品」だと言っているだけで、決めつけているわけではありませんでした。この点については、以上、記してお詫びし、訂正させていただきます。失礼いたしました。
ただし、北村紗衣氏が、須藤にわか氏に対する反論文(はてなブログ)で、「アメリカン・ニューシネマ」の特徴は「暴力とセックス」であり、これは研究者間の常識だなどと、偏見と独断に満ちた、マンスプレイニングな決めつけをしたのは事実であり、その決めつけで、アマチュアを黙らせようとしたこともまた事実だと考え、北村氏の批評態度が間違いであり、批判が必要だと考えている点については、少しも変わっていないことを、申し添えておきます)

(『ダーティハリー』)

これに対して、アマチュアの映画ファンである須藤にわか氏が、〈常識的に言って『ダーティハリー』は「アメリカン・ニューシネマ」には含まれない作品だが、この「アメリカン・ニューシネマ」という業界用語は「幅のある概念」だから、『ダーティハリー』を「アメリカン・ニューシネマ」に含めるという考え方までは、ありとしよう。しかし、その特殊な「アメリカン・ニューシネマ」観において、「アメリカン・ニューシネマ」の特徴を「暴力とセックス」であるとする、雑で偏狭な批判までは看過できない。というのも、常識的に言っても、「アメリカン・ニューシネマ」の作品には、「暴力とセックス」が特徴とは言えない作品が、いくらでもあるからである〉という趣旨の批判をしたのだ。

で、この須藤氏のご意見は、いかにも常識的でもあれば、良識的なものであったから、両者のやり取りを受けて、ベテラン映画評論家の町山智浩も、「アメリカン・ニューシネマ」の「特徴」は、「暴力とセックス」には無い、と 明言したのである。

さて、ここで「日本語」として重要なのは、須藤、町山の両氏は、共に「アメリカン・ニューシネマ」には「暴力もセックスも、描かれてはいない」と言っているわけでもなければ、「そんな作品は一つもない」と言っているわけではない、という点だ。一一こんなのは分かりきった話であり、わざわざ断るまでもない「議論の前提」なのである。

例えば、「武蔵大学の教授」の何人かが犯罪を犯したら「武蔵大学の教授の特徴は、犯罪予備軍であるということだ」などと言えるのか、という話だ。

そりゃあ「大学教授」だって人間だから、中には大小の犯罪を犯す人もいるだろう。
だが、だからと言って、それをして「武蔵大学の教授の特徴は、犯罪予備軍であるということだ」と言えるのかと言えば、もちろんそんなことは言えない。大半の人は「犯罪者」でも、その「予備軍」でもないからだ。

では、「大半」がそうであれば、それを「特徴」と言えるのかと言えば、もちろんそれも間違い。
例えば「武蔵大学の男性教授は、女性が好きである」というのは、「大半」で当たっているだろうが、しかし、それは「武蔵大学の男性教授」だけに限られた話ではなく、よその大学の男性教授でも、世間一般の男性でも同じなのだから、それを「武蔵大学の男性教授の特徴」とすることはできない、のである。
一一つまり、「特徴」と「属性」とは、別物なのだ。

ところが、「武蔵大学の教授」で「表象文化論学会の幹事」である、自称「フェミニスト」の北村紗衣には、この程度の話もわからない。

ともあれ、町山の有名人に、上のように断じられては、自分の面子が丸潰れだとでも思ったのか、「Twitter」(現「X」)で粘着して、町山から、

『 はい。暴力やセックスの描写は、ニューシネマの最も顕著な特徴ですが、それがないニューシネマもあるし、それがある非ニューシネマもあります。』

という言葉を引き出したことをして、「どうだ」と言わんばかりに、次のようにツイートしたのだ。

『私は町山さんを詰めて答えを引き出しました。』

このように、まるで自分の言い分が正しかったと「証明されたかのように」語っているというのは、もう馬鹿としか言いようのないものだろう。
それに「詰めて」というのは、単に質問したということではなく、「難詰」したんだと、自ら臭わせているのだから、世話がない。

まあ、スラップ裁判がお得意の「スラッパーさえ坊」の異名を持つ(私がつけたのだが)北村紗衣のことだから、根拠を示した上での評価であっても、「馬鹿」と書けばそれだけで、「誹謗中傷だ!」「裁判だ!」「賠償金を払え!」なんて言い出す恐れもあるので、「頭が悪い」と言い換えてもよいのだが、なにしろ「スラッパーさえ坊」のことだから、これでさえ「誹謗中傷だ!」「裁判だ!」「賠償金を払え!」と言い出すかもしれない。

私は日頃から「駄作は、駄作としか評価し得ない」と言って(書いている)ので、「馬鹿は馬鹿としか評価できない(賢いとか人並みだ、とは言えない)」のだが、いくら根拠を示しても「馬鹿」や「頭が悪い」という言葉が、内容の如何に関わらず「公の場では不適切」だというような理由で「言葉狩り」をするのであれば、では、どう評価しろと言うのだろうか?
北村紗衣は、映画評論も書いているわけだが、自分の書く評論文では、「駄作を駄作」だとは言わないのであろうか? ヘボ評論家を「ヘボ」だとも言わないのであろうか?

実は、そんなことはないのだ。
北村紗衣は、自分が評価しないものについては、あまり上品でもなければ正確でもない言葉を、現に使っている。

例えば、「須藤にわか」氏との論争の発端となったインタビュー記事は、

メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た

と題されており、北村紗衣自身が、

『スコルピオはただのメチャクチャな暴力犯罪者みたいな感じで……。』

『犯人があまりにポンコツなので、サスペンスとして全然面白くなかったんです。』

などと発言しており、この記事のタイトルが、北村紗衣の発言と評価をベースにしたものであることは明らかだ。

で、今のところ北村紗衣は、この記事のタイトルに注文をつけてはいないし、いつものように「訂正させて」もいないのだから、「これで良い」と思っているということになるわけなのだが、では、私がこの先、北村紗衣の発言だの著作の内容だのを評して、

「メチャクチャな内容」
「なにしろポンコツ評論家なんで、実につまらなかった。というか、読むだけ時間の無駄」

などと書いた場合、これは「セーフ」なのだろうか?

「馬鹿」あるいは「頭が悪い」が、問答無用に「誹謗中傷」であり、「メチャクチャ」や「ポンコツ」は「誹謗中傷ではないから、使っても良い」というのなら、是非とも、「使って良い言葉といけない言葉」の「線引き」を明確にしてから、他人に注文をつけてもらいたいものである。
一一なにしろ、北村紗衣は、「武蔵大学の教授」であり「教育者」の端くれなんだろうし、「表象文化論学会」を代表する「学者」なんだから、そのあたりの、発言における表現の「線引きの根拠」を明確にすべきなのではないか。

まあ、こういう「メチャクチャなポンコツ教授」のことはここまでにして、要は、「フィルム・ノワール」であれ「アメリカン・ニューシネマ」であれ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」であれ、こうした「業界用語」には、「厳密な定義など無い」のが普通で、それらはもともと曖昧なものなのだ、という認識が重要なのである。

こんなこと、馬鹿でなければ分かりきった話なのだが、世の中には馬鹿は山ほどいて、当然のことながら「大学教授」であろうが「学者」であろうが、「馬鹿」は山ほどいるというのが、この世の習いなのだ。
その実例を、私たちはいま見てきたばかりだし、私がいつも引用する、SF作家シオドア・スタージョンの、下の名言にも、それは明らかなことなのである。

『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

「馬鹿」のために、この言葉を解説しておけば、要は「大学教授の90パーセントはクズ」であり「学者の90パーセントもクズ」であるということだ。つまり、本当に優れたものは「ごく一部」であり、大半は「凡庸」だ、という意味である。

だから、北村紗衣が「武蔵大学の教授」であり「表象文化論学会の幹事役員」であろうと、その「肩書き」で、北村が「非クズ」だという保証にはならない。

それに今どきは、政界などでも言われているように、「女性の社会進出が極端に遅れている日本では、女性の席を一定割合、あらかじめ保証すべきである」というような「アファーマティブ・アクション」が叫ばれているので、今の「大学」や「学会」でも、「女性の社会進出」を促すために、女性学者に優先的に「地位と役割を与える」ということをしているのではないだろうか。

私は、こうした「アファーマティブ・アクション」の推進には大賛成なのだが、しかし、ここで気をつけなければならないのは、こうした措置がとられた場合、「実力の同程度の学者なら、女性の方が役職に就きやすい」という「現実」がある、ということだ。なにしろ、そういう政策だからである。

つまり、「女性の教授と男性の准教授」では、「学者としての実力」では男性の方が上だというようなことは、論理的にも現実的にもあるはずなのだ。
だから、「教授」だの「理事」だのといった「肩書き」で、学者を評価してはならないのである。

実力があっても、そうした「肩書き」に恵まれない人もいれば、「なんで私が役職に就けないんですか! それは差別じゃないですか!」といった具合に、幹部や上司を「詰めて」、まんまと「肩書き」を得るような、厚かましい人物も、世の中には大勢いるのである。それが現実なのだ。

実際「大学教師」だの「大学教授」だのと言っても、スタージョンが言うとおりで、「クズ」もいるし、大半は「凡庸」でしかない。
だから、家庭環境だのなんだのに恵まれなかったための「中卒」者であっても、その恵まれない環境でもなお独学して頭角を表したような「中卒」者の方が、よほど「優れている」場合だって、決して珍しくはないのである。

なぜなら、「大学教員」だの「教授」だのというのは、「公立」「私学」を合わせて、毎年何十人だかが、ほとんど自動的に定員として「就任する」のだろうが、実力で頭角を表してくるような、「中卒」などの低学歴者というのは、そもそも滅多には出てこない「並外れた素質」のある人なのだ。
だから、毎年、システム的に栽培されるような「教授」や「理事」のような、必ずしも「学的実力や実績」とは関係のない「役職者」よりも、「実力が上」であっても、なんら驚くには当たらない。

例えば、私が批判した、小説家であり批評家の笠井潔は、学生運動のやり過ぎで大学を除籍になったことを自慢して、自分は経歴的には「高卒だ」などと、わざわざ吹聴したのも、大卒者だの大学教授だの「屁でもない」という自負があったからにほかならないのである。

別に、私自身がそうした「実力家」だと言いたいわけではないが、「北村紗衣vs須藤にわか」に関してだろう、「中卒が、あえて大学教授に正論をカマしていた」のが良かったみたいな感想をツイートしていた人がいたので、「そうじゃないんだよ。そもそも学者にも、カマされて当然のポンコツが少なくないんだ」と、そう言いたかったのである。

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そんなわけで「専門用語」だの「業界用語」だのを使われていると、なにやら「権威ありげ」で「ありがたい印象」を受けがちなのだけれども、そんなもの、大概は「曖昧な概念」であり「便宜的な言葉」でしかないという「それくらいのことは弁えておけ」というのが、本項の趣旨なのである。

実際、「フィルム・ノワール」についての「Wikipedia」の説明にも、

『ただし何を「フィルム・ノワール」とするかは論者によって幅が大きく、明確な定義は定まっていない。』

とあるとおりで、こんなことは「当たり前」の話なのである。
一一だが、「メチャクチャなポンコツ」は、この程度のことも分からす、「肩書きの権威」だけで「映画評論家」づらするのだから、まったく困った世の中だ。

こういう輩がのさばるのは、世間にそれを許してしまう「肩書き」信仰、つまり「偏見」がある証拠からなのだ。

「大学教授の言うことだから、信用していいだろう」とか「学会の役員を務めるほどの学者の言うことだから、信用していいだろう」とか。

しかし、こういう「ポンコツ」な認識しか持てない人が多いから、本作の主人公は「前科者」だということで「偏見」を持たれ、さらに「だから、差別していい」などという間違った認識に晒されることにもなるのである。

私たちは、こうした「偏見や差別」を、決して許してはいけないし、当然、自身がそれに染まってもならない。

問題は「レッテル」ではなく「中身」であり、それを見定める」「眼」の有無なのである。



(2028年9月3日)

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