小塩真司 『「性格が悪い」とは どういうことか ダークサイドの心理学』 : 我ら、ジキル博士とハイド氏
書評:小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか ダークサイドの心理学』(ちくま新書)
「性格が悪い」と人から思われているであろうことには自信のある私なのだが、無論、自分では特に「性格が悪い」とは思っていない。しかし、自分で思っているだけなら馬鹿でも同じなので、私は本書を読んで、客観的に見て自分はどうなのかというのを考えてみることにした。
で、どうだったのかというと、やっぱり私は、特に「性格が悪い」わけではなかった。正確にいうと(ダジャレではない)、「私の性格の中には、悪い性格属性も多々含まれてはいるが、総体として、性格が悪いというわけではない」ということだ。
さて、上の説明を読んだ人は、これをすっと呑み込めただろうか? 一一たぶん、今ひとつピンと来なかったのではないかと思う。
どういうことかというと、要は、「すべての人」の中には「ダークな性格属性」が含まれているのであり、私だけの話ではない、ということなのだ。
逆に「嫌なところ」をまったく持っていない人というのは、「不具者」であるか、「天使」などの「非人間」でしかあり得ない、ということなのである。
だから、「嫌な部分があるから、その人は性格が悪い」と評価するのは間違いで、それは「部分と全体の取り違え」でしかない。で、私も、全体としては、特に「性格が悪い」というわけではない、ということになったのである。
「すべての人」に、本書でも語られるような「ダークな性格属性」があるのだけれども、「それ一色の人はいない」というのが本書の眼目であり、要は、配合比率に違いはあっても、「すべての人」に、「好ましい属性」と「好ましくない属性」が含まれている。そして、その「兼ね合い(相互作用)」によって、その人の「総体的な性格」が決まる、ということなのだ。
だから、当然のことながら、その性格とは複雑なものであり、ひと言で表現できるようなものではないのである。
例えば、よく知られるように「サイコパス」的な性格の「強い」人は「他人の気持ちに鈍感」である。
しかしながら、そうだからこそ、果断な判断もできて、情に曇らされることのない目で、適切な判断を下せる蓋然性が高い。
逆に言えば、「共感能力の高すぎる人」は、感情に流されてしまって、適切な判断ができない。
例えば、「この人は好い人だ」だと思えば、疑うことをまったく放棄してしまい、それで騙されて「信じてたのに」と泣きを見ることになるし、また、そういう経験をしても、何しろ「情に流される=主観的にしか物事が見られない」のだから、自分の性格的な難点や弱点に気づくことができず「自分は悪くなかった」と自己正当化してしまい、反省することもないから、結局その性格は温存されてしまって、おなじ誤ちを何度も繰り返す、ということになりがちなのである。
つまり、「サイコパス」的な「冷徹に現実的な目」を持っている人からすれば、こういう「情が濃い(だけの)」人というのは、端的に言って「馬鹿」にしか見えないし、そう評価されても仕方のない現実がある、ということになるのだ。
したがって、重要なことは、「サイコパス」的な「冷徹に客観的である」という性格と「情が濃い」という性格を、両方とも適量持っていて、そのバランスを取りながら、その時々、適切にその性格属性を活用して、適切な判断ができてこそ、「バランスの取れた性格」だということになるのである。
どんな人の中にも、多かれ少なかれ「好ましいとされる性格」と「好ましくないとされる性格=ダークサイドの心理属性」が含まれているわけだが、重要なのは、その「ブレンド比率」でもあれば、時と場合によって、そうした「矛盾する性格特性」を、適切に使い分けられるか否か、という問題なのだ。
例えば、「戦争」だの「経営」だのといった場合には、「全体観」を持って、時に冷徹にならなければならないこともあるだろう。「一人を生かすために、その他全員を殺すわけにはいかない」といった場合には、自身の中の「情」を殺してでも「泣いて馬謖を斬る」ことも必要なのだ。
だが、勘違いしてはいけないのは、これは「全体のためになら、少数を犠牲にしても良い」ということではない。
「サイコパス」的な性格が強すぎると、そういう「単純な判断」をしてしまいがちなのだが、大切なのは、どちらが「正しい」判断なのか、ということであって、どちらに「利益」を見込めるかではない、ということなのだ。つまり、時には「一人のために、他の全員を斬る」という判断をしても、それは必ずしも間違いではない、ということなのだ。ただ、情に流されて、そのような判断をするのではなく、「情理」を兼ね備えた判断においてなら、そのような判断もあり得る、という話なのである。
したがって、本書に書かれているのは、「サイコパス」に典型されるような「こんな困った人がいる」という話ではなく、「誰の中にもある、困った性格属性としてのダークサイドと、どのように向き合っていくべきか」を考えるための、最新の研究成果報告なのだ。
だから、本書を読んだからといって、読者個々に対する「正解」が提供されるというわけではない。本書に書かれているのは、あくまでも、誰にでも多かれ少なかれある性格属性としての「ダークサイド」が、どのような傾向を持ち、どのように他の性格属性と関連し合い、どのような行動を引き起こすのかということを、一般的な傾向として示した研究成果の報告でしかない。
だから、読者は個々に、その研究成果を参照しつつ、自分の性格への理解を深め、より適切に、自分の性格をコントロールできるようにならなければならない、ということになる。
無論、そのようなことが可能なのは、「自分の性格は完璧ではない。問題はある。だから、常に反省して、判断に修正を加えて、より良きを目指さなければならない」という「謙虚さ」という「好ましい性格」が、一定量以上なければ、「反省」などということはできない。つまり「心理学なんて、いまどき流行らない」などと言っているような人は、自身の「傲慢=無反省」という「ダークサイド」に強く支配されている、ということなのだ。そんな、本来、他の誰よりも、本書における知見を生かして「反省」しなければならない人ほど、本書に見向きもしないといったことも多々あろう、とも言える。
したがって、本書の知見を活かせる人というのは、それを活かそうと思った段階で、すでに「そんなもの必要ない」と思っている人よりは、数段バランスの取れた性格特性を持っていて、「ダークサイド」に支配されにくい、とは言えるのである。
もちろん、私がこう言ったからといって、あわてて本書を購入する必要はないけれど、自分の読書傾向を考えるきっかけにはなるだろう。要は、見たいものを見たいだけなのか、見たくないものをも見る勇気を持っているのか、ということである。
こうした勇気も、ただ「繊細」なだけに近い人には持ち得ない。「蛮勇」とも「無神経」とも呼べる性格属性を多少とも持っており、時にそれを発揮できる人にだけ可能なのである。
ことほど左様に、性格とは、血液型の「A型」「B型」「AB型」「O型」といったように、わかりやすく区分できるものではないのだ。
「すべての人」に、いろんな性格属性のすべてが多少なりとも備わっており、それが「正常」なのである。あとは、そのブレンド比率を自覚して、その偏った特性を、いかに良い方向へとコントロールするか、の問題でしかない。
例えば「神経質で口うるさい」という一般には「好ましくない性格属性」であっても、それが、単なる独りよがりではなく、多少なりとも「他人のため」「社会のため」に行使されるのなら、それは、性格の好ましい「発現・発露」ということになるだろうし、そうでなければ、人に不愉快な思いをさせる「だけ」のものにもなってしまう。
だから、人は、自分の中の「好ましからざる性格属性」の存在を自覚して、それをいかに「好ましい方向」へ振り向けるかを考えなければならない。
本書の著者も書いているとおり、「性格の良し悪し」とは、その「中身」で決まるのではなく、「結果」で決まるのだ。
つまり、「良い結果に結びつくような発露の仕方」がなされるなら、それは「好ましい性格(の発露)」だと言えるし、そうでないのなら「好ましくない性格(の発露)」だと言えるのである。
例えば「優しい」というのは、それだけでは意味がない。
その「優しさ」が良き結果に結びつくようなかたちで表現された時に、それは初めて「優しさ」になるのであって、当人が「優しい」つもりでやったことでも、それが良い結果を生まないようなものならば「お為ごかし」とか「独善」とか「優柔不断」とかいったことにしかならないことも多々あるはずなのだ。
「おなじことをやっても、状況次第では、その評価は違ってくる」というのは、いささか理不尽だと思えるかもしれない。
だが、そうではない。なぜなら、その「状況」を、適切に判断できるか否かというのも、「性格」のうちだということである。
例えば、ナチス政権下のドイツで、「法律遵守」の「真面目さ」において、「ユダヤ人の迫害」に加担するのは、「真面目」とは評価されない、というのと同じことだ。
その当時は、ナチス政府からも、周囲からも「真面目」だと評価されるかもしれないが、それを狙って、人間としての「信義」を売り渡してしまえるような人間は、本来の意味での「真面目」と呼ぶべきではない。
そして、そのことは、そうした判断なり決断なりをした当人だって、じつは、多かれ少なかれ「わかっている」ことなのだ。わかっていながら、その「良心」に反して「真面目」を演ずるから、その「真面目」は偽物だと、客観的には評価されるのである。
だから、問題は、「自分のつもり」だけではなく、その「つもり」が「状況の中で、どのように作用するのかという、予測される結果に対する責任感」も性格のうちであり、だから「状況判断」も性格のうちで、すべてではないにしろ、それは自己責任の範疇に入るものだということになるのである。
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本書の内容は、次のとおり(Amazonの本書紹介ページより)。
つまり、「マキャベリアニズム」「サイコパシー」「ナルシシズム」「サディズム」というのは、そんな性格の人がいるということではなく、そういうふうに表現されるべき「性格属性」が、誰の中にも多かれ少なかれある、という意味の言葉なのだ。ここを、くれぐれも勘違いしないようにしなければならない。
次は、本書の「目次」である。
個人的な感想になるかもしれないが、これまでにもこの種の本を読んできた者としては、ハッキリ言って、第5章までは、ごく一部を除いては、退屈だった。
実証的研究成果を色々と紹介してくれているのだが、その結果が「まあ、そうだろうな」という予想の範囲に止まるものでしかないからだ。
無論、「研究」というのは、「予想」で済ませるものではなく、「実証」してこそ意味があるのだから、これらの研究結果が貴重で重要なものだというのは、論を待たない。
だが、単純に「読み物としては」いささか退屈だった、ということである。
しかしまた、「第6章」だけは面白かった。
たぶんこの章には、第5章までに紹介されるの「基礎的研究報告」を踏まえた上での、著者なりの「応用的な考察」がなされているからだろう。
例えば、こんな問題提起だ。
すでに言うまでもないことであろうが、「自己肯定感」というものも、「時と場合によりけり」で、例えば、「自信があるから勉強しない=自信がないから勉強する」というのと同じことで、自分一人で「満足」しておれば、それで良いということにはならない。だが今の「承認欲求社会」では、そうした兼ね合いは、見落とされがちなのではないだろうか。
また、必然的にこうした見落としは、次のような危うさにつながることもあろう。
わかりやすい実例である。
そして、これは例えば、「オリンピックを目指す英才教育」なども同じで、私たちはテレビなどで、その「成功例」だけを目にするため、「英才教育」の素晴らしさを過剰に評価しがちなのだが、実際のところ、こうした「英才教育」で、その当初の目的どおりに、人に抜きん出た存在になれる人は、そう多くはない。金メダルは4年に一度、世界でたった一人にしか与えられないし、そもそもオリンピック選手になどなれない人の方が、圧倒的に多いのだ。
無論、そうした経験をバネにして、別の方向でも努力できるようになれば良いのだが、そううまくいく保証はない。現に、メダルを取ったオリンピック選手でさえ、その後の人生で落ちぶれることだってあるのだから、「保険をかける」とか「未発見の才能を探す」といった意味でも、いろいろなものに唾をつけてみるという「凡才教育」は、いちがいに悪いものではないのである。
つまり、本書で語られているのは、「好ましい性格」であれ「好ましくない(ダークサイドの)性格」であれ、「それだけ」で存在するわけではなく、関連しあって存在するものなのだから、要は「バランス・コントロール」が重要なのだということである。
例えば、本書では「サイコパス」型の典型的な人物として、スティーブ・ジョブスやイーロン・マスクのほかに、フィクションの中から、かの「シャーロック・ホームズ」氏を召喚している。
知ってのとおり、ホームズは、自分の興味のあることにしか生きられない偏頗な人間であり、「不可解な事件」が起こらないと、退屈して麻薬に耽溺したり、部屋で拳銃をぶっ放したりなんていう問題行動に出てしまう。
しかし、そんな犯罪者同様の彼も、ひとたび事件に向き合えば、その常人離れした知能と集中力で、たちまち事件を解決してしまうのである。
これも、彼にとっては「好きなことをやっているだけ」であり、別に「世のため人にため」に、その「正義感」からやっているというわけではない。
それでも、これは結果として「世のため人のため」になっているからこそ、彼の「傍若無人」な行動も、「天才ゆえ」ということで許されてしまうのだ。
だがまた、より重要なことは、ホームズがそうした「天才」を悪用せずに、「世のため人のため」に使っているという、厳然たる事実である。
なぜなら、ホームズ最大の宿敵で、「悪の天才」と呼ばれるモリアーティ教授は、ホームズと同種の「天才」を持っており、ある意味では、ホームズの「一卵性双生児」の兄弟でもあれば「鏡像」的な存在でありながらも、その並外れた才能を「世のため人のため」には使わないからこそ、ホームズの対極にある「悪」だと位置付けられざるを得なかったのだ。
だから、重要なのは、「性格属性」そのものではなく、それ「善用」しているか否か、なのである。「性格」というのは、その「行動」無くしては、意味を持たないものなのだ。
(2024年8月12日)
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