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村山綾 『「心のクセ」に気づくには 社会心理学から考える』 : 私は私を案外知らない。

書評:村山綾『「心のクセ」に気づくには 社会心理学から考える』(ちくまプリマー新書)

「社会心理学」の入門書である。
中高校生向けにわかりやすく書かれており、当たり前のことだが、社会学の「最先端」のことが書かれているわけではない。
したがって、その筋の専門家ならば、普通はこの叢書(ちくまプリマー新書)を手に取ったりしないだろう。また、本書の場合、タイトルからして入門書であることは明らかなのだから、その点でも、読む以前に本書が「入門書」であることは、誰にでもわかるはずだ。

ところが、それがわからないような人が現にいて、本書をとらえて『超のつく入門』書だなどと不満を漏らすのだから、頭の悪い人というのは、「専門的な知識」の有無とは無関係な存在だというのが、よくわかる。なにしろ、よく知っているジャンルであるはずなのに、初歩的な区別すらつかないのだから。
いや、むしろ知識を(雑学的に)持っているだけの「宝の持ち腐れ」タイプは、知識を持たない初学者よりもはるかに、「業の深い、救われない衆生」だと言うべきなのだろう。

ともあれ、この見るからに「入門書」だとわかる本書を読んで、「入門書に過ぎない(専門書ではない)」などと言う人は、近所の小川に浸かって「海ではない!」などと文句を言う人と同じである。
要は、その人は「泳ぎたい」わけでも「泳げるようになりたい」わけでもなく、本当かどうかは別にして、「俺は、波の洗い海でも泳げるんだぞ」と匂わせることで、「自慢がしたいだけ」なのだ。
だが、そんな頓馬に、大した「能力」など無いというのは、それこそ普通の読解力がある人には、一目瞭然でしかない。
また、そのように見抜かれてしまうということもわからないほど、つまらない自慢をしたがる者というのは、根本的に「頭が悪い」ということにしかならない。つまり、「超のつく」なんとやらなのだ。

『 じゅん 『超のつく入門。』(5つ星のうち1.0)
2023年6月14日

行動心理学をベースに、簡単な事例・研究を紹介しながら、私たちが陥りがちな「とらわれ」「思い込み」から脱却していくヒントを、綴っている。

感覚的には、超のつく入門であり、いままで心理○○学、○○心理学、あるいはマーケ(心的変容)などに一切触れたことがない方にちょうどよいと、思う。

一方で少しでも踏み込んだことがあったり、ビジネス上でコミュニケーションデザインで試行錯誤している方には、あまりに情報が薄く、考察と提案が浅いと感じると思う。』

そんなわけで、本書を読むのは、基本的には「社会心理学」の知見に接して、今の自分を再検討してみたいと考えるような人である。
Amazonのカスタマーレビューを見てみても、本書に高得点をつけている人は、基本的に「知的に謙虚」であり「前向き」だ。
逆に、本書に「入門書で、物足りない」などという、お門違いな注文をつけるような輩とは、「私には専門的な知識あるぞ」と自慢するためだけに、日頃から「見栄えのしそうな専門知識」を暗記式に溜め込んでいるだけの、悪しきオタクでしかない。それをひけらかして、人から「すごいですね。勉強になりました」なんて「お世辞」を言われたいだけの、(じつは馬鹿にされている)マヌケなのである。一一だから、こういう人は、決して進歩しない。

知的に進歩成長する人というのは、基本的に「今の自分は、まだまだだ」という謙虚さを持っている。だからこそ、自分に足りないところを補うためなら、入門書を読むことも恥じない。
何しろ自分は「素人」なんだから、入門書を読むのは当たり前で、たまにちょっと難しい専門書を読んでは「難しいな」と自分の至らなさを確認しては、また入門書を読んでみたりと「努力する」のである。
また、だからこそそんな人は進歩成長するし、「なんだ、入門書じゃないか。つまらない」などという、浅はかな「知ったかぶり」の自慢などはしないのである。
言い換えれば、バカな自慢話をしたがるような輩は、基本的に「学びの姿勢」が無いから、いつまで経っても、そんなことばかりやっているために、進歩も成長もなく、つまらない「知ったかぶり」を振り回しながら、虚しく齢老いていくだけなのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本書は「社会心理学」の有名な実験などを紹介して、いまだ発展途上にある「社会心理学」の歩みとともに、私たちの「心」が、いかに「ありがちなワンパターン」に毒されたものなのかを、平易に解説している。「心のクセ」とは、そうした、気づきにくい「思考における、ありがちなパターン」のことであり、それは広く「社会的なもの」だという話なのだ。
私たちは、自分「独自の思考」をしているつもりでも、「社会」の中で生きている以上、その「環境」から多かれ少なかれ、共通する(偏った)影響を受けており、「客観的」「論理的」に考えることのできていない場合が少なくない。

例えば、私が以前に、批判的に論じた「社会学書」である、社会学者・岸政彦のベストセラー『断片的なものの社会学』(朝日出版社・2015年刊)は、タイトルのとおりで、人間というものを、社会学的に「マス」で捉えるのではなく、その「断片的なるもの」つまり「個」として捉えようとした「哲学的エッセイ集」だと、ひとまずそう言えるだろう。
社会学者として、日々「聞き取り調査」を行なっている岸としては、そうした「聞き取り」による基礎データから「社会学的な意味(知見)」を抽出して、それを社会に還元するという「社会学本来の目的とやり方」だけでは、そこからこぼれ落ちる「例外的なものとしての個」が多すぎると感じて、「個」の方に繊細に寄り添おうとしたのが、同書(所収のエッセイ)ということになる。

だが、私は、この本のタイトル『断片的なものの社会学』に、注文をつけた。
「この本は、哲学的エッセイではあっても、社会学の本ではなく、むしろ〝反・社会学〟的なスタンスで書かれたものである。それが〝社会学〟という通りの良い名称の権威だけを利用するというのは、ちょっとインチキではないか」と、大筋そのような批判をしたのだ。
同書は、「社会学」と名乗っているからこそ、「社会学書としては異質」という印象を与えるが、正直に「哲学的エッセイ」だと名乗っていれば、別段めずらしいものでも、新しいものでもない。要は、同書がベストセラーになった理由とは、

(1)著者は「社会学者」である。(つまり、学者という権威を背負っている)
(2)しかし、「社会学者」であるにもかかわらず、社会学の弱点である「個別性(の重要性)」に注目して、そこに寄り添う視点から、同書を書いている。
(3)今どきの「現状追認的な承認願望意識(そのまま主義)」の強い多くの人たち(要は、みずから成長しようとはしない人たち)は、そんな「そのままで、十分に個性的である(つもりの)私」を見落とすことなく、ちゃんと着目して寄り添っててくれそうな同書に、ありがたみを感じた。あるいは「個に寄り添う、繊細な私」という自認を追認してくれる「権威」として、同書を歓迎した。

と、このようにまとめても良いと思う。

この本を持て囃した人たちといいのは、社会学の専門的知識を持っているからこそ、「毛色の変わったもの」も「面白い」と、余裕を持って評価できる専門家か、さもなければ、専門書を読んだこともないし、読む気もないけれど、専門書を読まないまま「ああいう、学問は荒いんだよね。人間というものがわかっていない、図式主義だ」みたいなことを「知ったかぶり」で言いたがる人なのだろう。
そういう、「真面目に学ぶ気はないけれど、一家言あるところを見せびらかしたい」というような人たちには、岸政彦の『断片的なものの社会学』は、とても便利な「専門書」なのである。ろくに社会学書を読んでいなくても、「社会学なんて」などと言える口実(個が大事、繊細さが大事)を与えてくれるからだ。
しかし、だいたい素人が、学問ジャンルを丸ごと否定するなどというのは、自分がわかっていない証拠以外の何ものでもない。素人のくせに、ろくに読みもしないまま、「フロイトは、もう古い」などと宣う類いの人間なのである。

ともあれ、「素人の学びのための(実用)本」か、あるいは「素人の不勉強を正当化するための(見せびらかし用)本」かという観点からすると、本書は、岸の『断片的なものの社会学』の真逆にある、馬鹿正直なまでにまっすぐな「社会学の入門書」だと言えるだろう。本書を読んでも、特に自慢できるわけではない、見かけどおりにわかりやすい「入門書」になっているからである。

『 あまり意識されることはないのですが、実は置かれた状況によって、私たちの好み、判断、行動は変わります。たとえば食事の量について。世の中には大食い選手権に出られそうなほどたくさん食べる人もいれば、すごく少食の人もいます。これはいわゆる「個人差」にあたります。一方で、一度の食事でどれだけの量を食べられるかということとは関係なく、たとえば家族や親しい友人と食事をする時と比べて、よく知らない相手との食事では食べる量が少なくなることがあります。置かれた状況、つまり食事相手との関係性が変わると、同じ人物でも食べる量が変わるのです。そして状況による食べる量の違いは、「初対面の人に嫌われたくない、ひとまず印象を良くしたい」、という私たちの「心」が生み出している、とも解釈できます。このように社会心理学では、私たちを取り囲む「状況の力」を意識しながら、人の考え方や行動についてデータを取って調べることに興味・関心があるのです。』(P10〜11、「はじめに」より)

つまり、「社会学」というのは、一見「個々バラバラに見えるもの」にも、大局的見れば一定の「法則性」のようなものがあって、それを捉えて「人間の社会行動」の理解に役立てようという学問なのである。
無論、そこでは、一見「個々バラバラに見えるもの」があるというのは「自明の前提」であって、それに気づいていないわけではない。
ただ、「個々バラバラ」なものには「個々バラバラ」に対応しなければならないし、それが必要でもあればベストだということもわかってはいるのだけれど、しかし、「すべての個々」に割ける「社会的リソース」など、あるわけもないのだから、「おおよそ全体的に有効な方法(対策)」を考えるために、「社会学」は、「人間の特性」を「社会」という単位で捉えようとする学問なのだ。

例えば、岸政彦の『断片的なものの社会学』に描かれた、岸の体験的な「個別事例」の数々を読んで、「個に寄り添ってくれていて、ありがたいな」と感じた人は、多いだろう。だが、そう感じた人たち自身は、「読者」という「マス」であって、岸にとってさえ「個別の存在」ではあり得ない。「本を買って読んでくれた、ありがたい読者」として「感謝する」ことはできても、読者「個々」に対して、「個」を尊重して「個別対応」することは不可能だから、「マス」に対する「大きく外れることのない」感謝の言葉やコメントを出したりするのである。

だから、「社会学は、網の目が荒い」などということは、社会学がなんたるかを知らない素人の戯言に過ぎない。
社会学は、社会学にできることをしようとしているだけの、当たり前に「謙虚」な学問であり、そこから学ぼうとする人も、その網の目の洗い学問である「社会学」よりも、自分の頭の方が、もっと網の目の荒いことを承知して、社会学に学ぼうとしている、「謙虚」な人なのだと言えるだろう。

本書は、中高校生向けに書かれてはいるけれど、できれば大人にも読んでほしいと著者が語るのは、そういうことなのだ。
実際のところ、私が上で語ったような「社会学の初歩的な理解」を語れる大人が、どれだけいることか。そして、そこに気づくならば、本書を「入門書」だと軽く見る者こそ、そのご当人の頭が軽いだけだという事実にも、容易に気づき得るのである。

ちなみに、1年前に刊行された本書を、私が今ごろ読んだのは、先日読んだ、ウィトゲンシュタインの研究者である古田徹也の著書『謝罪論 謝るとは 何をすることなのか』の参考文献のひとつとして本書が挙げられており、そこで古田が、本書を「とてもよく書けている」という趣旨のコメントを付していたからである。

私は、古田徹也の飾らない語り口が好きなのだが、要は「類は友を呼ぶ」で、古田は本書著者である村山綾の語りの中に、自分に似たものを感じ、共感したのではないかと思う。
そして、その「似たもの」とは、たぶん「知的な謙虚さ」なのであろう。

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さて、ここまで、本書の具体的な内容については、ほとんど触れてこなかったのだが、それはなぜかと言うと、そもそも平易に書かれているものを、それ以上、平易に紹介することは困難だからである。
だから「読めばわかるし、血肉になる本だ」で済ませたいところなのだが、そうもいかないので、特に面白かった部分を、一箇所だけ紹介しておこう。

『 (※ これまでの社会学実験で)インドとアメリカで、他者の行動の原因帰属の仕方が異なることがわかりましたが、その背景要因には思考スタイルや自分についての認識の仕方(自己観)の違いが想定されています。
 アメリカを含む西洋の文化では、さまざまな事象は相互に独立しているという見方が広く受け入れられています。原因帰属を行う際も、その時に観察可能な「最小サイズの原因と結果の関係」に注目します。また、自分自身の存在を周囲の環境と切り離して理解します。つまり自分は、周囲からは独立した、主体性を持った唯一無二の存在であると考えているのです。そのため、他者の行動に対しても、その人自身の独自の特徴が反映されたものだと考える内的帰属が行われます。
 一方で、インドや日本を含む東洋の文化では、さまざまな事象はお互いどこかで、何かしら関連しあっているという見方が広く受けいれられています。そして、周囲との関係性や、自分が所属する集団が、現在の自分を作り上げているのだという認識をもっています。ゆえに、他者の行動も、その人の社会的な役割や、ある種の「制約」が反映されたものだと考え、外的帰属が行われやすいということになります。
このような文化の違いを実感するためには、「20の私」という課題に挑戦してみるといいでしょう。この課題は「私は      。」の空欄に入る言葉を20個書き出してみるというものです。最初の5個くらいはわりとすぐ思いついても、なかなか20個は挙げられないという人が多いようです。みなさんは20個書き出せますか?
 日本を含むアジアの人たちは、「私は高校生」とか、「私は女性」のように、社会における自分の役割や、周囲との関係性の中での自分の立ち位置といった、外的な要因に関わる特徴を挙げる傾向が見られます。アメリカ人では、「私は優しい」、「私は数学が得意」といった、個人の資質や能力といった内的要因を挙げる人が多いです。さて、みなさんはどうでしたか?』(P40~41)

さほど難しい話ではないが、用語の問題もあるので、少し説明しておこう。

『インドとアメリカで、他者の行動の原因帰属の仕方が異なる』という部分に出てくる「原因帰属」とは、ある「結果」に対して想定される「原因」を、「自分の内側」に帰属させるか、「自分の外側」に帰属させるか、ということである。
つまり、「テストで良い点が取れなかったのは、私の努力不足だ」と言うのが「原因の内的帰属」であり、「テストで良い点が取れなかったのは、親が家業を手伝わせたからだ」といったものが「原因の外的帰属」だ。

そして、こうした「原因帰属」を、自分の内に求めるか外に求めるかは、「人間皆同じ」というわけにはいかず、「国民性」などが影響しているようで、「個の確立している(人が多い)アメリカ人」は、原因を「内的に帰属」させる傾向があり、反対に「関係性を重視するインド人や日本人」は、原因を「外的に帰属」させる傾向があるようだ、という話である。

で、本書には書かれていないことだが、「宗教」を素人研究している私としては、こうした「違い」は、大まかにいって「キリスト教と仏教の違い」ではないか、と考えられて興味深いかった。
欧米人が一般に「個があってこその社会」と考えるのに対し、アジア人が「社会があってこその個人」と考えがちなのは、欧米人には「キリスト教」文化が根付いているからで、「キリスト教」とは「唯一神と私」の「一対一の関係」だから、結果責任は、自分個人で引き受けなければならないとなる。「神が、私に罰をお与えになったのは、私が悪いからであって、他人の責任にはできない。私は、私の罪を引き受ける、それが神への応答である」というふうに考えるが、「仏教」をはじめとした「多神教」の多いアジアの人たちは「神々と私たち」の関係にあるから、「それは私個人の責任だ」と単純には考えられない「心性」が育ったのだろうと、そんな推測である。

一一これはまあ、私が、ここを読んで、こんなふうに考えたので「面白かった」という余談でしかないのだが、上の部分を引用したのは、そこで紹介されている「20の私」という「社会心理学テスト」を紹介したかったからである。

あまり考えずに、即興的に『「私は      。」の空欄に入る言葉を20個書き出してみる』という心理テストなのだが、私はここを読んだ時、実際に「20個」書き出してみたわけではないものの、まず私の頭に浮かんだのは「私は飛ぶ」「私は走る」「私は嫌いだ」とかいったものだった。

で、そのあとを読んでみると、

『 日本を含むアジアの人たちは、「私は高校生」とか、「私は女性」のように、社会における自分の役割や、周囲との関係性の中での自分の立ち位置といった、外的な要因に関わる特徴を挙げる傾向が見られます。アメリカ人では、「私は優しい」、「私は数学が得意」といった、個人の資質や能力といった内的要因を挙げる人が多いです。』

となっており、要は、アジア人は「集団的属性」を思い浮かべるのに対し、アメリカ人は「自分個人の特性」を思い浮かべるという話になっており、要は、先に説明したとおり、アジア人は「関係性」の発想であり、アメリカ人は「個人主義的」な発想であった、ということなのだ。

で、ここまでなら、普通に予測の範囲なのだが、問題は、他でもない、私自身の回答である。

私の回答は、少なくともアジア人的な「集団主義」的なものでないのは明白だし、かと言ってアメリカ人的な「私はこういう人間だ」という「自己主張」的なものでもない。
私の回答は、私が「何者か」ではなく、私は「何をするか」「何をしたいか」という指向性を持つものであり、これは我ながら「自分らしい」と感じて「面白かった」のだ。

だから、本稿の読者にも、是非この「20の私」テストを試してほしい。
一一と言うか、上の「引用文」を読めば、多くの人はすでに、無意識にそれを試したのではないかと思うので、その回答がどういう性質にものであったを、よく検討してもらいたいのだ。
そこにはきっと、かなり正直な、あなたの「指向性」が現れているはずだからである。



(2024年6月9日)

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