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マーク・カズンズ監督 『ヒッチコックの映画術』 : 「無邪気な映画ファン」たらんとする 志

映画評:マーク・カズンズ監督『ヒッチコックの映画術』(2022年・イギリス映画)

アルフレッド・ヒッチコックの映画術についての映画だ、という説明は、「当たり前」だと言われそうだが、これは重要なポイントである。
なぜならば、ヒッチコックの場合は、「技法」あるいは「思想」など知らなくても、単純に「観て面白い」作風の作家なので、「技法」あるいは「思想」の解説は、よほど面白い物でもないかぎり、ヒッチコック映画の魅力の前には、否応なく霞んでしまうからだ。「こんなの観るくらいなら、ヒッチコックを観なおした方がいい」と。

また、それだけではなく、ヒッチコックの「技法」研究については、こちらも著名なフランソワ・トリュフォー監督が、先輩監督たるヒッチコックに対し、敬意を持って長時間のインタビューを敢行し、本人をして嬉々として語らしめたインタビュー本があり、これがもうヒッチコックファンなら誰でも読んでいる「映画論の名著」として評価の定まったものであるため、この本以上のことを、2時間ほどの映画で語るというのは、いかにも困難なことなのだ。

一一つまり、今更、ヒッチコックを「批評」的に語って、それでも人を唸らせるというのは、生半可なことではない、のである。

まあ、このあたりについては、本稿を書くために、パンフレットを読んだり、映画紹介サイトのカスタマーレビューを読んだりした結果の後知恵で、例えばトリュフォーの著書『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』が、そこまでの名著だとは、私はまったく知らなかった。映画に関連して、ちょこちょこ見かけるタイトルだとは気づいていたものの、そもそもまだそれそのものを読んでいないのだから、どれ程のものかの見当はついていなかったのである。

ところが、前記のとおり、この映画のパンフレットや、カスタマーレビューを読んでいると、とにかくこの本が引き合いに出されており、おおむね「トリュフォーの本に比べると、まったく物足りない」という評価が目につくのだ。
それにまあ、『ヒッチコックの映画術』なんてタイトルの映画を観る人なら、その大半は、まずヒッチコックファンだろうし、特にそうでないのなら、むしろかなりの映画マニアなのであろう。つまり、いずれにしても、トリュフォーの本を読んでいる人が多く、いやでも本作への評価は辛くならざるを得なかった、ということなのだ。

さらに言うなら、このマーク・カズンズ監督という人は、ある意味では非常に個性的な人で、その部分が、本作では災いしたといえるのかもしれない。
私の場合、カズンズ監督についても初めてその存在を知ったのだが、パンフレットに収録されている監督自身の文章や、同監督が敬愛するドキュメンタリー映画作家・原一男との対談を見てみると、カズンズ監督が「映画愛の塊」みたいな人だというのが良くわかる。そしてその「表現」は、かなり自覚的なものだというのもわかる。つまり「映画ファンとして純粋たらん」とする意志を、明確に持った人なのだ。

例えば、カズンズ監督は、「映画に関する(ドキュメンタリー)映画」をたくさん撮っている人なのだが、本作のパンフレットに寄せた文章で、大要、次のように語っている。

「メジャーな監督を扱うのは避けてきました。それよりも陽の当たらないところを紹介する方が好きなんです。だから、ヒッチコックの作品は好きだけれども、当初はあまり気がすすまなかった。でも、あるアイデアが浮かんでからは、一気に映画制作のためのヒッチコック研究にのめり込んでいきました」

この「アイデア」とは、要は「ヒッチコック自身に、自作を解説させる映画」ということである。
無論、ヒッチコックその人は、すでに亡くなっているのだから、ヒッチコック自身が遺した言葉を編集して、それに映像をつける、という形式の映画なのだろうと、普通はそう考える。
だが、カズンズ監督は、そうした誰でも考えつくような形式はつまらない、と考えたのであろう。だから、彼が考え出したのは、それとは「似て(大いに)非なるもの」ものであった。

(映画のナレーション部分では、このアップ写真がよく使われる)

ヒッチコックのすべての作品を観なおしたカズンズ監督は、そこから「自分なりに」ヒッチコックの「技法」や「思想」を読み取って、それを「ヒッチコック自身が語るという形式の脚本」に落とし込んだ。その上で、それをヒッチコックに語らせたのだ。

(カズンズ監督の、ヒッチコック作品鑑賞ノート)

つまり、カズンズ監督の「ヒッチコック論」を、ヒッチコックその人に語らせるいうやり方なのだが、前述のとおりで、故人に語らせるわけにはいかないので、この映画では、ヒッチコックの声真似のできる俳優に、ヒッチコックを演じてもらって、そのナレーションで映画が進行するという形式を採ったのである。

勘の良い人ならばすでにお気づきだろうが、この形式は非常に危険なものである。
なぜならば、カズンズ監督にその意図があろうとなかろうと、このやり方は「自分個人の意見を、ヒッチコック当人の権威を借りて語るもの」になってしまっているからである。だから、当然ファンにすれば「故人の権威を、勝手に利用するな」ということになりやすい。そうした反発を招くリスクが、極めて高いのである。

さて、では、ヒッチコックファンでもなければ、映画マニアとも言えない私が、この映画を観た印象はというと、端的に言って「切れ味が悪い」である。
何の切れ味が悪いのかといえば、それは「批評」としての切れ味だ。

(ノートを披露するカズンズ監督)

私は、ヒッチコックの映画をほとんど観ていない。その理由は、たぶん、私が自覚的な「本格ミステリ(謎解きミステリ)」のファンだったのに対し、ヒッチコックは「サスペンス映画の神様」だったからだ。
つまり「本格ミステリ」は「論理性」重視だか、サスペンス(ミステリ)は「感情や心理」重視だったからで、事実私は「サスペンスもの」のミステリは、ほとんど読んでいないのである。

そんなわけで、これまでヒッチコックとはほとんど無縁だった私は、当然、ヒッチコック自身の言葉だって、よくは知らない。
また、これまでにヒッチコックという映画作家が、どのように論じられてきたのかもしれない。
だが、ヒッチコックという見るからに「技巧派」の映画監督ならば、当然あれこれと論じてこられたであろう、というのは想像に難くないから、そうしたヒッチコック批評史を踏まえた上で、あえて本作のような「批評的な作品」を作るのであれば、「よほど新しいこと」をやっていなくては、つまらないだろうと、そう考えていたのだ。

だが、結果としては、本作からはそれほどの斬新さは感じられず、特に驚かされるようなこともなかった。本作で語られる「ヒッチコック理解」は、「まあ、そうだろうね」とゆるい同意を与えるレベルのものでしかなく、斬新で鋭い批評の持つ、目から鱗が落ちるような力は、感じられなかったのである。

だが、なぜカズンズ監督は、「批評的に斬新な作品」が作れず、単純に「ヒッチコック自身にヒッチコック作品を語らせる」というアイデアのみによって、この映画を撮ることにしたのだろうか。
一一これは、私が思うに、カズンズ監督の「純粋な映画ファンであり続けたい」という意志が、裏目に出た結果なのではなかったか。

映画パンフレットの収録された、原一男監督との対談で、とても印象的だったのは、カズンズ監督の、いかにも原監督のファンらしい「無邪気な態度」だ。原監督の言葉に、彼は「ワオーッ、僕も同感です!」みたいな、ファン丸出しのノリの反応を示す。

(パンフレットに掲載された写真。手前が原一男監督)

たしかにカズンズ監督は原監督のファンなのだろうし、親子ほど歳も離れているのだろう。
しかし、カズンズ監督はすでに結構な本数の映画を撮っており、斯界ではそれなりに高い評価も得ているベテラン監督である。
つまり、それだけの実績のある彼なら、もう少し「同じ映画監督どおし」として、落ち着いて語り合っても良かったはずなのだ。

だが、カズンズ監督は、終始「映画ファン」という立場で語っているし、とても「若い」という印象を与える。
また、パンフレットに掲載されている原監督との対談風景の写真でも、彼の服装は、ヒッチコックの顔がプリントされた、タンクトップの黒いTシャツ姿で、両腕には小さな刺青がたくさんあり、頭は鳥の巣のようで、表情は興奮した子供のようなのだ(これも、後で知ったことだが、両腕の入れ墨は、どうやら、彼の好きな映画監督の名前のようだ)。

(日本で購入したのか、ご自慢のTシャツを披露)
(腕の刺青。漢字による日本名に見えるが読めない)

私はこの対談を読んだ段階では、カズンズ監督の経歴を知らなかったし、顔までマジマジと観察したりはしなかったため、上のような事実から、なんとなく三十代後半か、せいぜい四十代半ばまでの若い人という印象を受けた。だが、あとで「1965年生まれ」つまり、私のたった三つ下で、五十代も後半の人なのだと知って、大いに驚かされたのである。

そして、こういう「見せかけほど若くはない」という観点から、カズンズ監督を見てみると、彼の「思想」が透けて見えてくるように思えた。
例えば、先にも紹介したように、彼は「メジャーな監督よりも、陽の当たらないところを紹介する方が好き」と言っているし、原監督の対談では「(原監督と同様に)大学で映画論を講義したこともあるけれど、性に合わなかった。言葉であれこれ語るのではなく、映像で見せたいタイプなんだ。だから、大学での講義は辞めてしまいました」と話しているし、また「映画を研究する、というようなのは、あまり好きではありません。映画は、あくまでも、観て楽しむものです」という趣旨のことも言い、だから本作『ヒッチコックの映画術』を作るにあたっても、先行の「批評書」に当たることは、しなかったようである。
つまり、「映画作品を自分の目で観て、そこで感じたことを表現する」というのが、「映画ファン」たらんとするカズンズ監督のスタンスだったのではないだろうか。

言い換えれば、彼は、ナイーブな「いち映画ファン」なのではなく、「思想」として「いち映画ファン」たらんとした人であり、信念を持って、それを生きようと決意した人なのではないか。
だからこそ、殊更と思えるほど「映画ファンとしての無邪気さ」を演じることになったのではないか。「無邪気さ」に、固執していたのではないだろうか。

したがって、本作『ヒッチコックの映画術』における「ヒッチコック自身に(彼の声を持って)自作を語らせる」という、ある種の「お遊び」は、決して「ヒッチコックの権威を借りる」などというようなことではなく、彼の「それ、面白いんじゃないの!」というところから飛びついたアイデアであって、たぶん他意はなかったのだと思う。
「ヒッチコック自身に(彼の声を持って)自作を語らせる」というアイデアは、カズンズ監督にすれば「ヒッチコックにふさわしい、トリッキーなもの」だと感じられたから、「これだ!」ということになったのではないだろうか。

そんなわけで、本作が、ヒッチコックファンや映画マニアの反感を招きやすい形式になってしまったのも、そうではない私が感じたように「批評的斬新さに欠ける」作品になってしまったのも、それはカズンズ監督の、「映画ファンとして、いつまでも無邪気でありたい」という思想が、その方向に仕向けたものであり、監督がその「思い(イデオロギー)」に縛られすぎた結果なのではないかと、そう理解されたのである。

したがって、「ヒッチコック自身に(彼の声で)自作を語らせる」という本作の形式は、ヒッチコックファンや映画マニアが感じたような「権威主義による権威利用」などではなく、その真逆である、ヒッチコックを「神聖不可侵な権威的存在」とは「扱わず」に、ひとつの映画の「道具」に使ってみせるという、言うなれば、ヒッチコックファンや映画マニアの持っている「権威主義」に対する、ひそかな反逆であり批判であったのではないか。だからこそ、彼らを不快にさせたり、怒らせたりすることになったのではないだろうか。

私も「反権威」ということでは、カズンズ監督に負けない人間のつもりだし、「純粋な映画ファンたらん」とする意志には、とても共鳴する。だから、いつまでも「無邪気な映画ファンでありたい」という気持ちもよくわかる。
一一だが、厳しい言い方をすれば、それは悪い意味での「ピーターパン・シンドローム」なのではないか。つまり、悪い意味での「成熟拒否」である。
「純粋な映画ファンたらん」とする意志や「いつまでも無邪気な映画ファンでありたい」と願う気持ちは否定はしないのだけれども、やはり「それだけではダメだ」と、私には思える。

北アイルランド出身のカズンズ監督は、レッドカーペットで民族衣装のキルトを着用した)

だから、困難な道ではあれ「成熟しつつ無邪気さを忘れない」という方向性こそが、カズンズ監督の目指すべきものなのではないだろうか。

そして、これを本作『ヒッチコックの映画術』にそって具体的に言うなら、「先行のヒッチコック論」を無視するのではなく、それを読み込み、それと対決した上で、それらを乗り越えた先に、この映画を作るべきではなかったか、ということになる。

くり返すが、カズンズ監督の人柄や基本的な方向性には、とても共感するのだが、だからこそ、その「成熟拒否」的な側面には、賛同できない。
「成熟」するとは、何も「そっくりかえって威張る」とか「もったいをつける」とか「大監督(大物)ぶる」とかいったことを意味するわけではないのだ。

たぶん、カズンズ監督は、そうした「権威主義的なもの」に、人一倍反発を覚えるタイプの人であり、だからこそ「陽の当たらないところを紹介する方が好き」ということでもあったのだろう。その意味では、この人は決して「子供のように無邪気な人」なのではなく、むしろ見かけに反して「信念の反骨漢」だったのである。
だが、そうであるならば尚更、「つまらない大人の権威主義」を超えた「大人」にならなければならないはずなのだ。

だから、そんなカズンズ監督に、私は二つの言葉を捧げたい。
ひとつは「実るほど頭を垂れる稲穂かな」であり、もうひとつは「翁童」である。

「成熟する」とは、「威張った大人になること」でもなけれな、「童心を忘れること」でもない。
困難なことではあれ、「成熟の果てに童心に帰る」という境地こそが、カズンズ監督の目指すべき方向性だと、私にはそのように思えるのである。

(2023年10月10日)

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