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アルフレッド・ヒッチコック監督 『レベッカ』 : こういうお話だったのか。

映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『レベッカ』1940年・アメリカ映画)

『レベッカ』というと、本読みの私は、まず原作小説の方を思い出す。1938年に発表されたイギリスの作家ダフニ・デュ・モーリエの作である。

どんな小説だろうと「あらすじ」を見ると、「豪壮なお屋敷の中、先妻の亡霊に脅かされる新妻」みたいな説明があって、今の感覚からすれば「ゴシック・ホラー」なのかなと思うのだが、どうやら「先妻の幽霊」そのものは登場しないようだ。
つまり、ギレルモ・デル・トロ『クリムゾン・ピーク』のようなお話ではなく、あくまでも、ただの「ゴシック小説」。幽霊は出てこないけれど、あやしい豪壮な洋館の中でのサスペンスもののようである。

で、私は「妖しい洋館」ものは好きで、あまり読めてはいないが、『山荘奇譚』『たたり』『丘の屋敷』『ずっとお城で暮らしてる』などの作品で知られるシャーリィ・ジャクスンの本はほとんど買い込んでおり、また、筋金入りの無神論者であり宗教批判者でありながら、フィクションの「怪異」は好きだから「ゴシック・ホラー」も嫌いではない。さらに、「幽霊」は出なくとも、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』のような「ゴシック風味のある本格ミステリ」も大好きだ。

松野一夫による『黒死館殺人事件』扉絵)

しかし、言い換えると、「幽霊」も出てこなければ、真逆の「論理的な謎解き」もないといった、いかにも「雰囲気」だけの人間らしい心理サスペンスものというのには、あまり魅力を感じない。
だから、「ゴシック小説の古典」として名高い、そして「平井呈一の名訳」作品としても有名な、ホレス・ウォルポール『オトラント城奇譚』は、教養として読んでおいてもいいなと思い、これまでに何度か購入していながら、なかなか手に取る気になれなくて、いまだに読めていないし、もう死ぬまで読むこともないだろう。

つまり、私は、オーソドックスな「ゴシック小説」には、あまり惹かれない。なぜなら、舞台の妖しさ好きでも、サスペンス中心の人間ドラマには興味がなかったからである。
だから、原作の『レベッカ』も、どんな小説なのだろうと、一応はチェックしたものの、読もうとまではしなかった。

そんなわけで、ヒッチコックの作品に『レベッカ』というタイトルの作品があるのは知っていたのだけれど、それが、かの『レベッカ』の映画化作品かどうかまでは、そもそも興味がなかった。
また、どっちにしろ、映画としても古いモノクロ作品だし、「サスペンス映画の巨匠」というヒッチコックの肩書きにも、あまり魅力を感じなかった。

「サスペンス映画には、基本的には興味がない」と断った上で、ヒッチコック研究の名著として知られる『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を忌憚なく評価したところ、自分では、それなりの自信作であったが、映画ファンの評判は芳しくなかったようだ。やはり、名著と名高い同書の後ろ盾によって、ヒッチコックを絶賛するファンには、私の「そういう読み方では、同書が読めているとは言えない」といった「文芸批評」的な評価は、門外漢からの批判として、煙たがられてしまったのかも知れない。

閑話休題。そんなわけで、ヒッチコックの『レベッカ』にもさほど興味はなかったのだが、昨年初めてゴダールを観て「この映画が、どうしてそこまで褒められるのか?」という疑問を持って以来、娯楽映画には止まらない「映画というジャンル」そのものに興味をもったため、古今東西の映画を可能なかぎり観るようになった。
また、そうしたスタンスからすると、これまであまり興味のなかったヒッチコックも「娯楽映画」派の大家として無視するわけにはいかないと、ひととおりは観ることにしたのである。

そんな折も折、非常に良いタイミングで、マーク・カズンズ監督の『ヒッチコックの映画術』という映画が公開された。
参考になりそうだと観に行ったところ、たぶんカズンズ監督は、ヒッチコック理解の独自性にこだわりすぎたせいであろう、ヒッチコック論映画としての切れ味は、今ひとつであった。

ただ、この映画のレビューを書くため、映画紹介サイトのカスタマーレビューなどを参照したところ、ヒッチコック研究の名著があるという無視できない事実を知ることができた。多くのヒッチコックファンや研究家が、その名著と比較して、カズンズ監督の上記の作品でのヒッチコック理解が「物足りない」としていたのである。

そういうことなら、その本は是非とも読まなければならない。
だが、ヒッチコックの作品自体をろくに観ないで、先にヒッチコック研究の名著を読み、その影響を受けすぎるというのも、あまり好ましいことだとは思わなかったので、ひとまず、代表作の一つとされる『裏窓』を観て、そのレビューで、自分独自のヒッチコック観を示した上で、『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を読むことにした。
なお、ヒッチコックの代表作の中でも、特に『裏窓』を選んだのは、私が昔からのグレース・ケリーファンだったからだ。もっとも、女優としての彼女のファンではなく、あくまでもイコンとしてのグレース・ケリーのファンだったので、写真集は所蔵していたが、彼女が出ている映画は観たことがなかった。

そんなわけで、私はもともと『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』を読んだからといって、この「名著」の権威にベッタリと追従する気はなく、あくまでも「参考資料」として読んだので、同書の「聖典」扱いには批判的な内容になった。
だが、今どきの何でも褒める提灯持ち映画ライターとは違って、こうした節度と一定の狷介さは、批評家なら持ち合わせていて当前のものだと、私自身は思っている。ヒットコックであれ、映画であれ、私はその「信者」ではない、ということだ。

で、なぜ今回『レベッカ』なのかというと、理由は簡単で、モノクロ時代の古い作品を含めて、ヒッチコックの代表作をもっと観なければならないと思い、『ヒッチコック サスペンス傑作選』という10枚組のDVDを安く手に入れ、その最初の作品が『レベッカ』だったというわけである。
なお、このヒッチコックサスペンス作品のDVDコレクションには、次のような作品が収められているので、順次観ていきたいと思う。

『レベッカ』
『バルカン超特急』
『海外特派員』
『迷走迷路』
『疑惑の影』
『ロープ』
『見知らぬ乗客』
『汚名』
『断崖』
『白い恐怖』

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さて、やっと、ヒッチコック版『レベッカ』である。

結論から言うと、これはなかなか面白い作品だった。
ヒロインは私好みに綺麗だし、なにより感心したのは、物語展開のスピーディーさである。

(ヒロイン「わたし」を演じたジョーン・フォンテイン

「ゴシック作品」というのは、「雰囲気」を重視するために、どうしてもメリハリにかけてテンポが悪く、小説の場合だと、そういうのが好きな人でないと、現代の読者にはいささか退屈に感じられる場合が多々ある。
だが、ヒッチコックの『レベッカ』は、ゴシック小説でありながら、けっこう「曲」のある原作の長編小説を、実によくギュッと凝縮して、退屈させない作品に仕上げている。

本作のあらすじは、次のとおりだ。

『ヴァン・ホッパー夫人の付き人(レディズ・コンパニオン)としてモンテカルロのホテルにやってきた「わたし」は、そこでイギリスの大金持ちの貴族であるマキシムと出会い、2人は恋に落ちる。マキシムは1年前にヨット事故で前妻レベッカを亡くしていたのだが、彼女はマキシムの後妻として、コーンウォール地方マンダレイにある彼の大邸宅へ行く決意をする。美しい自然に恵まれ、多くの使用人がいる邸宅の女主人として、控えめながらやっていこうとする彼女だったが、不遇な境遇のため、人に使われたことはあっても使ったことのない「わたし」には、戸惑うことばかりだった。以前からの使用人、ことにかつてのレベッカ付きの使用人で、今なお邸宅を取り仕切るダンヴァース夫人にはなかなか受け入れてもらえない。屋敷の調度は前妻レベッカの趣味で整えられ、新参の「わたし」は内心不満に思いながらも、その中で暮らしていくしかなかった。次第に「わたし」は前妻レベッカの、見えない影に精神的に追いつめられていく。しかし、後半ではマキシムの隠された過去やマキシムですら知らなかったレベッカの一面が次々と明らかになっていく。

(Wikipedia『レベッカ』(小説)) 』

要は、本作は、大きく分けると三部に分かれることになる。
イギリスの大金持ちの寡夫マキシム・ド・ウィンターと語り手のヒロイン「わたし」の出会いが描かれる「序章」に、マンダレイの屋敷に行ってからのヒロインの怯えた生活を描く前半の「ゴシックストーリー」部分、そして後半の「犯罪サスペンス」部分だ。

(モンテカルロの二人)

この作品で、主に話題にのぼるのは「序章」を含む「前半」部分であり、「後半」が語られることは少ない。「あらすじ」や「内容紹介」は、おおむね「前半の紹介」が中心で、「後半」については、上の「あらすじ」と紹介と同じようにあっさりしている。だから、この作品は「ゴシック」のイメージが先行してしまうのだが、全体としては、それで終わる作品ではないのである。

ともあれ、こういうけっこう「曲のある作品」なので、この長編小説を2時間ほどの映画作品に仕立て直すというは、なかなか大変なことだったはずだが、ヒッチコックは、これを実に要領よくやりおおして、退屈させない作品に仕上げている。

「序章」および「前半」で特に印象的だったのは、「劇伴(BGM)」の使い方のうまさだ。
サイレント時代の劇伴のノリを引きずっている部分もあったのかもしれないが、劇伴は全体に「軽快」なものが多く、マンダレイの屋敷にやってきてからでも、「おどろおどろしい」それではなく、そのため、本作が無闇に「暗く重く」なることを防いで、サスペンスの面白さを前面に出している。
「雰囲気」の強調ではなく、具体的な「謎」と「困難」の連続において、主人公を追い詰めていく前半の演出は、いかにも技巧派の演出家らしい手際だったと言えるだろう。

(先妻レベッカの専属家政婦であったダンヴァース夫人に威圧されるヒロイン)

そして後半だが、「前半」での「ゴシック」風を生んでいた「先妻(レベッカ)の影」の「思わせぶり」が、「後半」でその「謎」が解き明かされることにより、もっと現実的な「犯罪ドラマ」へと変調する。
後半は、「姿の見えないもの」との葛藤ではなく、ある「犯罪」が露見するのか否かの、言うなれば「倒叙ミステリ」となって、ハラハラドキドキの展開を見せ、最後はハッピーエンドに終わるのである。

(夫への愛が、やがて彼女を強くする)

つまり、この作品は、現代的に「守備一貫した(完結性の高い)物語」というよりは、「先の見えない(増築的)展開によって、読者を惹きつけて飽きさせない、古風な娯楽小説」だと言えるだろう。そして、そうした部分が、ヒッチコックには合っていたのだろうと思う。

ヒッチコックは前述の『映画術ヒットコック・トリュフォー』でも語っていたように、「本格ミステリ(謎解きミステリ)」的な作品が嫌いであった。
では、そのどういうところが嫌い(合わない)のかというと、「本格ミステリ」というのは「最後の謎解きによる知的爽快感」や、時には「最後の1行によるどんでん返し」のために、それまでは延々と地味にネタを振るような作品だからだ。

典型的な形で言えば、冒頭に不可解な殺人事件が起こり、そこに名探偵や刑事がやってきて、現場検証や関係者への事情聴取などをやり、この間に目立たぬように「伏線」を張るのだが、ここまでが物語の8割から9割を占め、最後の数章に至って、やっと伏線を回収していく謎解きが始まり、その最後の最後に「犯人の仕掛けたトリックの解き明かされ、それによって意外な犯人が特定される」といったような構成になっている。
つまり、読者は、最後の驚きのために、8割から9割までの地味な展開(出題篇)に堪えることを、作者から要求されるのである。言うなれば、喉が渇くのを我慢して我慢して、最後に冷え切った生ビールを一気に飲む、みたいな作品が「本格ミステリ」(の基本型)なのだ。

ところが、ヒッチコックは、こういう「我慢忍耐」が、嫌いなのだ。
美味しいものが次々と提供されるのでないと我慢できない。そのために、作品全体としてのメリハリを欠いてインパクトに欠ける作品になったとしても、テーマ的なものを打ち出せないとしても、「最初から最後まで、美味しくいただける料理」一一それが彼の映画であり、彼の真骨頂なのである。

したがって、地味で雰囲気重視の「ゴシック小説」ではなく、けっこう「曲」に富んでいる作品だったからこそ、『レベッカ』はヒッチコックに向いており、楽しい映画にも仕上がったのであろう。

なお、本作は、ヒッチコックが、ハリウッドから招かれ、初めてアメリカで撮った記念すべき作品である。

言うなれば、『レベッカ』の「前半のゴシック」がイギリス調なら、「後半のサスペンス」はアメリカ調だと、そう言っても良いであろう。つまり、本作は、ヒッチコックの「転身」を象徴する作品にもなっている、というわけである。

「ただし、たぶんこの程度の指摘は、すでに先例があるだろうが」と付け加えないではいられないのが、新奇性を重視する「本格ミステリ」ファンの性(さが)として、まことに遺憾なのではあるが。


(2023年11月21日)

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