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アルフレッド・ヒッチコック監督 『バルカン超特急』 『海外特派員』 『逃走迷路』 : 戦前戦中のミステリー作品

映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『バルカン超特急』1938年)、『海外特派員』1940年)、『逃走迷路』1942年)

今回は、ヒッチコックを3本まとめて、やっつけてしまおう。

本稿で扱うヒッチコック作品は、『バルカン超特急』(1938年)、『海外特派員』(1940年)、『逃走迷路』(1942年)の3本で、見てのとおり、「第二次世界大戦」の開戦前年から戦中にかけての作品であり、その時期に作った「サスペンススリラー」作品で、「スパイもの」だと考えれば、大筋で間違いはない。なんらかの「国際的な諜報謀略活動」が物語の背景をなしており、それを「連合国側」の主人公が暴く、というお話だ。

私は、以上の3作について、まとめて鑑賞したわけではない。
古い順に、間隔をおいて見たのだが、要は、1本目、2本目を、それぞれ見終えた段階では、レビューを書く気にならなかったのだ。端的に言って、つまらなかったからである。

では、3本目を見て、なぜレビューを書く気になったのかと言えば、それは、3本目が良かったからではなく、3本いずれもが「よく似ている」という点で、ヒッチコックのひとつの「個性」を見出せたと思ったからである。

ちなみに、以上のことと大いに関係することなのだが、私は本稿のサブタイトルを「戦前戦中のミステリー作品」としながら、ここまでは、この3作品について「サスペンススリラー」と表現してきた。これはなぜなのかといえば、私は、これらの作品を、どうしても「ミステリ」とは、呼びたくなかったからなのだ。

しかし、本稿で問題とするのは、まさにその点、つまり、ヒッチコックには「ミステリ」が撮れないし、撮っていないという事実とその原因を明確にするところにあるので、サブタイトルに「ミステリー」という「広義のミステリ」を指す言葉を入れておいたのだ。
つまり、ヒッチコックの「サスペンススリラー」は、「ミステリー」作品ではあるけれど、「ミステリ」ではない、という意味である。

さて、こう書くと、「ミステリ」に詳しくない方は「どっちも同じじゃないか」と思われることだろう。しかしそれは、半分は正しいけれど、半分は間違いである。

いわゆる「ミステリマニア」や「ミステリ読み」を名乗る人ならば、この2つの語句の違いを知っているだろうし、私が言わんとしていることも、すでにご理解いただいているだろう。
だが、本稿は、そうした「ミステリマニア」ではなく、広く「映画ファン」一般を対象として書いているので、まずは、その「違い」を説明しておきたいと思う。

「ミステリー」または「ミステリ」というのは、当然のことながら、英語の「mystery」の日本語読み(表記)であり、この言葉の意味は、

(1)不思議、神秘
(2)怪奇小説、 推理小説など

を指している。
つまり、本来は(1)を意味していたのだが、そうしたものを描く「小説」までもが、やがて「ミステリー小説」と呼ばれるようになった。つまり、(2)にまで、言葉の使用範囲が広がったのだ。

したがって、「ミステリー」という場合、それは「推理小説・探偵小説」を意味するだけではなく、スティーブン・キングが書くような「怪奇小説(ホラー小説)」や「超能力小説」、あるいは、大ヒットしたテレビドラマ『X-ファイル』などのように、「UFO」だの「謎の怪物」だのの「超常現象」一般扱う作品も「ミステリー」作品ということになる。「ネッシー」や「雪男」「ツチノコ」は「ミステリー」だし、それを扱う作品も「ミステリー」作品となる。同様に、「血の涙を流す聖母マリア像」や「修道女の体にあらわれた聖痕」も「空飛ぶ円盤」や「麦畑にできた不思議な幾何学模様(ミステリーサークル)」とかいったことも、当然「ミステリー」だ。一一つまり、「不思議」なことは、その原因が何であろうと、ひとまず広く「ミステリー」と呼ばれ、そうしたものを扱う作品も、ひとまとめに「ミステリー」ものとして扱われ、そう呼ばれているのである。

ところが、「ミステリー」と呼ばれるものの中で、唯一と言って良いような、異色の存在があった。それが「ミステリ小説」である。

「ミステリ小説」が、なぜ「異色」なのかというと、他の「ミステリー」とは違って、その「不思議」や「神秘」そのものを楽しむのではなく、その「謎解き」の魅力を主眼としているからなのだ。

つまり、「ミステリ」「近代理性主義」的な「科学主義」なのに対して、それ以外の「ミステリー」は「近代以前」の世界認識を是認する体のものなのだ。
したがって、「近代的な理性」や「知性」を誇る「ミステリ」としては、そんな「幼稚なもの」と一緒にされたくない、という気持ちが強い。

「われわれは、一見、不思議なもの、神秘的なものがあったとしても、それを何も考えずに、驚いたり喜んだり恐れ入ったりはしない。基本的には、この世には不思議なものなど、何もないのだよ。ただ、そのからくりが見えていないから、不思議に思えるだけなのだ。また、いまだ多くの人は、そうした謎を解こう、真相を解明しようという意思を持たない、近代以前の没理性主義に立脚したままだからこそ、物事の表面だけ見て、やれ不思議だ、やれ神秘だなどと言っていられるのだ。まさに、何も考えずに、ボーッと生きてんじゃねえよ、ということである」

そんなわけで、「理性」や「知性」を重視し、それを誇る「ミステリ」派は、その他の「ミステリー」派と一緒くたにされるのが嫌なので、「mystery」の、より原音に近い読みである「ミステリ」を採用して、差別化を図ったのだ。

こうした「区別」は、私の知っている範囲で言えば、まずは、翻訳小説の出版社である「早川書房」あたりで採用され始めたもののようだ。早川書房の場合、「謎解き探偵小説(ミステリ)」も扱えば「怪奇・幻想小説」も扱い、どっちも、それまでの表現で言えば「ミステリー」だったのだが、これではわかりにくいということで、「謎解き小説」については「ミステリ」と書いて区別することにした。それが「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」であり、早川書房の『ミステリマガジン』というわけである。
その結果、早川書房が刊行する海外の「謎解き探偵小説」を好んで読むようなマニアたちも、「謎解き探偵小説」を意識的に「ミステリ」と「表記する」ようになった。
そして、こうしたところを読んで育った(「ポケミス」全巻コンプリートを話題にするようなマニア)たちが、後の「新本格ミステリ」ムーブメントを巻き起こしたのである。

したがって、「ハヤカワ・ポケット・ミステリー」、早川書房の『ミステリーマガジン』、「新本格ミステリー」などと書く者は、基本的には(編集者であろうと、書店員であろうと)「トーシロウ(素人)」である。ろくに、基礎教養たる海外の古典ミステリも読んでいないから、「ミステリ」と「ミステリー」の区別もつかないのだ。一一というのが、意識して「ミステリ」という「読み」を使い、差別化を図ってきた「マニア」たちの、エリート主義的な意識なのである。要は「空飛ぶ円盤やオバケなんかと一緒にするな」ということだったのだ。

だが、そうした「新本格ミステリ」ブームも過ぎてしまい、「論理的な謎解き」を重視する「近代理性主義」的な考え方までもが、「面白ければ、何でもいいじゃないか」という娯楽至上主義の台頭に圧倒されてくると、出版社の方も、そう堅いことばかりも言っておれなくなって、少々「ハッタリがましい(インチキくさい)謎解き」であっても、ひとまず「アッと言わせてくれる驚き」を提供されるような作品を求めるようになる。その方が「わかりやすく面白い」からである。
実際、多くの出版社は「ミステリ」というマニアックな呼称は使わず、一般的な「ミステリー」の方をずっと使ってきた。多くの出版社にとっては、「ミステリとは、なんぞや」といった原理的な議論になど興味はないから、あくまでも、通りの良い方を使い続けてきたのである。

一方、いくら「新本格ミステリ」作家たちが、「緻密な論理性」を重視し、そうした「王道」の「本格ミステリ」を代表する作家として、エラリー・クイーンを「本格ミステリの王様」だと持ち上げたとしても、そうした「緻密な謎解き」を誇るような、ある意味では「地味な本格ミステリ」が、現に売れなくなってくると、「ミステリ」という言葉(ジャーゴン)の影響力まで下がってくる。
それどころか、自分たちの「本格ミステリ」が売れなくなってきては、そんな原則論ばかりを口にしてもいられないため、そうした「理想(原理論)と現実(市場原理)」の葛藤と兼ね合いの中から生まれてきたのが、近年流行っている「特殊設定ミステリ」だと、そう言うことも出来るだろう。
つまり「本格ミステリの原則を守りつつも、刺激的な目新しさをも提供する」という、新傾向の登場である。

現実世界(リアル)にこだわって「本格ミステリ」を書こうとすれば、それはどうしたって「ネタ切れ」になってくる。なぜなら、「この世」で発生しうる、言い換えれば、この世の原理に縛られた「不思議(解かれるべき謎)」が、あらかた解かれてしまっている以上、「同じネタを別の解き方で」というやり方しかなくなるわけなのだが、それにも限度があるからだ。

だから、「この世」では起こり得ない「不思議」が起こる「他の場所(世界)」を舞台に設定して、その異世界での「論理」に沿った「論理的な謎解き」をすれば、おのずと「見たこともない面白さ」つまり「目新しさ」が演出できるというわけである。

例えば、普通なら「ホラー」に分類されるだろう「死者が甦る世界」を舞台にして、「死者が甦るのは、自然なことである(不思議なことではない)」という、その世界の「論理(法則性)」に整合性のある「謎解き」をやれば、おのずと「斬新な」推理を読者の提供することができる、という寸法だ。
そして、これがひとつ成功すれば、あとは「時間が逆行する世界」とか「人間が分裂する世界」とかいった、これまでは「SF」や「ホラー」に分類されていた、特殊な「世界設定」を採用し、その中での「謎」を設定して、その謎を「論理的に解く」、といったミステリが増えてきたので、それらをまとめて「特殊設定ミステリ」と呼ぶようになったのである。

(「特殊設定ミステリ」の先駆的傑作)

ただし、察しの良い人ならすでにお気づきのとおり、「特殊設定ミステリ」のようなものが書かれるようになったのは、もちろん、ひとつには「(サブ)ジャンルミックス」的な感性が育ってきたといったこともあるのだけれど、やはり本質的には「本格ミステリ」が、その「生き残り」をかけて、「売れれば勝ち」の「市場経済」に順応し始めた、というところが大きい。

「本格ミステリ」というのは、前記のように、もともとは「保守的なジャンル」であり、積極的に変わっていこうという意識には乏しかった。なにしろ、「本格ミステリ」こそが「知性の文学」だと誇ったくらいなのだから、進んで「変わろう」などという意思を持つわけがない。
したがって、「本格ミステリ」において、「特殊設定ミステリ」のような作品が書かれるようになったのは、積極的に「進歩した」と言うよりは、見た目の派手さや面白さに「譲歩」した、やむなく「妥協」したということなのである。

「本格ミステリ」の「本質」が、「科学的理性」に基づく「緻密な論理性」にあるのだとしたら、「目新しさ」や「派手さ」に妥協する必要はない。
たとえば、日本で一世を風靡した、北村薫らよる「日常の謎」は、「何気ない、どうということのない、小さな謎」を「論理的に見事な解いて見せる」ところにこそ、「本格ミステリ」の醍醐味と真髄が見出され、「素晴らしい」と歓迎されたのだ。

また、長らく「ミステリ」というものの「王道」が、「不可解な謎を、論理的に解く」という点に認められていたからこそ、日本のミステリの父とも呼ぶべき作家・江戸川乱歩は、当初、ガチガチの「本格ミステリ」を書いて登場したのであり、やがてそれが書けなくなって、やむなく「怪人」だの「獣人」だのが跳梁跋扈する、派手な「通俗ミステリー」を書くようになってしまってからは、乱歩自身、そんな自分を「堕落した」と感じ、自己「嫌悪」を覚えざるをえなかったのである。

つまり、今の日本のミステリ界に代表される「特殊設定ミステリ」ブームといったものは、乱歩が歩んだ「通俗化」の下り坂を、ブレーキを利かせつつも、再び歩んでいるものなのだとも言えよう。
要は「俗受け」しなければ、売れなければ、「論理性」もへったくれもない、ということになってきたのである。

まただからこそ今では、「日常の謎」派のような、一見したところの「地味な作品」は書きにくくなっている。そんな「上品な(抑制された)」やり方では、宣伝負けしてしまうと考えられるようになったからだ。
だから、今や日本の「ミステリ」は、「怪人」でも「獣人」でも「宇宙人」でも「推薦文の濫発」でも「PR(提灯・宣伝)書評」でも、何でもアリなのだ。涼宮ハルヒではないけれど、「面白くなければならない」し、「面白ければ、何でもOK」なのである。

言い換えれば、日本の「本格ミステリ」は、そして「世界の本格ミステリ」は、世界がすでに「売れたもの勝ち」の「新自由主義経済」に突入してひさしい以上、「エリート的な抑制の美意識」よりも、臆面もなく「売れる」ことを、ガツガツと脇目も振らずに、優先的に追求せざるを得なくなっているのである。
だから、そうした作品を読めば、たしかに、それなりに「面白い」のだけれど、どこかで「美意識」に欠けており、要は「面白ければ、それでいいじゃないか」「ウケて(売れて)なんぼでしょう」といった、開き直った卑俗さが、否応なく滲んでもいるのである。

かつては、良くも悪くも「貴族主義=エリート主義」的な「美意識」を保持し、それを誇っていた「本格ミステリ」も、いよいよ「市場経済」に呑み込まれて、その「美意識」を、かなぐり捨てようとしている。あるいは、そんな過程にあるようなのだ。

で、真っ先に、そうした「市場主義社会の勝者」となった、代表的な映画作家が、他でもない、アルフレッド・ヒッチコックだったということなのである。

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ここまでの「前提的議論」で、すでに十分に長くなってしまったので、あとは出来るかぎり簡単に片づけよう。
したがって、本稿が扱う『バルカン超特急』『海外特派員』『逃走迷路』の3作品については、ひと通りの「あらすじ」紹介もやめて、もっぱら「共通点」に見る、その「特質」についてだけ語ることにする。

『バルカン超特急』は、ヒッチコックがアメリカに渡る前の、イギリス時代最後期の作品であり、内容的には「列車内での人間消失と入れ替わりトリック」が物語の前半をなし、後半は、その「消えた人物」が、実は政治的な要人であり、敵対国によって誘拐されたというのが判明して、あとは「活劇」に移るという、(旧作『レベッカ』同様の)前半と後半が分裂気味の作品である(『レベッカ』は、前半がゴシック、後半が犯罪サスペンス)。
つまり、よく言えば「一粒で二度美味しい」作品なのだが、作品の「構造美」だの「完成度(無駄のなさ)」を求める向きには、いかにも垢抜けない、「面白がらせよう」というのが見え見えの作品である(この点では、『レベッカ』の方が随分マシ)。
本作をして「傑作」と呼ぶ向きもあるが、それはあくまでも「通俗娯楽作品」として「サービス満点」だということであって、反面それは、まとまりなく「何でもあり」の作品だということでもある。一一したがって、どちらを取るかは、趣味の問題だ。
ちなみに、本作の「人間消失」は「よくあるパターン」でしかないし、それを支える「入れ替わりトリック」も、今や「ギャグ」の域に達した、原始的なものである。

『海外特派員』は、ヒッチコックがアメリカに渡ってからの作品で、言うなれば、アメリカの「国威発揚」のために作った作品だ。その意味で「プロパガンダ(政治的宣伝)」作品だというのは間違いない事実なのだが、しかし、枢軸国である日本が、同時代に作っていた「国威発揚のためのプロパガンダ映画」に比べると、ずっと垢抜けしており、娯楽作品としても楽しめるものになっている。つまり、日本のそれのように「目の吊り上がったような作品」ではなく、さすがは大国の作品らしく、余裕のある作りとなっているのだ。
お話は、アメリカの新聞社が、ヨーロッパでの開戦のキーマンである、有名な「平和運動家」の行動についての取材を進めようとして、頭でっかちな現地の特派員のかわりに「行動派の若者」を雇って、ヨーロッパに派遣するのだが、その平和運動家に会った途端、その人がテロに遭って、目の前で殺されてしまい、主人公は、逃げた殺し屋を追って、あちこちを駆け回るというもの。
この物語にも「消失事件」が登場する。車で逃げる犯人を、主人公がタクシーで追い、犯人の車が、ひと気のない平原に入ったところで、いきなり消えてしまう(見失ってしまう)というものである。周囲は見通しの良い平原。そこにあるものといえば、いくつかの風車小屋だけ、という状況だ。
当然、犯人の車は、風車の中に隠れたのだが、それが「消えた」と表現されるところが「ヒッチコック映画」で、主人公の後から殺し屋を追っていた警察の一隊は、主人公の「このあたりで消えた」という説明を聞いて、そんな馬鹿のことがあるものか、この外国人(アメリカ人)は頭がおかしいんじゃないかという様子で、主人公を残し、犯人捜索のためにその先へ向かってしまう。だが、そのあと主人公だけが、風車小屋に隠れたのではないかと気づいて、そこに犯人の車を発見し、さらなる追跡行へと続いていく、という展開である。

『逃走迷路』は、アメリカの軍需工場放火事件の濡れ衣を着せられた工員(従業員)の青年が、犯人と思しき「消えた工員」を追うという、これもスパイものなのだが、指名手配され警察に追われる彼に対し、その途中途中で、じつに都合よく「善意の人」が現れ、彼に救いの手を差しのべてくれる。そのことで、彼の追跡行(逃避行でもある)が可能になるという、いかにも御都合主義的展開だ。
『バルカン超特急』と違い、本作と『海外特派員』はアメリカ人の青年が、犯人を追う主人公で、それに絡む「美女」が登場し、最後は両者が結ばれて、悪(の手先)は滅びて「ハッピーエンド」という、実にわかりやすいお話となっている。

これらの作品には、一応のところ、「解くべき謎(国際的陰謀)」の一端が示され、その全貌を明らかにするべく、主人公が「真犯人」を追うわけだから、広い意味での「ミステリー」作品だとは言えるだろう。
また、「ミステリ」的な「謎」としては、いたはずの人物がいなくなるという、ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』流の「人間消失」が描かれたり、クレイトン・ロースン『天外消失』流の「衆人環視の密室(周囲が丸見え状態の、逃げ道のない場所)」トリックが登場するも、そうした名作とは違い、いずれも「子供騙し」の域を出るものではない。

なぜ、そうなのかといえば、それは間違いなく、ヒッチコックが、はなから「緻密な謎解き」の魅力になど興味がなく、ただ、その場その場で観客の興味を惹ければそれで良い、というスタイルの「娯楽作家」だからである。

実際、ヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーによる、50時間にも及ぶロングインタビューの中で、「謎解きミステリに興味はない」という趣旨のことを、何度も語っている。

そんなヒッチコックとは、次のような「好み」を持つ人なのだ。

『 小説は読まない。フィクションは読まない。読むのは、だいたい、同時代の人物の伝記とか、紀行文だ。フィクションを読むと、衝動的に、つい、「これは映画になるか、ならないか」と考えてね、いやになるからね。それに文学的な文体には興味がない。たぶん、サマセット・モームだけは例外だ。あの簡潔でさっぱりした文体がとてもいい。文体の美しさが魅力になっている文学というのは好きになれない。わたしは心底から視覚人間だからね。風景なんかの描写がことこまかに書かれているのを読むと、つい、いらいらしてきて、こんなところはキャメラでさっといっきょに撮れちまうのにと思ってしまうんだよ。』

(『映画術 ヒッチコック・トリュフォー』・P326)

「緻密な観察」「緻密な思考」を必須とする「本格ミステリ」には、およそ不向きな人だというのが、よくわかるだろう。
文学作品の「風景描写」ごときで『つい、いらいらして』くるようでは、古典的な「本格ミステリ」における「殺人現場の詳細な描写」など、およそ読めるものではない。
「発見時、被害者は、西側の壁に沿わせて置かれていたベッドから約30センチほど離れた左横に、北を頭にしてうつ伏せに倒れていた。彼の背中位には刃渡り30センチのサバイバルナイフが深々と突き刺さっており、彼の右手の先には、フローリングの床に、自らの血によるものと思しき〝h〟という血文字が書きつけられていた。」などという描写が延々と続いていたら、ヒッチコックが、そんなものを読まなかったのは必然であったろう。

しかし、「謎解き」というものは、「問題」をきちんと把握しないでできるようなものではないし、ただ、答を「当てれば良い」というものではない。
言い換えれば、「謎は正しく解かれなければならない」のであって、結果的に「当たって」いても、それでは意味がない。それは「正解」とは呼べないものだからである。

こんな、ヒッチコックをして、トリュフォーは、次のように分析してみせる。

『思うに、あなたの方法論は、およそ文学的な発想とは正反対であり、徹底して純粋に映画的なのです。あなたは空白に魅了され、その空白をイメージでいっぱいにしようとするのです。映画館が空席だらけなら、観客でいっぱいにしようとする。スクリーンが空白なら、イメージでいっぱいにしようとする。あなたの発想は、いつも、中身ではなく、入れ物のほうなのです。映画は、あなたにとって、ひとつの容器なのであり、それを無数の映画的なアイディアで充たさなければならない。あなたの言葉でいえば「エモーションで埋めつくさ」なければならない。』
同上・P329)

「空白をエモーションで埋めずにはいられない」というのが、ヒッチコックの個性なのだとしたら、そんな人の作るものが「本格ミステリ」的なものに、なりようがない。

「本格ミステリ」とは、「(冒頭の)謎」と「(結論としての)真相」の間の「空白」を、万人の共通の「論理(ロジック)」で埋めようとするものなのだが、ヒッチコックの場合は、その「空白」を「エモーション」つまり「感情」で埋め尽くそうとするのであり、それはトリュフォーの(お世辞半分の)指摘にもかかわらず、多分に「空間恐怖症」的に「強迫」的なものであって、「理性」的なものではない。

ともあれ、言ってみれば ヒッチコックは、「理屈」に合わなくても、「気分(感情)」的に納得できれば、それで良いという人なのだ。

例えば「マリア像が血の涙を流した」という「謎」に対しては、「誰かが、こっそりと血で涙を描きこんだのだ」とするのが「近代理性主義」的な解釈であろう。
ところが「そんな罰当たりなこと、できるわけがない」と、そう本気で考えるような人は、「誰かが、こっそりと血で涙を描きこんだ」可能性を疑う前に、自分の「感情」を優先して「これは神が、人々に〝悔い改めよ〟とおっしゃっているのだ」という、感情的な理解を選ぶだろう。それが「近代的理性」な「物理法則」には合わない「非合理」だとしても、その人にとっては、そっちの方が「リアリティがある」からだ。

つまり、ヒッチコックにとっては、「驚くべき状況」「意外な展開」というのは、恐るべき「空白」を埋めるための「緩衝材」であって、それの「質」までは問われていないのである。
言い換えるならば、「エモーション」を喚起する「謎」の提示は、切れ目なく続ける必要はあるものの、個々の「謎」の真相など、それほど重要ではないと思っているから、「あんな作品」ばかりになってしまうのである。

したがって、ヒッチコックの「ミステリー映画」というのは、例えば、「本格ミステリ作家」であるアガサ・クリスティの原作を映画化した『オリエント急行殺人事件』だとか『そして誰もいなくなった』みたいな「堅牢な作品」にはならないし、なりようもないし、そうなろうと思ってもいないのだ。

シドニー・ルメット監督版『オリエント急行殺人事件』・1974年)

だからこそ、ヒッチコックの「ミステリー作品」は、「サスペンススリラー」ではあっても、決して「(本格)ミステリ」にはならないのである。

そして、こうしたヒッチコック作品こそが、観客に「知性(知解)」を求めない、現代ハリウッド式「ジェットコースター・ムービー」の、ひとつの源流ともなっているのであろう。



(2024年4月5日)

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