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小津安二郎の精神分析 : 『晩春』 『東京暮色』 『麦秋』ほか

映画評:小津安二郎『晩春』『東京暮色』『麦秋』ほか

小津安二郎の作品について、私はこれまで、鑑賞順に『東京物語』(1953年)、『父ありき』(1942年)、『秋刀魚の味』(1962年)と3本のレビューを書いている。

これらはいずれも、それぞれに魅力のある作品だからレビューも書けた。
しかし、じつはその後に、『東京暮色』(1957年)、『麦秋』(1951年)の2本を観ているのだが、こちらはいずれも、あまり感心しなかったので、レビューは書かなかった。書けなかったのだ。

さすがの小津安二郎とはいえ、すべての作品が「傑作」ではあり得ないというのは、むしろ当然なことなのだが、最初に代表作を観てしまうと、どうしてもそれ以外の作品は見劣りしてしまうということなのだろう一一と、そのように理解していた。

そして、今回は『晩春』(1951年)を鑑賞したのだが、本作は、前に2作に比べるとまだ「いかにも小津安二郎らしい」作品として観られはするのものの、しかし、ちょっと「不思議」なところのある作品だった。
そこで、その点についてつらつら考えてみると、小津安二郎という人が、少し見えてきたように思えたので、それについて書いてみることにしたのである。

なお、本稿のタイトル「小津安二郎の精神分析」としてのは、何のケレンもなくそのままの意味であり、「小津安二郎は、どうしてあの小津調と呼ばれる、個性的でもあれば、ワンパターンとも言われる映画を撮るのか?」という疑問について、「精神分析的アプローチ」を採ることにしたということである。

もちろん、小津安二郎ほどの「大監督」を精神分析するなどとは「不敬」の極みだと感じる信者の方もいるだろう。
だが、私の批評における基本的なスタンスは「神様はいない」というものであり、要は、何様であろうと「同じ人間」として扱うという点にあるので、「精神分析」をするといっても、それは殊更に小津安二郎を貶めるという意図はなく、ただ当たり前に、小津安二郎を「ひとりの人間」として、その「心理」面から分析しようという話でしかない。

だから、小津安二郎の「弱点」的な部分にも触れるつもりだが、それは「小津安二郎の欠点」を批判的に指摘するためではなく、あくまでも小津安二郎を「長所もあれば欠点もある人間」として全的に扱う、ということであって、けっして貶めるためではないのだ。

小津安二郎が、今も生きていて現役の作家なのであれば、弱点や欠点を指摘して「奮起をうながす」ということも可能だが、故人ついては、それも不可能なこと。
たが、そうであるからこそ、私がここであえて「小津安二郎の長所だけを見る」ということをしないのは、故人である「小津安二郎の長所だけを見る」というのが「当たり前(暗黙の了解)になっている現在」において、安直な「小津安二郎の神格化」に異を唱えたい、という気持ちからなのだ。

つまり、小津安二郎の「弱点や欠点」を理解した上で、故人である小津の「美質」を語るのなら良いのだけれど、故人の美質ばかりが(町おこし的な意図から)強調されるために、そこしか知らないし気づきもしない、あるいは、小津の「弱点や欠点」については「それに気づいても、そこから目を逸らしてしまう」という「信者」的な「認知の歪み」が、昨今は瀰漫しているのではないかと疑うのである。

だが、小津安二郎という映画作家は、そのように「無理をして長所ばかりを見なくても、弱点や欠点を認めても、それでもなお非凡な魅力を持った人である」という事実は揺らがないと、私はそう評価しているのだ。

だから、たぶん「小津安二郎の生前」には「常識に類したこと」だったであろうことを、本稿で確認しておきたいと思うのだ。
日本が、世界の中でどんどん落ち目になっていく中で、小津安二郎の作品というのは「日本がまだ、魅力的でありえた時代」を写しとっているという「印象」を与える。だからこそ、今の日本人によって小津が「再評価」されるというのも、わかりやすい心理ではあろう。
だが、そんな「鑑賞者側の都合」による「劣等感の補完物」的な評価ではなく、あくまでも「作家と作品に即した評価」を行うために、その長所だけではなく、弱点や欠点まで確認しなければならないのではないか。
弱点や欠点まで認めた上で、それでもその対象を愛せるというのが、本当の意味での「愛する」ということだと、私はそう考えるのである。

 ○ ○ ○

さて、私が本稿を書こうと思ったのは、『晩春』を観たことからだ。この作品は、

『1949年度の「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で1位に輝いている。日本国外でも非常に高い評価を得ており、英国映画協会(BFI)選定の2012年版「史上最高の映画」で15位に輝いている。また、2022年版では21位となっている。』

(Wikipedia「晩春 (映画)」

と、昔も今も、とても高い評価を得ている作品だが、私は決して、満足はできなかった。

本作は、戦後昭和の大女優である「原節子」の主演した小津作品で『本作および後年の『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶこともある。』(wiki)作品であり、かつ『娘の結婚を巡るホームドラマを小津が初めて描いた作品であり、その後の小津作品のスタイルを決定した。』作品でもあることから、小津の「代表作の一つ」もなっている。

しかしまた、言い換えるならば、本作は、「小津安二郎の一つのパターン」の「原型」だとも言えるだろう。
小津作品を制作年度順に観た人なら何とも思わないだろうが、私のように『東京物語』や『秋刀魚の味』のような、小津の代表作から小津に入った人間は、本作を観て「また、このパターンか」という印象を禁じ得ない。だが、じつのところ「このパターン」は、本作『晩春』において、初めて確立されたものなのである。

もちろん、この「パターン」とは、小津安二郎ファンには説明の必要もない『娘の結婚を巡るホームドラマ』ということなのだが、小津ファンではない読者のために、ごく簡単に説明しておけば、「高齢の父親とその20代後半の娘のいる家庭における、娘の結婚をめぐる物語」とでも言えるだろうか。

今でこそ「晩婚化」が進んでいるために、30歳前後になって結婚しない女性がいても、まったく何とも思われないのだが、少なくとも高度経済成長の時期ごろまでは、女性は、20代前半までには結婚しているものであり、20代後半にもなって結婚していないと、世間からは陰で「行き遅れ」呼ばわりされ、精神的あるいは肉体的に「何か問題でもあるのではないか?」とまで見られたりしたのだ。

そんなわけで、当時の女性は、二十歳にもなると早速、結婚のことを考えるようになったし、周囲も「縁談」の話を持ちだすようになる。要は「見合い」をしないか、という話を、親類縁者や会社上司などが持ちかけたりしていたのだ。
新しい「自由恋愛結婚」に比べれば「古い」と言われはしたものの、それでも当時はまだ、「お見合い」は決して「特別なこと」ではなく、当たり前に行われていたのである(ちなみに、結婚相手の男性については、同世代より少し上くらいが適切だと考えられていた。年功序列社会の中で、男性の社会的地位がそれなりに定まった年齢、ということである)。

本作『晩春』も、鎌倉在住の大学教授・曾宮周吉笠智衆)とその娘の紀子原節子)の物語である。
二人は、仲の良い父娘として二人暮らしをしていたが、周吉は、妹の「まさ」杉村春子)から、そろそろ紀子を嫁にやらないと「行き遅れ」になって、結婚できなくなってしまうぞ、見合いさせてはどうかと急っつかれ、なるほどもっともだと納得し、まさの持ち込んできた見合い話を進めるように依頼する。そして、紀子にその話をするのだが、当初、紀子はその気はない、お父さんと二人で暮らしていられれば良いと、気のない返事をするばかりであった。

(叔母まさと紀子)

小津作品の「パターン」だが、このように「父娘」はとても仲が良く、娘は父によく「仕え」、亡き母のかわりに、父の身の回りの面倒を見、家政を切り回している、実によくできた娘である。だから、父の方も、そんな娘が可愛くもあれば、ついそれに甘えて「娘を便利に使って」しまっていたのだ。
だが、娘が三十路前になり、周囲からもそれを指摘されるようになると、さすがに「このままでは娘のためにならない」と焦りだし、本作の周吉も、紀子の縁談話に積極的になるのである。

一一で、ここまでは、ごく常識的な心理であり、誰もが納得できるところであろう。
ところが、今の感覚からすれば、どうしても「奇妙」に映ってしまうのが、紀子の心理である。

紀子は、見合いには消極的であり、本音のところでは、まったく興味がなく、むしろ縁談話を迷惑だとすら感じている。
もちろん、周囲が、紀子の行く末を案じて、善意で縁談話を持ち込んできてくれているというのはわかっているから、それを無碍に断ったりはせず、笑顔で「私はまだいいの」「別に結婚しなくてもいいの」といった調子で、やんわりと拒絶しようとする。
だが、紀子に縁談をすすめる叔母のまさや父の周吉も、そんな「説明」にもならない説明では納得できない。今は良くても、将来紀子が後悔することになるだろうと思うからこそ、積極的に縁談の話を進めようとする。

その結果、紀子は、愛する父から「私もこれまで、お前を便利に使ってきてしまい、申し訳ないと思っている。だが、このままで良いわけはないのだから、お前は結婚しなくちゃいかん。相手さえキチンとした人なのであれば、結婚は決して悪いものではないぞ」と強く見合いをうながされ、最初のうちは笑ってやり過ごそうとしていた紀子も、とうとう見合いに応じ、さらには気が進まないにもかかわらず、父や叔母を失望させまいと婚約までしてしまうのだ。

(京都旅行の最後の夜。この後、紀子は父に真情を告白するが)

だが、結婚前の、父との京都旅行の最後の夜に「やっぱり、まだ私はお父さんとこうしていたい。こうして二人で暮らしているのが、一番幸せなの。結婚したからといって、これ以上に幸せになれるとは、とうてい思えない。だから、結婚はしたくない」と、ついにその真情を、涙を湛えた父に告白するのだが、その父から「そういうわけにはいかん」と言われると、紀子は「でも、私が家を出てしまえば、お父さんは身の回りのことさえ困るでしょう」と訴えると、周吉は「それは何とでもなる」と答えた後、それをやってくれる人ができる予定があると打ち明ける。
で、紀子は、それがうすうす知っていた父の再婚話のことだと思い、そうなのかと聞き返すと、周吉は「そうだ」と認め、だからお前は後顧の憂いなく嫁に出ていいのだと言うのであった。

このやりとりの「伏線」としては、まだ紀子に見合いの話が出る以前、周吉の友人で、紀子から「おじさん」と呼ばれている小野寺の「再婚」を知って、紀子が笑って冗談めかしながらも、小野寺に向かって「不潔よ」「穢らわしいわ」と、かなり直裁に否定的な言葉をぶつけている点だ。
好人物の小野寺は、紀子のそんな言葉を「若い娘らしい潔癖さ」であると好意的に受け止めて、笑って受け流していたのだが、どうやらこの言葉は、紀子の「本音」そのものであったようなのだ。

つまり、紀子からすれば、愛する父が再婚するなんてことは、本来、考えられなかったことだし、認められないことだったのだ。「父は、そんな不潔なことする人ではない」という気持ちがあったのである。
ところが、紀子の見合い話と時を同じくして、父の再婚話が持ち上がっているのを知り、紀子はその再婚相手と目されている女性に対し、嫉妬にも似た憎悪の感情のこもった視線を向けないではいられなかったのだ。

(父との能見物の席で、父の再婚相手とされる女性を見つけた紀子は、ニッコリと挨拶した後で、あらためて鋭い視線を向ける)

したがって、紀子の理想としては、父は再婚なんていう「不潔なこと」はするわけないし、だとすれば、自分がついていないと父が困るだろう。それに自分は、そんな父が好きなのだから、無理して結婚する気などないと、そんな考えだったのである。

ところが、周吉は、紀子の幸せを思って「結婚しろ」と言うし、紀子が「でも、お父さんが困るでしょう?」と言うと、「再婚するから大丈夫だ」と、におわせる。
そして最後は、紀子が「お父さんが再婚してもいいから、これまでどおりに一緒に暮らさせて。私はよそには行きたくない」と訴えても、周吉はそれは間違っていると娘を説得し、ついに紀子も諦めて、嫁に行くことを承諾するのである。

さて、ここまで読んでくれた人なら、紀子の「ファザコン」ぶりが、いささか度を超したものだと感じられるのではないだろうか?
紀子は、異性に「恋」をしたことがないのだろうか? 結婚や新婚家庭に憧れたことがないというのであろうか、と。

小津安二郎の作品では、先に紹介したとおりで、本作の後、こうした「父娘関係」が頻々と描かれるのだが、本作の場合は特に、娘の父親への執着が、常軌を逸すると感じられるほどに強く、ほとんど「異様」な印象さえ与えるものになっている(アリバイ的に、父・周吉の助手である服部との爽やかな交友と、その服部の結婚が描かれているとしてもだ)。

(父の助手・服部とのサイクリングシーン)

これも、よく指摘されることだが、小津の描く「家庭」は、誰かが欠損しているがゆえに、遺された家族の絆が並外れて強いことが多いのだが、そのパターンの主要なかたちが、この「父娘」関係なのだ。
だがまた、そんな「父娘」関係の中でも、本作『晩春』の場合は、娘の父親に対する「執着」が並外れていて、ほとんど「精神的な近親相姦願望」的なエロティックささえ漂わせている。

無論、小津作品における「原節子」は、「純潔」の象徴みたいな存在だから、「近親相姦」などという生々しいものとは無縁なものとして理解されているのだが、問題は、その「心理」面であって、「肉体」の問題ではないのである。

(「純潔の女神」のごとき原節子)

したがって、娘・紀子の、ここまでの「父への執着」を描くのであれば、普通は「その理由」を、なんらかのかたちで説明するというのが、作劇上の常道であろう。
「こうした理由があるから、紀子は、ここまで父に執着する、ファザコン娘になったのだ」という説明である。

例えば、「不在の母親」が、「じつはひどい女で、妻らしい妻ではなく、周吉と幼い自分を苦しめたから、母が若くして死んだ(あるいは去っていった)後には、自分が父の妻代わりになるのだと思って育った」とか、逆に「母は、体の弱い女で、妻らしいことを何もできないまま、紀子の幼い頃に死んだのだが、その母が亡くなる前に、紀子に、お父さんのことを頼むわねと言い遺して死んだ」のだとか、そんなふうな「理由づけ」をするのが、普通なのではないだろうか。

ところが、本作においては、そういう「理由づけ」は、まったくなされておらず、紀子はひたすら「父に執着する娘」として描かれているために、それを「小津安二郎のいつものパターン」だと安易に流したりしない者は、当たり前に「異様」な印象を受けるのである。

で、私は、この「異様さ」が、どこから来るものなのだろうかと考えた時に、紀子の小野寺に対する「不潔だわ」「穢らわしい」という、原節子には不似合いなほどの「強い言葉」に、その秘密が隠されているのではないかと考えた。
つまり、説明されない紀子の「潔癖症」こそ、小津安二郎から直接的に出てきた性質であり、だからこそ小津は、説明の必要性を感じなかったのではないかと、そうあたりをつけたのである。

そして、そう考えてみると、『東京物語』のレビューで論じた、小津の特徴的な画面作りにも、その「潔癖症」が表れているように思える。すなわち、

『特に特徴的だと気づいたのは、屋内の描写において、「奥行き」を強調した一点透視図的な絵作りであり、しかもそれが「縦と横」の線がカッチリと直角に交わる「多層的なもの」として、厳格な美意識に基づいて構成されている点だ。』

(『東京物語』より)

つまり小津安二郎という人は、「几帳面」であり「徹底した形式主義者(スタイリスト)」であり、「他者性」や「外部性」あるいは「不規則さ」といったものを徹底して拒絶するという意味においての、「潔癖症」なのではないかと、そう気づいたのだ。

そして、そうした観点から、「Wikipedia」を確認してみると、次のような評論家的佐藤忠男の言葉と、小津自身の言葉を見つけることができた。

『佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている。』

『性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。』

(小津安二郎、岩崎昶、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」・『キネマ旬報』1958年8月下旬号)より)

『きらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。』一一「不潔なものは嫌いなんだ。そして、嫌いなものは嫌いなのだ。仕方がないだろう」というのは、一応ごもっともではあるのだが、しかし「嫌い」だからといって「無視」していれば良いというものではない。それでは単なる「現実逃避」でしかないからだ。

「嫌い」には「嫌い」なりの理由があり、そこが「弱点」になっている可能性もあるのだから、その「嫌い」を直視して、その理由を検討した上で、修正すべきところは修正し、諦めて受け入れるところは受け入れるべきなのだ。

だが、小津安二郎のこうした言葉には、そうした「知的検討」すら拒絶するかのような、「頑な」なところが感じられ、こうした態度は、本作『晩春』の紀子の態度に、真っ直ぐに繋がっているように見える。
つまり、「なぜそこまで父親に執着するのか?」という「当然の疑問」に対し、それを具体的あるいは論理的に「説明」をするのではなく、「だって、好きなものは好きなんだから、仕方がないじゃない」としか答えないような態度だ。

これは、小津自身にとっては「ごく当たり前のこと(態度)」なのかもしれないが、当たり前の「他人」からすれば「異様な(おとな気ない)」態度にしか映らないのだ。

しかし、もちろん小津とて、自身のこうした「偏り」や「弱点」に、無自覚であったわけではない。
というのも「Wikipedia」にもあるとおり、小津が上の座談会で、あのような発言をしたのは、「1958年」であり、その前年に発表された作品『東京暮色』は、小津安二郎らしからぬ「戦後風俗のリアリズム(若者たちの理由なき反抗)」描写に挑戦した作品であったのだが、その結果があまり好ましいものではなかったのである。

『本作(※ 『東京暮色』)は戦後の小津作品の中でも際立って暗い作品である。内容の暗さもさることながら、実際に暗い夜の場面も多く、明子役の有馬稲子は全編を通じて笑顔がない。このような内容に、共同脚本の野田高梧は本作に対して終始批判的であり、脚本執筆でもしばしば小津と対立、完成作品に対しても否定的だったとされる。小津当人は自信を持って送り出した作品だったが、同年のキネマ旬報日本映画ランキングで19位であったことからわかるように一般的には「失敗作」とみなされ小津は自嘲気味に「何たって19位の監督だからね」と語っていたという』

(Wikipedia「東京暮色」

(『東京暮色』の主人公)

つまり、小津安二郎が現役作家であった当時の、同時代の評論家の中には、当然のことながら、小津の作風を「ワンパターン」だと否定的に評価する者も少くなかった。
今のように誰もが「小津安二郎は、あれでいいのだ」とは、当然のことながら言わなかったし、小津自身も、当然、自分の好きなパターンがあるとは言え、「俺だって、やればできる」という気持ちがあったからこそ、共同脚本家の反対を押し切ってでも『東京暮色』を撮ったし、それに自信を持ってもいたのだろう。
ところが、その結果は惨憺たるものであった。だから、小津は、そこで挫折して「自分は自分の好きなものをやれば良いし、それでこそ良い作品が撮れるのだ」と、そう結論したのではなかっただろうか。

小津安二郎が「ワンパターン」の作家になったというのは、「やれないことは出来ない」という意味では仕方のないことだし、結果としては、それで良かったのであろうと、私も思う。
しかし、小津がそういう「ワンパターンの作家」でしかあり得なかった理由は、小津の中の「潔癖症」ということがまずあり、汚れた「現実」と対峙して、あっさりと挫折してしまう「弱さ」にあったということも、認めざるを得ないのではないか。
小津安二郎という作家は、その「能力」以前に、「現実と格闘し続ける」という胆力を持たなかった作家であり、よく言えば「繊細な人」だったからこそ、「理想的な人間や家族」を中心に描かざるを得なかったのではないだろうか。

だからこそ、笠智衆の演ずる「父」のような「欲のない清廉な人間」、原節子の演ずるのような「父親思いの孝行娘」が、そうではない「俗っぽい人たち」によって、多少は振り回されながらも、その人生を淡々と生きていく、という物語になるし、そうなるしかなかったのではないだろうか。

つまり、小津安二郎映画の典型的なパターンが「父と娘の物語」であり、「娘を嫁にやるところで終わる」というのは、「父と娘」が「理想的な人物」として描かれるのと同時に、「仕方なく嫁にやる」とか「仕方なく結婚する」というのは、「世間」と闘うことはせず、「世間」と妥協することで、大過なく生きていくという、小津自身の生き方を反映しているのではないだろうか。
小津の中にも「他のことだってできるし、やりたい」という気持ちはあるけれども、それを「世間が受け入れない」というのであれば、「世間に妥協」して、世間の喜ぶような作品を撮るしかないじゃないか、というのが、映画監督・小津安二郎の、最終的な「構え」になってしまったということなのではないだろうか。

小津の作品を観ていると、どう見ても「嫁に行きたくないらしい、父親っ子の娘」が、最後は父の言葉を受け入れて、どこか諦めたような様子で結婚してしまうという、そんな展開に、否定しがたい「違和感」を覚える。
なぜ、もっと自我を主張しないのか。当人は「諦めた」で済むかもしれないが、結婚相手の男の立場はどうなるんだ、と。

「昔は、現実にもこんなものだったのさ」という説明も可能ではあろう。だが、それは「現実」の話であって、「作劇」的には、不十分・不完全という印象を否定できない。

しかしそれも、小津の「美意識と断念」という観点から見れば、納得がいくことなのではあろう。
例えば、私が「物足りない」と感じた『麦秋』なども、そう考えれば、その「もの足りなさ」の出所が明らかになって、その意味では、「仕方がない」と、納得できないこともないのである。

(『麦秋』では、知人のおばさんから持ち込まれた縁談を受け入れるヒロイン)

このように考えてくると、小津作品における「父と娘」というものの正体も、おのずと見えて来よう。
どういうことかと言うと、笠智衆の演ずるところの「欲のない清廉な男」としての「父」も、原節子らが演じたところの「父親思いの孝行娘」も、結局のところ、それらはすべて、小津安二郎自身の「理想」を、そのまま投影した人物なのである。
そして、その「秘密」を解く鍵は、小津が、

『小津監督は生涯独身を通し、私生活では長い間母との二人暮らしでした。』

「小津安二郎の映画音楽 Soundtrack of Ozu」より)

という事実である。
つまり、小津は「(不在の)父親」というものを「理想化」していたのだ。

言い換えれば、「父」とは、笠智衆が象徴するような「俗物性もなければ、性欲もない男(一種の聖人)」としてイメージされ、小津は、そんな「父に愛される子」でありたかったのであろう。

だから『父ありき』の「息子」は非常に「お父さんっ子」であり、下手をすると同性愛的な印象さえ与えかねないものだったのだが、だからこそおのずと、そんな「父の子」は、「娘」という設定にすり替えられていく。「父思いのしっかり娘」なら、少なくとも小津映画が作られた同時代においては「立派な孝行娘」という好意的評価が与えられこそすれ、「ちょっと変だ」などと言われることはなかったからである。

(『父ありき』の、息子と父)

言い換えれば、小津にとっての「父」とは「理想化された父」であるとともに「理想化された自分」でもあったわけで、だからこそ両者は「結婚生活」など考えない「清潔な男」なのだ。
一一そう。だから、じつのところ『晩春』の父・周吉が、娘の紀子に匂わせた「再婚するつもり」だというのは、娘に結婚への踏ん切りをつけさせるための、「一世一代の嘘」だったのである。

そして、言うまでもなく小津は、そんな「理想の男である父」を、脇目もふらずに愛する「娘」でもあったわけだ。
言い換えれば、「愛し合う父と娘」とは、「近親相姦」ではなく、むしろ「自己愛(ナルシシズム)」の形象化だったのである。

だから、小津安二郎の映画は、当然のこととして「ワンパターン」なのだ。「理想の自分」を描くのだから、大きく変わろうはずがなく、むしろ変わってはいけないのである。
言い換えれば、小津にとっては、「他人」や「世間」や「現実」は、さして重要ではなかった。だからこそ、それと「妥協する」ことはあっても、本気で「敵対」したり「格闘したりする」ような相手ではなかったのである。

小津の作品では、「他人」や「世間」や「現実」は、主人公である「父娘」の静かに安定した生活に「干渉」してきて、一定の「妥協」を強いてはくるけれども、それも「他人」の中の「現実世界(世間)」で生きているからには、ある程度は仕方がないことであり、その意味で一定の「妥協」もやむを得ない、という程度のものでしかない。そこでなされるのは、あくまでも「一定の妥協」であって、「父と娘の愛情」を変えるようなものではない。
ましてや、「現実」そのものは、「変革」しようとか、しなければならないなどと思うほどの、愛の対象ではなかった、ということである。そんなもの、どうでも良かったのだ。

「娘」は、「他」に好きな男ができたから、結婚するのではない。家を出ていくのではない。むしろ「娘」は、誰よりも「父」を愛するからこそ、父の命ずるままに、自身の意志を犠牲にしてまで、結婚するし、父のもとを去りさえするのである。
だから、この「父娘の愛情」は、娘が結婚したところで、本質的に変わるものではないし、娘は、自分が結婚することで、世間から父への「娘の人生を台無しにした。犠牲にした」(『秋刀魚の味』の佐久間が該当)という「汚名」を避けることもできるのだ。

(『晩春』より。『麦秋』と同様、嫁入りシーンで膜を閉じる)

つまり、小津安二郎の「父と娘の、娘の結婚に関する物語」とは、言うなれば「殉教の物語」なのである。

「父という(完全無欠の)神」の、その「完全性」を守るために、「娘」はその身を犠牲にする。一一じつは、そういう意味での、「保守的」な物語だったのだ。



(2024年1月19日)

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