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小津安二郎監督 『風の中の牝雞』 : 「批評的深読み」 とは何か。

映画評:小津安二郎監督『風の中の牝雞』1948年・モノクロ作品)

小津安二郎の戦後第2作目となる作品で、「敗戦」が濃厚な影を落としている。
小津の作品としては、一般に「失敗作」とされており、なるほどそうした評価も頷ける作品だ。

どういうところが欠点なのかというと、

(1)小津安二郎らしい「感じの良い作品」ではない
(2)一種の「社会派」なのだが、突っ込みが浅い

といったことだ。

(1)については(2)の「社会派」だからこそで、小津が「暗い作品」を撮ってはならないという道理はない。あくまでも「楽しく見ることのできる作品」を求める人たちに不評なのは仕方ないとしても、「暗い作品」だからダメだという道理はないのである。
したがって、この作品の弱点は、わざわざ「社会派」の「暗い作品」を撮った割には、訴えかけるものが「無い」に等しく、「それはそうだよね」程度のものに終わってしまっている点であろう。

本作のストーリーを簡単にまとめると、次のようになる(詳細は「Wikipedia」参照のこと)。

戦争が終わっても、夫・修一シベリアで抑留されており、いつ帰宅するかわからないまま、女手ひとつで幼い一人息子のを育てている雨宮時子。彼女は、下町の一般住宅の2階に間借りをして、カツカツの生活をしている。そんな中、浩が急病となって入院。どうしてもその費用が必要になった時子は、やむを得ず、一度だけ体を売ることでその費用を稼いだ。その事実を知った時子の親友である井田秋子は「どうして、私に相談してくれなかったのか」と時子を責めるが、時子は「あなたの生活だって苦しいのはよく知っている。それでも相談すれば、あなたはきっと無理をしてでもお金を工面してくれただろう。だからこそ、余計に頼めなかったのだ」と言う。時子はそれくらい、真面目で律儀な人なのである。

(時子と浩)

そうこうするうちに、夫・修一がシベリアから戻ってくる。時子は喜び、息子の浩ははしゃぐ。修一は「自分がいない間に苦労をかけただろうね」と優しく問い、時子は「浩ちゃんが急病になった時は困ったけど、幸い大事には至らなくてよかった」と話したことから「その治療費はどうしたんだい?」という話になり、夫に嘘のつけない時子は、苦しみながらも、ありのままを話してしまい、それで修一も悩み苦しむことになる。
その時の事情を時子から詳しく聞き出した修一は、時子が闇売春した家まで行って、客を装い、そこの女主人に時子のことをそれとなく尋ねたり、女を呼んでもらって、その若い女性に「どうして、こんな商売をしているの?」などと問いただした上で、女を抱くことなく、金を払って店を出て行く。その女が言うには「家族を養うためには、これしかなかったのだ」ということであり、「もう私は当たり前の職業には就けない、後ろ指を刺される人間になってしまったのだ」と。修一は、そんな女を哀れに思い、「そんなことはない。僕がきっと君の仕事を見つけてやる」と約束し、その約束を果たす。

(時子が体を売った店を訪ねる修一)

つまり、修一自身、時子の売春がやむを得なかったのだと、頭では理解しており、許してもいるのだが、しかし、感情がどうしてもそうした理解を受け入れず、家に帰って時子の顔を見ると、気が塞いでしまい、時子を避けることになる。時子は、帰宅してもすぐにまた外出しようとする夫に、ついに我慢がしきれず「お願いだから、出て行かないで。家にいて」と泣いて懇願し、2階の部屋から出ていこうとする夫の前に立ち塞がったため、修一は時子を振り払い、その結果、時子は階段を真っ逆様に落ちてしまう。
階段下の廊下で倒れている時子の哀れな姿を見て修一は愕然とし、やっとのことで「大丈夫か」と声をかけるが、時子は健気にも必死で一人で立ち上がり、「大丈夫です」と階段を一人で上がってくる。その姿を見て、修一は自分の弱さを反省して、二人でやり直そうと、時子と誓い合うのであった。

(再起を誓う二人)

一一と、おおむねこんなお話である。

要は「戦争にまつわる家庭の悲劇」を描いた、いささか暗くはあるものの、ハッピーエンドのお話である。

見てのとおりで、時子の気持ちもわからないではないし、修一の気持ちもわからないではない。だから、このハッピーエンドも「よかったよかった。それしかないよね」となるのだが、言ってしまえば「それまでの話」でしかない。
映画を見て、そのテーマや主張に、感動したり共感したりするのは良いことだが、ただ「それはそのとおりだよね」というだけでは、つまらない。なぜなら「そんなことなら、言われなくったってわかっていること」に過ぎないからだ。

だから、本作『風の中の牝雞』は、いわゆる「悪い作品」ではなけれど「良い作品」でもない、という点において「失敗作」なのだ。
言っていることは「間違いではない」けれど、言うなれば「当たり前のことしか言っていない」ので、わざわざ90分の映画で見せられるようなことじゃない、ということになったのである。

 ○ ○ ○

したがって、この作品は、当たり前に筋を追って見るだけならば、単純に「凡作」である。
しかしながら、小津安二郎ファンの評論家であれば、そういう表面的なものではなく、その奥に、小津の込めた「深い意味」を読み取ろうとする。

「Wikipedia」に紹介されているとおりで、例えば、映画評論家の佐藤忠男は、

『「敗戦によって日本人が失ったもの」を描き出している作品と捉え、その失われたものとは「たんに一人の主婦の肉体的な貞操だけでなく、すべての日本人の精神的な純潔性そのもの」であるとし、若い娼婦が隅田川沿いの空き地で弁当を食べるシーンを引いて「敗戦で日本人は娼婦のごときものとなった、しかしそれでも、空き地で弁当を食べる素朴さは保持しようではないか」というのが本作に込められたメッセージであると述べている。』

『登場人物の造形に関しては、夫が妻を突き飛ばした後に後悔を見せるところに、日中戦争に従軍した小津自身の兵士としての罪の意識が反映されているのではないかと佐藤は考察している。』

昭和天皇による玉音放送「終戦の詔勅」を聞いて、泣き伏す女性たち)

アメリカの作家・批評家であるジョーン・メレンは、

『夫婦の子どもの名前がヒロ(浩)であることを挙げ「この名前が天皇(※ 昭和天皇・裕仁)から取られたのは偶然ではない」とした上で「彼女は日本人の生活のすぐれた点を守るために身を売ったのである。(中略)小津は日本人に向かって、すぐれた点、つまり占領によって汚されることのないと彼が信じる日本人の生活の貴重なものを守るために、新しい社会を受け入れるべきだと語っている」と書いている。』

映画監督の黒沢清は、

『子どもが全快する作劇や夫が妻を突き飛ばした後の夫の対応に不自然さを認め、子どもは実は亡くなっているのではないか、夫もそもそも戦死していて、劇中に登場する夫は亡霊なのではないかと分析したうえで、階段から妻が転がり落ちることで家族全員が死ぬという「気味の悪い映画」であると結論づけている。』

といった具合で、それぞれに「面白い深読み」であり、それぞれに「間違いではない」と思う。
批評の面白さとは、まさのこういうところにあるのだというのを、よく示していると言えるだろう。

ただし、これは「そういうふうに読むこともできる」という話でしかないから、これらの解釈を持って、作品そのものの評価をただちに高めることができると考えるのなら、それは間違いであろう。

例えば、修一が時子を階段から突き落とすというのが「何を象徴しているのか」というのは、色々と考えることができる。例えば、フロイト心理学風に、あるいはユング心理学風に、とかいった具合である。

(小津作品では唯一スタントを使った、衝撃の階段落ちシーン)

これは、人間の「心理」というのは、「現象面だけではない」と考えれば、いくらでも「隠された部分」を解釈的に読み取ることが可能だということであり、それは原理的に「無限定」なのだ。
例えば、修一は「売春した時子に裏切りを感じて許せなかった」というのが最も「表面的な読み」であるけれども、「修一はその時、潔癖な時子が、修一にも潔癖であることを求めているはずだから、時子は修一が時子の売春を責めることを無意識に期待しているはずだと無意識に察知して、その期待に応えるべく、時子を責めたのだ」とかいった「捻った解釈」も可能であるし、間違いでもない。
さらにここから発展させて、「要は、二人の不和は、結局のところ、許すための、無意識的な出来レースの儀式だったのであり、本作は、日本の敗戦についての戦争責任を無かったことにするための禊ぎを、象徴的に描いたものである」なんて理屈も、立てられないこともないのだ。

つまり、笠井潔がかつて言ったように『理屈なら、何とでもつけられる』というのが、この種の「過剰解釈」ウンベルト・エーコ)なのだから、それを「一種のフィクション」として楽しむ分にはかまわないのだが、それをあまり真面目に受け取って信じてしまい「だからこそこの作品は、実は傑作なのだ」などと言い出すことになると、それはもう完全な間違い。そうなると、それは「信仰・信心」に類いになってしまうのだ。

だから、私たちは「批評」における「深読み」を、「秘められた可能性」を読み解くものとして尊重しつつも、それは「可能性」であって「事実そのもの」ではないという「リアリズム」も併せ持つ、「バランス感覚」を持たなければならない。

物事を「表面」的にしか見られないというのは、単純に「浅薄」であり「動物並み」なのだが、しかし、だからといって「秘められた部分にこそ、本質がある」という「本質論」は、しばしば、「信仰」という人間独特の「錯誤」でもあるのだという事実に、よくよく注意すべきであろう。

したがって、私たちが心がけることは、物事の理解というのは、「表面(現象面)だけ」でも「本質だけ」でもダメだ、ということである。両方を広く見据えた上で、その落とし所を正しく判断できる「知性」こそが、本物の知性なのだ。

偏りなく、振り幅の広い「観察眼」があってこそ、初めて「バランスの良い、物の見方」も可能なのである。



(2024年2月27日)

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