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小津安二郎監督 『父ありき』 : 静かな 「反戦映画」

映画評:小津安二郎監督『父ありき』(1942年)


本作について語るべきことは、もはやほとんどない。

「反戦映画」だというのは、「映画.com」に投稿された、レビュアー「あき240」氏の見解であって、私はそのレビュー「戦時中でありながら、密やかな反戦映画だったと思います」に、完全に同意した、というだけのことである。

したがって、まずは「あき240」氏のレビューを、是非とも読んでいただきたい。

昨夜、本作『父ありき』を観ていて、そこに描かれる風俗が「戦前」風なものに思えたし、画像はまだしも音声がかなり悪かったので、チラと「これはかなり古い作品だな。いつごろ撮られたものだろう?」とは思ったものの、さして気にすることもなく、本編を鑑賞し終えた。

本作の内容は、次のようなものである。

『妻に先立たれ、男手一つで息子を育ててきた金沢の教師・堀川は、修学旅行の事故の責任をとり辞表を出す。息子を連れて故郷の長野県に戻った堀川は村役場で働くことになる。息子の良平は中学に進み寄宿舎に入り、堀川は単身上京してもう一働きして良平を進学させてやりたいと話す。その後、良平は仙台の帝大に進み秋田の学校で教職につく。父は、金沢時代の同僚だった平田の娘を貰ってはどうかと良平に聞く。良平は照れながらも任せると言うが、数日後、堀川は急に倒れあっけなく息を引き取った。そして、良平とふみは秋田県へ向かうのだった。』

Wikipedia「父ありき」の「あらすじ」より)

この作品は「息子の、父に対する愛を描いた作品」だと言えば、それで十分だろう。
不思議なほどに、何の曲のない、そのまんまの映画なのだが、それでいて、しみじみとした情感のある作品となっているのは、さすがは小津だ、という印象であった。

私は、小津安二郎作品については、本作が『東京物語』に続く2作目であったが、画面作りのスタイリッシュさは、明らかに後年の作品である『東京物語』と同様である。この人の「絵作り」は、かなり初期から完成したものだった、ということなのであろう。

そんな隙のない「絵作り」や、リアルな「芝居のつけ方」については、『東京物語』のレビューに、おおよそのことは書いたので、ここではもっぱら、「中身」の話を書きたいと思った。一一だが、その「中身」の部分で、前述のとおり、「あき240」氏が素晴らしいレビューを書いておられたので、私が付け加えることなど、ほとんどなくなってしまったのだ。

しかしながら、「あき240」氏のレビューを紹介するだけでも、私のこのレビューには意味があると思うので、こうして、屋上屋根を架す「蛇足」を加えているという次第である。

前記のとおり、私は、「あき240」氏のレビューを読むまで、本作が「戦時中の作品」だとは知らなかった。

とにかく、「父」役の笠智衆が若くて、初めは笠智衆だと気づかなかったくらいなのだから、これは、彼がすでに「お爺さん」役だった『東京物語』と比べて、明らかに「古い」作品だというのは明らかだった、
また、修学旅行に出かけた高校生たちが、行進しながら歩くといったシーンなどもあって、戦前戦中の時代を描いた作品なのではないかとは思ったのだが、作中では、「戦争」への言及や、それを直接示唆するような描写はなかったので、私は、まさか「戦中の作品」だとは思わなかったのである。

したがって、私が考えたのは、小津安二郎がこの作品で描こうとしたのは「古き良き日本の父親」像であり、それをリアルに描くには「戦前」を舞台にした方が良いと考え、「戦後になってから、戦前を描いた」のが、この作品だったのだろう、ということだったのだ。

映画に詳しい方なら、フィルムの状態などからして「この映画を見て、戦後の作品ということはないだろう」とお思いになるかもしれない。
しかし、私は「年間読書人」というハンドルネームにも明らかなとおりで、読書中心に生きてきた人間で、映画を積極的に見始めたのは、定年に達した昨年からの話でしかない。

もともと好きだった「アニメ」についてなら、かなり専門的に視てきたし、一家言あるつもりではあるのだが、実写の劇映画については、新作の娯楽映画をたまに観る程度で、わざわざ昔のモノクロ映画をDVDで見ようなどと思うほどの、映画へのこだわりはなかった。
だから、モノクロ映画を観て、すぐに制作年代特定のできるような人間でもなかったのである。

そんなわけで、私は「あき240」氏のレビューを読むまで、本作が、実は「反戦映画」であった、というような発想は、皆無だった。
前記のとおり、「美しい日本人」としての「父親像」を描いた作品だと、描かれたことをそのまんま受け取っていたのだが、「あき240」氏のレビューを読んで、この作品に「隠されていた主題」を知らされ、少々悔しい気にはなったものの、深く同意させられたのである。

(物静かな青年に成長した息子・良平を、佐野周二が演じている)

前述のとおり、私は、映画史などについては、今のところまったく無知だし、小津安二郎についても「昔の人」だが「戦後の人」(もちろん間違い)という程度の印象しか持っていなかった。
そもそも私は、基本的には「作品至上主義」者なので、監督(やスタッフなど)について詳しく知ろうとは、あまり考えない方なのだ。そうした情報によって、作品を「色眼鏡」で見てしまうことを良しとしなかったのである。

無論、作品を鑑賞した後、レビューを書く段では、ひととおりの情報を確認したりもするが、それはあくまでも「参考情報」であって、それで「作品がわかる」というものではない、というのが大前提だったのである。

だが、「あき240」氏のレビューは、そうした大前提の範疇に収まらない、決定的なものであった。
「あき240」氏の見解を避けて、私独自の面白いレビューなど書けそうにはないと思ったので、このような文章を書いているのである。

しかし、私が、本作『父ありき』について、独自の感想を書けなくても、ひとまず「あき240」氏のレビュー自体が「優れた作品」となっているのだから、これを紹介すること自体に意義があろうし、『父ありき』という佳作を知ってもらうためにも、あるいは、その再評価をうながすためにも、これは必要であり、良いことなのではないかと考えた。

「あき240」氏のレビューを読んでも窺えるとおり、本作『父ありき』を、明確に「反戦映画」として論じたレビュー(批評論文)というのは、まだまだ少ないのだろう。
すくなくとも「あき240」氏自身は、そうした見解に接しないまま、独自の読解として、あのレビューを書かれたのであろうことは、その真摯な文体にも明らかであろうと思うから、仮に『父ありき』を「反戦映画」とした論じた先行文書があったとしても、「あき240」氏のレビューが、それで意味を失うことはないと、私は考える。

もちろん、「前例を見ない的確な読み」というのは、それだけで素晴らしい価値をもつものだというのは、いまさら喋々するまでもない事実だろう。だが、だからと言って「先に書いた者が勝ち」だといったような、ケチな話でないことも確かなのだ。
同じことを書いたって、その書き手によって、文章の、一一例えば「品格」は違ってくるし、そうした点で、その文章の持つ価値も、おのずと違ってくるのである。

本作『父ありき』は、決して「個性的」な父親を描いたものではない。
たしかに、現実には、なかなかお目にかかれない「立派な父親」なのだが、それを「昔の理想的な父親像」だなどと言って片づけられるほど、単純な話でもないだろう。

私たちは本作に描かれる「不器用なまでに真面目で、しかし本質的には優しい父親」という「理想像」を前にして、自分の「生き方」が問われている、と考えるべきではないだろうか。

言い換えれば、「目新しさ」や「独自性」といった「わかりやすい価値」に走りがちな私たちは、「地味」でも、「目新しさ」など無くても、それでも「不器用なまでに真面目に」大切なことを語ることの「美しさ」を、本作『父ありき』や「あき240」氏のレビューに学ぶべきではないだろうか。

本作は「反戦映画」である。
ただしこれは、戦後になってから「声高に反戦を語った映画」ではなく、「戦中に、静かに反戦を語った映画」なのだ。

私たちは、「時流」に阿ることも、それに巻き込まれることなく、淡々と自らの信じる「美しい生き方」を貫き、そして満足して死んでいった、本作『父ありき』に描かれた「父」の姿に学び、それが失われたことを嘆くのではなく、その生き方を、個々に引き継ぐべきなのではないだろうか。

そうであってこそ、ひとりの「美しい日本人」であり得ると、私はかように思うのである。


(2023年8月17日)

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