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小津安二郎監督 『お茶漬けの味』 : 小津的「理想の男性像」

映画評:小津安二郎監督『お茶漬けの味』1952年・モノクロ映画)

本作『お茶漬けの味』は、小津の「中国戦線」からの帰還後第1作として、戦中に企画されながら、それが挫折した結果、約20年後、「戦後」になってから、「設定」を同時代用に大きく書き換えて作った作品である。

『1939年7月、小津は日中戦争から帰還したが、同年から検閲の「映画法」が制定された。そのため帰還第1作として撮る予定だった『お茶漬の味』を取りやめ、作ったのがこのオールスターを揃えた大家族ドラマ(※『戸田家の兄妹』)である。』
(Wikipedia「戸田家の兄妹」より)

『小津によれば、初めに考えたタイトルは『彼氏南京へ行く』で、内容は「有閑マダム連がいて、亭主をほったからしにして遊びまわっている。この連中が旅行に行くと、その中の一人の旦那が応召されるという電報が来る。さすがに驚いて家に帰ると亭主は何事もないようにグウグウ寝ていて、有閑マダムは初めて男の頼もしさを知るという筋」だったという。この内容が内務省による事前検閲をパスしなかったため、映画化を断念したものだった。』
(Wikipedia「お茶漬けの味」より)

こうした経緯については、『戸田家の兄妹』(1941年)のレビューにも書いたとおりだが、本作『お茶漬けの味』が、いささか「物足りない作品」になってしまったのも、このようにして一度「時期を逸した」せいでもあろう。

ともあれ、まずは本作『お茶漬けの味』「あらすじ」を、2つ紹介しておこう。

(1)妙子が佐竹茂吉と結婚してからもう七、八年になる。信州の田舎出身の茂吉と上流階級の洗練された雰囲気で育った妙子は、初めから生活態度や趣味の点でぴったりしないまま(※ 見合い結婚して)今日に至り、そうした生活の所在なさがそろそろ耐えられなくなっていた。妙子は学校時代の友達、雨宮アヤや黒田高子、長兄の娘節子などと、茂吉に内緒で修善寺などへ出かけて遊ぶことで、何となく鬱憤を晴らしていた。茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」(※ 安価な煙草の銘柄。妙子も喫煙はする)を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。

たまたま節子が見合いの席から逃げ出したことを妙子が叱った時、無理に結婚させても自分たちのような夫婦がもう一組できるだけだ、と言った茂吉の言葉が、大いに妙子の心を傷つけた。それ以来二人は口も利かず、そのあげく妙子は神戸の同窓生の所へ遊びに行ってしまった。その留守に茂吉は飛行機の都合で急に海外出張が決まり、(※ 「要件あり、至急戻れ」と)電報を打っても妙子が帰ってこないまま、知人に送られて発ってしまった。その後で妙子は家に帰ってきたが、茂吉のいない家が彼女には初めて虚しく思われた。

しかしその夜更け、思いがけなく茂吉が帰ってきた。飛行機が故障で途中から引き返し、出発が翌朝に延びたというのであった。夜更けた台所で、二人はお茶漬を食べた。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。』

「映画.com」・「お茶漬けの味」

(2)『丸の内の会社で機械部の部長として働く佐竹茂吉佐分利信)は質素で穏やかな生活を好む。一方、妻の妙子木暮実千代)は裕福な家庭に育ち、地味な夫への不満を募らせている。学生時代の友人たちである雨宮アヤ(淡島千景)や黒田高子(上原葉子)、姪の山内節子(津島恵子)と共に、夫には内緒で温泉旅行に出かけたり野球を見に行ったりと遊び歩いて憂さをはらしているが、鷹揚な茂吉はそんな妻を詮索することもない。

ある日、節子が歌舞伎座での見合いの席から逃げ出して茂吉のもとを訪れる。茂吉は彼女を帰そうとするが節子は茂吉につきまとい、結局競輪場やパチンコ屋で半日を共にすることになる。見合いにつきそっていて恥をかいた妙子はそのことを知って腹を立て、茂吉と口をきかなくなったあげく黙って神戸の友人のもとへ出かけてしまう。

一方の茂吉は急にウルグアイでの海外勤務が決まり、妻に電報を打つが妙子は帰ってこない。羽田から茂吉が発った後、ようやく帰宅した妙子に対してさすがの友人たちも厳しい態度をとるが妙子は聞く耳を持たない。
ところがその夜遅く、唐突に茂吉が帰ってくる、飛行機がエンジントラブルで羽田に戻ったのであった。お茶漬けが食べたいと言う茂吉。二人は寝ている女中を起こさぬよう気遣いながら台所でお櫃や漬け物などを調え、部屋に戻ると向き合ってお茶漬けを食べながらお互いに心のうちを吐露する。夫婦とはお茶漬のようなものなのだと妙子を諭す茂吉。妙子は初めて夫の心の広さ、結婚生活のすばらしさを感じて、夫を心から愛するようになるのだった。』

(Wikipedia「お茶漬けの味」

(修繕寺の温泉宿から、アリバイづくりにための電話をする妙子)
(見合いをすっぽかした節子に「厳しく言ってやってください」と妙子に言われ、いちおう「それは良くないよ」と注意を与える茂吉)
(見合いをすっぽかした節子が、茂吉らと一緒にいたと知った妙子から責められる茂吉。いちおう経緯の説明するが、耳を貸してもらえない)

なぜ、「あらすじ」を2種類挙げたのかは、おおよそのところは、お察しいただけよう。
「不和夫婦の和解もの」とでも呼ぶべき本作において、この2種の「あらすじ紹介文」は、それぞれの視点が異なっており、読む者に与える印象が、大きく違っているのだ。

単純化して言うと、前者の(1)は「妻の視点」に立ってストーリーを要約したものであり、後者の(2)は「夫の視点」に立ってと言うか、「夫に同情的な立場」に立ってまとめられた文章だと言えるだろう。
だから、ハッキリと印象が違う。

(1)の「妻の視点」とは、

『茂吉はそんな妻の遊びにも一向に無関心な顔をして、相変わらず妙子の嫌いな「朝日」を吸い、三等車に乗り、ご飯にお汁をかけて食べるような習慣を改めようとはしなかった。』

の部分で、要は、夫は「妻に無関心」で「妻の嫌がることを、(故意に)改めようとはしなかった」のであり、妻が、そんな夫に腹を立てるのも無理からぬところだろう、というような書き方である。

(夫への苛立ちと怒りを募らせる妙子)

一方、(2)の方では、上のような「夫の難点」には触れず、

『(※ 妻の妙子は)夫には内緒で温泉旅行に出かけたり野球を見に行ったりと遊び歩いて憂さをはらしているが、鷹揚な茂吉はそんな妻を詮索することもない。』

と書いて、要は、夫の妻に対する態度は、「無関心」なのではなく『鷹揚』であり、だから妻が遊び歩いていることについて、知っていても口出ししなかったのだ、という説明をしている。

したがって、作品を見ずに、こうした「あらすじ」の、どちらか一方だけを読めば、本作に対し、確実に誤った印象を持つことになるだろう。
(1)だけなら「愛のない夫に対する妻の反発と、その後の和解の物語」という印象を受けるし、(2)だけなら「わがままな妻が、不意の夫の不在を経験することで、夫のありがたさを知って、夫と和解する物語」ということになる。

で、どちらが、より正確な「要約」かと言えば、全体としては(2)の方だと思うし、それは、小津監督が本作の「狙い」を語った、次の言葉にも端的に表れている。

『小津は後に「ぼくは女の眼から見た男、顔形がどうだとか、趣味がいいとか言う以外に、男には男の良さがあるということを出したかった。しかしあまり出来のいい作品ではなかった。」と振り返っている。』

(Wikipedia「お茶漬けの味」

つまり、小津は「地味で寡黙だが寛容な男」の魅力を描きたかったのだろうし、それは、そうした「男の魅力」が、現実には、女性からの評価を得ていないという意識(不満)があったからであろう。だからこそ最後は「妻が、夫の魅力を知って(心の中で謝罪するかたちで)和解する」という話になっているのだ。

(最後に、夫の優しさに気づいて、涙を浮かべて反省する妙子)

だが、無論、こうした「見方」は、「男性目線」のものでしかない。
当然、女性には女性なりの、要は「女性目線」の「言い分」、つまり「夫論」があるはずで、小津が考えたような「男の魅力」を、女性があまり高く評価しないのは、それなりの理由があるのかも知れないし、そもそも、小津が考えるような「男の魅力」など、所詮は「男のナルシシズムであり独りよがり」であって、客観的に存在するものではない、とさえ見られているのかも知れない。

要は、この映画の物語は、「夫は誤解されている」という前提に立ってのもので、「誤解しているのは妻」であり、平たく言うと「不和の原因は、妻の方にある」と言っているも同然のものなのだ。
そして、妻のそうした「夫への誤解」の原因は、妻の「鼻持ちならない上流意識」ということになってしまっている。「そんなお安いプライドばかり高く持していても、くだらないよ」という考え方が、本作の基調を成しているのである。

また、だからこそ(1)の「あらすじ紹介文」は、「妻が夫に不満を持つ、具体的な根拠」として「安タバコ」だとか「ねこまんま」だとかいった具体例を挙げ、妻がそれを嫌がっているのに、夫がそれを改めない「ためだ」というような書き方をしたのであろう。要は「妻を弁護した」のである。

しかし、こうした弁護が、あまり有効ではなく、映画自体を見れば、「やっぱり、妻の方が自分勝手でしょう」となってしまうのは、もともと、そういう立場で本作が撮られているからであり、「夫の具体的な問題点」についても、所詮は「めくじら立てるほどのことではない、些細な問題」を、小津監督が意図的に選んで投入したものだからである。
つまり、本作の中から「妻の立場」を正当化するような「物的証拠」を見つけるというのは、そもそも出来ない相談なのである。

特に、(1)の方で重要なのは、(2)の方では触れていない、次のような夫の発言である。

『たまたま節子が見合いの席から逃げ出したことを妙子が叱った時、無理に結婚させても自分たちのような夫婦がもう一組できるだけだ、と言った茂吉の言葉が、大いに妙子の心を傷つけた。』

これは、夫の茂吉が「われわれ夫婦は、最初から破綻している失敗夫婦であり、失敗した結婚だったのだ」と思っているということを、今更のように、妻の妙子に突きつけた、ということになるのだ。

これは、当然のごとく妻の心を傷つける、いかにも「心ない言葉」である。

というのも、妻が夫に対して、いちいち突っかかるのは、「夫に期待してところがある」からであり、なんとか「仲良く暮らしたいと、どこかで期待している」からなのだし、それは妻の友人が「なんだかんだ言って、貴女は旦那さんが好きなのよ」などと指摘しているところからも窺えよう。

(妙子の学生時代の友人である、雨宮アヤ(淡島千景)と黒田高子(上原葉子))

なのに、そんな彼女の、無自覚ではあれ、秘められた期待や夢を、夫は頭から否定し「すでに諦めていた」のだと、そんな事実を突きつけられれば、妻の方は、自分は独りでいきり立っていた「道化」も同然だったのだと、そう感じて当然なのだ。「あなたは、そんな冷たい、諦め切った目で私を見て、私を見放していたからこそ、何も言わなかったのね」ということにもなるのである。
つまり、これは「夫の寛容」ということでは済まされない言葉であり、妻が傷ついても当然の、残酷な言葉だったと言えるのである。

もちろん、妻の夫に対する要求や突っかかり方は、いかにも「幼稚」であり「感情的」なものだ。いかにも「世間知らずの、わがまま勝手に育ったお嬢さん」のそれであり、いかにも「女らしい非理性的な態度」だと、そう解されても仕方がないものなのだが、問題は、それを、男性である小津監督が、自分の考える「男性の頼もしさ(魅力)」を描こうとして、故意に「妻を幼稚に描いた」という点にある。
だから、本作を「今の女性」が見たならば、この「妻の描き方では、まるで悪役だ」と感じても仕方がない、と言うよりは、そう感じて然るべきものだと言えよう。いわゆる「フェミニスト」ではなくても、この「妻の描き方は、あまりに一方的であり、酷すぎる」と感じるのは、むしろ当然のこと(評価)なのだ。

まあ、小津安二郎監督が「戦前の人だから、仕方がない」と言ってしまえばそれまでで、私自身「こんな夫なら理想的だし、妻の方は幼すぎる」とは思うものの、それは「そのように作られている」のだから、そう思うのも当然のことでしかない。赤く塗ったら赤に見えるし、青く塗ったら青く見えるというだけの話なのだ。
言い換えれば、赤が赤、青が青だからと言うだけで、本作が「夫婦」や「男女」の仲を「見事に描いている」ということにはならないし、その意味で「よくできた作品」ということにもならない。

したがって本作は、「あえて批判するまでもない凡作」なのだが、ただ、こうした事実をわざわざ指摘しなければならないのは、小津安二郎という人を「神格化」したがる「映画オタク」が少なくないからこそなのだ。
「小津さんだって、ひとりの人間だったのであり、際立って聡明だったわけでも、凡作失敗作の無い人でもなかったのですよ」と、わざわざ確認しておく必要があったのである。

(見合いをすっぽかした節子は、その足で茂平らと合流。茂平が先に帰宅した後も、岡田と食事に行く。岡田は、茂平の戦死した友人の弟で、茂平が保証人になっている。岡田を演じるのは、若き鶴田浩二

簡単に言えば本作は、夫婦間の「勧善懲悪の物語」なのだ。
つまり、「夫の苦労を察することもなく、注文ばかり多い悪代官みたいな妻が、夫の不在という不慮の事態によって、初めて自身の誤ちを気づかされて、心の中で、私が悪うございましたと改心する」というお話なのである。

したがって本作は、「悪玉が最後に改心する」という点だけはマシな、『水戸黄門』のような「男性向け痛快娯楽作品」だとも言えるのだが、こんなものでは、男性である私だって、とうてい褒めることはできない。
こんな、相手がた(妻側・女性側)の「失当」が無ければ勝てない、つまり「描けない」ような「男性の魅力」など、所詮は「アンフェア」な「ペテン」でしかないからである。

そんなわけで、小津監督自身が『あまり出来のいい作品ではなかった。』と認めているにも関わらず、「小津信者」のほうは、本作には触れたがらず、そのことで評価を避けているということなのであろうが、そうした態度は卑怯であり、間違いだ。なにより「男らしくない」。

本作における「夫婦の不和」の根本的な問題点は、ごく当たり前のことだが「夫婦間の、腹を割った話し合い」が出来ていなかった点にあるし、その点では、むしろ夫の方にこそ問題があったと言えるだろう。なぜなら、夫の方の「僕さえ我慢すれば」という態度が、妻の「誤解と苛立ち」を亢進させたという側面が否定できないからだ。
それこそ、妻が「言いたいことがあるのなら、言ってください」と言っても、「いや別にないよ」などといった曖昧な態度であり、しかしそれでいてマイペースを崩さない夫に、妻が「私を馬鹿にしているのか」と苛立つのは当然のことだなのだ。
もちろん、言っても理解されないかも知れないが、しかし、言わなければ勘ぐられ、誤解されるというのも当然のことなのである。

「言えば、ぶつかり合いになって、収拾がつかなくなる」という現実も、多々あろう。だが、それは、言うなれば仕方がないことなのだ。
しっかり、本音で話し合って、それでも妥協点が見出せないのなら、それは別れるしかないし、それが正解なのである。なにも、無理をして一緒にいなければならないというわけではないし、納得のない妥協は必ず「遺恨」を残すことになるなら、それは解決ではなく、問題の先送りにしかならないのだ。

本作の場合「妻が改心して、夫の側の価値観の正しさを認め、そちらに転向する」というかたちになっており、それがタイトルの『お茶漬けの味』(質素素朴こそが素晴らしい)という言葉の意味なのだが、別に、必ずしも「お茶漬けの味」だけが正しいわけではない。
ベルサイユ宮殿の味」だって、夫婦が共に納得できるのならそれが正しいのであり、「質素と贅沢」即「善と悪」というわけではなく、単なる「価値観の違い」でしかないのだ。

(ウルグアイへ飛び立ったはずの茂平が、飛行機のエンジントラブルのために深夜帰宅。茂平の求めに応じて、お茶漬けを用意する妙子)

だから、本作の結末は、何も「妻の方が、夫に合わせる」から「正しい結末」だということにはならず、「夫の方が、妻の価値観に(完璧に)合わせる」というものであっても構わないし、「夫婦の価値観の中庸を選ぶ」というものであっても構わない。
しかし本作は、この程度のことすら考慮されていない一方的な「小津美学」の、その問題点を、図らずも露呈するものとなっているのである。

くり返して言うが、これは「フェミニズム」の問題ではなく、「フェアネス(公正さ)」の問題なのだ。
私の「男の美学」からすれば、男は、まず何より「フェア」でなければならない。女性に対して「優しく」ある前に、まず「対等」であることを認め、その上で、主体的に「優しく」するのなら、それは「非凡な美徳」なのだと、そういうことになる。

無論これは、私の「男の美学」であり、私自身、そんな「美学」どおりには生きられないと思うからこそ、結婚もしていないのだが、それは、出来ないことを欲望のままにやるよりは、「出来ないことをやって、他人に(女性に)迷惑をかけるくらいなら、やらない方がマシ」だというのも、私の「美学」なのである。

「いや、相手に多少の無理を強いることができるのも夫婦なればこそであり、お互い様という人間関係の基本だよ」と、そう主張なさる方がいらっしゃるのは重々理解しているし、それが「一面の(現実的な)真理」であるというのも、わかってはいる。

しかしだ、そういう「わかったようなことを言う人」が、お互い様の譲り合いにおいて「絶対に離婚しないのか(いつでも必ず和解できるのか)?」と言えば、無論そうではないというのも現実だ。
つまり現実には、最後は「憎しみあいの泥試合」になることも少なくないわけなのだが、そうなったときに、その人は、事前の「自分の考えの甘さ」を、本当に反省するだろうか?
一一「しないだろう」と、私は思う。反省しないからこそ、「相手が悪い」と言いつのることもできるのである。

しかしまた、うまくいかなければ「離婚すれば良い」というのは、先にも書いたとおりで、私もその選択肢を否定しない。
否定はしないが、ただ夫婦の間に「子供」がいた場合の「子供の悲劇」などに端的に示されるように、いくら双方が納得して離婚したって、完全に元の状態に戻ることはなく、「無かったことにはならない」ということだけは、考えておくべきだろう。
そして、それを考えるからこそ、私は「君子危うきに近寄らず」の「完全主義」を選ぶのだし、それが私の「美学」なのである。

だが、小津安二郎もまた、本作で描かれたような「男性都合の結婚観」をもっていたからこそ、結婚しなかったのではないだろうか。
そしてその意味では、タイプに違いはあれ、自身の理想への「潔癖主義」という点では、私と同じなのかも知れない。

しかしまたそれでも、「私の美学」からすれば、小津の『お茶漬けの味』は、自分の嗜好に「甘すぎる」のである。


 


(2024年7月15日)

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