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映画『バイオハザード』 シリーズ1〜3 : さらば『バイオハザード』

映画評:『バイオハザード』シリーズ1〜3

当レビューでは、主に以下の3作を扱いながら、シリーズ全体についても書きたいと思う。

(1)ポール・W・S・アンダーソン監督『バイオハザード』
(2)アレクサンダー・ウィット『バイオハザードII アポカリプス』
(3)ラッセル・マルケイ監督『バイオハザードIII』

今さら『バイオハザード』なのは、一昨年(2021年)暮れに、リブート版映画『バイオハザード ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』が公開されたのを知って「そういえば、シリーズ2作目までしか観てないなあ。たしか3作目があったはずだから、そろそろカタをつけようか」と、そう思ったからである。

なお、すでにお気づきの方もおられようが、第1作の監督ポール・W・S・アンダーソンが指揮をとったこのシリーズは、実際には、全6作での完結である。
だが、私の場合、その認識が無いくらい、当シリーズに興味を持っていなかったということだ。

第1作、第2作を視たのは、テレビ放送でだった。
私は、「読書」を趣味として優先してきた人間なので、以前は、今ほど映画を観ることはしなかった。
長年、意識的にレンタル会員にはならなかったし、今のようなサブスクを利用する気もない。観るのであれば、劇場まで脚を運ぶか、中古が中心ではあれDVDを購入して観るかに限定していた。つまり、相応の対価を払って観るだけの価値がありそうな作品しか観ないようにしていたのである(DVDをコレクションする気はなかったし、していない)。

同様に、私は「読書」のために「ゲーム」もやらなかったから、当然、ゲーム版の『バイオハザード』もやっていない。
「怪しげな場所をウロウロしながら、突然襲ってくるゾンビを撃ち殺していく」という作りのゲームは、「怪しげな空間」が大好きな私の興味を強く惹いたのだが、ゲームは映画どころではない「時間食い虫」だから、意志して敬遠した。

(ゲーム版の初代『バイオハザード』)

友人の家でだったか、アーケードゲームでだったかは忘れたが、たぶん一度だけゲーム版第1作を弄ったという記憶がある。だが、なにしろゲームをまったくやっていなかったから、キャラクターをまともに歩かせることもままならないままに一瞬で殺されてしまい、ゲームを楽しめるようになる前に、ほんの十数分やっただけで飽きてしまった。
自分が、ゲームソフトを買っていれば、もっと集中してやったのだろうが、言い換えれば、買わなくてよかった、ということだ。

そんなわけで、以下に記すのは、ゲームもやっていなければ、映画版のファンですらない私の、映画版第1作から第3作までの感想である。

ただし、個々の作品については、あえて書きたいほどの感想さえ持てなかったので、本稿の最後は「面白い映画を観るためには、何が必要なのか」と言ったことについて書くつもりである。
そうした点で、若いかたの参考になれば幸いである。

 ○ ○ ○

昔、第1作の『バイオハザード』をテレビで視たときは、かなり良くでできているという印象を受けた。お話はシンプルだが無駄がなく、ビジュアル的にも優れていて、監督の才能を感じさせる作品だと思った。
特に気に入ったのは、舞台の雰囲気で、地下に作られた巨大研究施設「ハイブ」の、SF的にメタリックなデザインの部分と、ホラー映画的におどろおどろしい舞台が、適度のミックスされていて、一粒で二度美味しいという感じにまとまっており、特に違和感はなかった。
これは、言うなれば、『2001年宇宙の旅』と『エイリアン』の舞台の「美味しいとこ取り」をしたという感じだが、それで破綻させなかったところが評価できたのである。
また、クリチャーについても、CGではなく、伝統的な「SFX」によるものだったので、存在感も十分にあり、全体としてオーソドックスな感じ(つまり新味には乏しい)ながら、安心して楽しめた作品だったと言えるだろう。

(左のアリスが映画版主人公。右のジルはゲーム版の主要キャラ)

第2作『バイオハザードII アポカリプス』は、第1作のラストを受けて、すでに「T-ウイルス」のパンデミックによって閉鎖都市になってしまったラクーン・シティーからの脱出劇を描いた作品だが、第1作目とは違って、地下世界の迷宮的な閉塞感がなくなった分、普通の「モンスター・アクション映画」に近づいた感じで、その点が、個人的には物足りなかった。個人的な趣味だが、ホラーは、やっぱり屋内が中心の方が好ましい。
また、本作では、第1作では登場しなかった、ゲームのオリジナルキャラクターが登場して、ゲームファンを喜ばせたのだ(ろう)が、ゲームをやっていない私には、特別な意味を持ち得ず、前作の脇役が死んだ分、新しい脇役がついたという程度のことでしかなかった。
また、肝心のクリーチャーが、所詮は人型の「着ぐるみ」だったので、どんなに強くても、クリーチャーとしての魅力は無いに等しく、その点が大いに物足りなかった。
なお、本作では、前作の監督ポール・W・S・アンダーソンは脚本だけで、監督は新たに立てられていて、全体として見ると、特に悪くはないものの、第1作に比べると、絵作りのシャープさには欠ける印象があった。
また、これは主に脚本の問題だが、どうやらポール・W・S・アンダーソンは「型どおり」のものしか作れないきらいがあり、本作ラストの「お涙頂戴」や「悪役の憎まれ口と非業の最期」など、全体に「定番パターン」の枠内でしか作られていない、という印象が強かった。

(もはやホラー映画のポスターには見えない)

そして、今回初めて観た第3作『バイオハザードIII』だが、なぜ観なかったのかと言えば、予告編を見たかぎりで判断すると、舞台が明るい屋外の砂漠地帯で、なんだかマッドマックスを思わせるところがあり、これが私の趣味ではない、と感じられたからだ。
前述のとおり、私は基本的に「暗い怪しい場所」が好きであり、「明るい場所での痛快アクション」には興味がない。だから、この予告編を見たかぎり、とうてい本編まで観る気にはならなかったのである。
で、今回、本編を観てどうだったかというと、おおよそ予告編で感じたとおりの世界観で、どう観ても『マッドマックス』の影響が濃いとしか思えなかった。
今回も、ポール・W・S・アンダーソンは脚本で、監督もまた新たに立てたが、その脚本がどうにも大味(詰めが甘くて、全体にゆるい)。ツッコミどころが満載であり、どうやらこのあたりにポール・W・S・アンダーソンの限界のあることが見えてきた。
この人は、第2作、第3作の監督に比べれば、スタリッシュな映像に仕上げる能力はあるようなのだが、いかんせん物語作りに「オリジナリティ」というものが決定的に欠けており、優れた先行作品のあれこれを寄せ集めて作っているという印象が否めない。だから、場面場面は、それほど悪くはないのだが、全体としては印象の薄い、いささかまとまりに欠ける作品になっているのである。

そんなわけで、私としては、この3作では、第1作が頭二つ抜けて出来がよく、第2作、第3作とわかりやすく「凡庸化」していった、という印象であった。

 ○ ○ ○

以上、3作パックの中古DVDを購入して観る段階ともなると、さすがの私も、このシリーズにまだ続きのあることには気づいていた。だから、この3作が面白ければ、残りの3作を観てもいいという気持ちもあった。
それに、第4作からシリーズ最終作の第6作には、ポール・W・S・アンダーソンが監督に復帰しているのを、ネット検索で知っていたから、そこにも期待する気持ちはあった。

(左から、4〜6作目)

しかし、シリーズ前半の3作を観終えた段階で、この期待は、少なからず萎んでしまい、しかも念のため、いくつかの映画紹介サイトで、第4作から最終作までの「カスタマーレビュー」を読んでみると、基本的には、散々な結果であった。
特に「どんどん大味になっていく」とか「雑な作り」とか「ツッコミどころ満載」とかいった評価には、うなづけるところがあったため、日頃は「カスタマーレビュー」をあまり信用しない私でも、こんな「娯楽作品」の評価に関してなら、信用してもいい、と思ってしまった。こんな調子では、続編をもう3作観る価値はないと、引導を渡されてしまったのである。

(リブート版)

それでも、まったく別スタッフで作られた、「リブート版」である『バイオハザード ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』については、多少の興味はあった。
この作品は、最もゲーム版の雰囲気再現した作品だと宣伝されていたからで、言うなれば「原点回帰」した作品となっているのであろう。
前述のとおり、私はゲーム版のファンではないけれど、ゲームの「閉所ホラー」的な世界観は好きだったので、もしかするとこちらには期待できるかもと思ったのだが、劇場公開でさほど話題にもならなかった作品らしく、カスタマーレビューでの評価も、やはり散々なものだった。
特に、ゲームファンからは、かなり手厳しい批判を受けていて、これはたぶん、中途半端にゲームの要素を再現した分、寄せきれなかった部分で、逆に反発を食らってしまったのであろう。

だが、そうしたゲームファンらしい反応は差し引いても、映画としてよく出来ていれば、それなりの評価もあったはずなのだが、そういう評価もない。
かえって「ゲームや、前シリーズを意識しないで、B級作品として割り切って観れば、それなりに楽しめる」といった「擁護的な評価」を見ると、どうやらこの作品には、際立った長所がどこにも無いようなので、やはりこの作品も観る価値はない、という結論に達してしまい、ここで私の、映画版『バイハザード』への興味は、完全に決着がつけられてしまったのである。

 ○ ○ ○

最初に書いたとおり、今回『バイオハザード』シリーズを観ようと思ったのは、言うなれば、中途半端に残していた「宿題」を片づけるような気分と、このところ「社会派ノンフィクション」や「アメリカン・ニューシネマ」といった、真面目で重い作品ばかりを観ていたから、気分転換に「わかりやすい娯楽映画」でも観ようと考えたからだ。
だが、結論として気づいたのは、やはり、かつて面白いと思わなかったものは、歳をとってから観ても、たいがいの場合、基本的な評価が変わることはない、ということだった。

難しくてわからなかった作品が、歳をとって「知恵」がついたせいで「わかる」、ということはあるだろう。だが、それとて、「わかる」であって、「わかったから、面白かった」とまではいかないことが多いのではないだろうか。

結局のところ、少なくとも「フィクション映画」の場合にかんして言えば、わかろうがわかるまいが、面白いものは面白いと「感じる」のだろうし、その面白いと感じる部分とは、多くの場合、個人的な「趣味嗜好」の部分なのではないか。

だから、映画でも小説でもそうだが、「世評」を参考にするのは、もちろん悪いことではないのだけれど、それ以上に大切なのは、自分がどのようなものが「好き」なのかを知って、それを基準に「楽しめる作品」を選ぶ、ということではなかったか。

勉強のために観るような「ノンフィクション映画」などは別にして、純粋に「楽しい」と感じられる作品を観るためには、要は「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」ということになる。
いくら、「世評」が高く、じっさい「よくできた作品」であっても、趣味に合わなければ、たぶん「楽しい」とは思えないだろう。

だから「楽しみたい」のなら「自分が求めるところ」に、自分で気づくことである。

(まだ、どこか可愛らしさの残る、1作目のアリス)

そして、それができなければ、「みんなが面白いと言っているから、たぶん自分も面白い」というような、おかしなかたちで「流行現象」に流されてしまう恐れが、十二分にある。
自分が「何を求めているのか」に気づくというのは、意外に難問なのだ。

ましてや、ネット社会の現在、情報が溢れすぎていて、多くの人は、それに押し流されるために、落ち着いて「自分の好み」というものを「自分に問う」という、余裕と時間を失っている。
だから、鑑賞した結果の言葉が、「面白かった・感動した」か「つまらなかった・くだらなかった」といった、貧しい二択でしかなくなってしまう。

自分が何を求めているのかわからないままに、無難に周囲に流されていったり、あるいは、周囲と同調できない自分自身を理解できないために不安になったりという人生は、映画鑑賞ということだけをとらえても、やはり、どこか間違っていて、虚しいものなのではないだろうか。

「いろいろ観たけれど、結局は、誰がなんと言おうとも、私はこれが好きなんだ」と言える作品を見つけられることが、最も幸福なことなのではないか。一一そんなことを考えさせられた、今回の『バイオハザード』鑑賞であった。

そんなわけで、一抹の未練も残すことなく、別れの言葉を告げたいと思う。

一一「さらば『バイオハザード』」と。


(2023年5月8日)

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