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ノーム・チョムスキー 『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』 : 巨人チョムスキーへの 〈誤解の構造〉

書評:ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』(岩波書店)

本書は、

・ 上智大学における、チョムスキーの2回にわたる講義・質疑応答の記録(ソフィア・レクチャーズ)
・ 翻訳者との対話(「チョムスキー氏との対話」)
・ 翻訳者によるチョムスキー紹介(「ノーム・チョムスキーの思想について」)

をまとめたものである。

そして「ソフィア・レクチャーズ」の第1回は「言語学」に関する議論、第2回は「社会運動」に関するものだ。

本書の場合、最初に、チョムスキーが牽引しつづける言語学についての専門的議論が展開されていて、私のような門外漢は、このまま読み続けても大丈夫なのかという不安にかられたが、結論から言えば、大丈夫である。
本書は、チョムスキーの思想と仕事を総合的に扱って、とてもよく出来た入門書となっていた。

さて、その素晴らしい内容を、素人がいい加減に紹介しても、碌なことにはならないので、ここでは少し視点を変えて、チョムスキーという存在について、側面から紹介したい。
その側面的視点とは、本書でも何度か指摘される、チョムスキーに対する「誤解」の問題であり、「なぜチョムスキーはこれほど誤解されるのか」という問題点だ。これなら、「言語学」についての専門的知識は必要ないので、私にも実例に即して語ることが出来るはずだ。

 ○ ○ ○

チョムスキーという人は、極めて「リアリスト」だと言えよう。
この点について、本書の翻訳者である福井直樹は「ノーム・チョムスキーの思想について」で、次のように語っている。

『 政治社会問題を論じる時のチョムスキーは徹頭徹尾「実証的」である。あらゆるドグマを排する彼は、空疎なイデオロギー的言辞は一切弄さないし、疑似科学的粉飾をほどこして自説をもっともらしく見せることも全く行なわない。真の科学的研究においてはある程度の技術的概念や道具立てが必要になるが、政治社会問題を考える上では基本的な理性の力のみが必要なのであって、難解な概念や疑似科学的道具立ては不必要であるにとどまらず、権威づけの機能を持つゆえにしばしば有害でさえある、というのがチョムスキーの基本的態度である。従って彼は大きな「理論」を語ったりはせず、ひたすら広範で緻密な調査に基づいて得られた莫大な量の「事実」を提示することによって、それらの事実からどのようなパターンが浮かび上がり、社会、経済、政治、歴史等、我々が生きているこの世の中に関して何を学ぶべきなのかをあくまで事実そのものに語らせようとする。』(P196)

これは、チョムスキーの言語学においても、まったく同じことだ。
チョムスキーは、「目新しい理論」「ユニークな理論」や、いきなり「体系的な理論」を立てて世間を驚かすという「鬼面人を威す」タイプとは正反対の、「堅実なリアリスト」である。

チョムスキーが、言語を考えるとき、旧来の構造主義言語学が考えたような「言語という道具が、だんだん作られていく」などという「原因」不問(「言語は、人間の中に自然発生し、発展した」式)の言語学ではなく、「人間に言語を産めたのであれば、人間の中に言語を産む構造がなくてはならない。そして、他の動物に言語がない以上、言語を産む構造は、ある時、進化論的に人間の中に発生したものでなくてはならない」と考える。これは極めて科学的な「原因結果」の発想であり、リアリズムである。
また、その意味では、人間の言語能力は、他の動物にはない特別な能力ではあれ「他のあらゆる能力と同様の、進化論的に生み出された能力にすぎない」という考え方なのだ。

ところが、人間を、他の動物とは本質的に違う、特別な「霊長類」(神のよって霊を吹き込まれた存在)だと考える伝統に(無自覚に)縛られた人たちは、「言語」というものを、人間が「超動物」であることの証拠(「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」ヨハネ福音書)だと考えたいものだから、進化論的な「言語」理解には、拒絶反応を起こしてしまう。
そして、自分たちの非科学性には気づかず、チョムスキーの「科学的な仮説」が、「仮説」であるが故に、「現に目の前にある言語を分析している」自分たちの方がリアリストである、などという自己錯誤に陥ってしまうのだ。
そしてこれが、本書でもチョムスキーが指摘する「方法論的二元論」の問題である。

チョムスキーは、リアリストであり、目の前の現実をそのまま認識できるので、「まだわかっていないこと」に関しては「まだわかってはいない」と言い、その上で、様々な研究成果を参照した上で「こうではないか」という、最もあり得そうな「仮説」を立て、それを提示し、その線にそって研究を進めるという、「リアリスト」として至極当たり前の研究態度を採っている。

ところが「言語」というものを神秘化したい人たちは、チョムスキーのそれのような「観察→考察→仮説→研究→観察→考察→仮説→研究」という過程にある「体系的に完成していない理論(仮説)」を、それゆえにこそ「フィクション」であると否定したがるのである。

では、そういう彼らが何をやっているのかと言えば、当然、チョムスキーとは正反対の、「観念的」で「イデオロギー」的な、現実に即さない「理論的体系化」、つまり「神学大系の構築」なのだ。
例えば、キリスト教では「なぜ世界は存在するのか」「なぜ人間は存在するのか」「なぜ悪は存在するのか」といったことについて、壮大な理論体系を構築している。それが「教義」であり「神学」と呼ばれるものだ。そしてそれらは、「現実」を見ないで、「お話(フィクション)」として理解するならば、それなりに辻褄が合っているのだけれど、そこから排除され無視されている「現実」も少なくないから、リアリストは、そうした「神学的世界観」を、「現実の合理的な説明」とは考えないのである。

しかし、「目の前にある言語」の分析だけに固執して、それを「この世界の中で」合理的に位置づけようという気のない人たちは、自分たちの「ご都合主義的に体系化された言語論」の自称「完璧さ」において、チョムスキーの「合理的仮説研究」を「フィクション」呼ばわりにしてしまう。

つまり、チョムスキーが「リアリスト」であり、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」を排除する人であるとすれば、そういうチョムスキーが気に入らない人というのは、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」に偏した、自身のかけた「色眼鏡」に気づかない人たちだと言えるのである。

 ○ ○ ○

さて、以上のように、チョムスキーのリアリズム的「仮説」への反発の根底にあるのは、人間的なあまりにも人間的な「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」であり、そうしたことには、そうとう「頭のいい」人でも、案外自覚が持てないものなのである。
実際、科学の最先端で活躍する科学者の中にも、少なからず「神の実在」を信じている人が存在するし、そうした「矛盾」を矛盾とも思わないで、支持する人たちも大勢いる。

そしてこれが「人間の現実」なのだから、チョムスキーのリアリズム言語論が反発されるのも、ある意味では当然。チョムスキーの言語論に反発する人たちには、チョムスキーの言語に対する考え方が「人間不在=人間の特権性への無視」というふうに感じられているのであろう。

つまり、チョムスキーのリアリズム的な仮説への反発は、きわめて「人間的なもの」に発しており、決して「科学的なもの」ではない。すべては(科学に対する)「人間の(感情的な)態度」の問題なのである。

したがって、チョムスキーへの反発の動機は、こうした「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」といったものだけではなく、さらにもっと卑俗な感情に発するものも少なくない。
例えばそれは、「世界的な知の巨人」というチョムスキーの栄光に対する「妬み」である。

チョムスキー関連著作へのAmazonレビューを読んでいると、ときどき、チョムスキーの言語学理論を真っ向から否定する「無名の素人」レビュアーを見かけることがある。
そんなとき私は「この人は何者なのだろう?」「そんなにハッキリとチョムスキーを否定できるほどの根拠や理論があるのなら、それを書いて出版すれば、たちまち世界的な著名学者になれるのに」と思うのだが、そういう人にかぎって、多少なりとも知名度がある人、ではないようだ。

「この人は、チョムスキーを批判する前に、自分を疑うことをしないのか?」と疑ってしまうのだが、どうやら、そういうタイプの人は、一度立ち止まって考える、ということはしないらしい。彼らは、チョムスキーを批判するのに懸命で、自己批評にまでは手が回らないようなのである。

そして、こういう人の特徴は、「根拠提示がなく、否定的断言の連続」で、かつ「衒学趣味的」なのである。
大チョムスキーを否定するためには、「声がでかく、語調強く」「他の権威の後ろ盾」がなければならない、ということなのだろうが、これは見事に、チョムスキーの「リアリズム」と「反権威主義」とは、真逆な特性だと言えるだろう。
その意味でも、感情的に、チョムスキーに反発するのは、きわめて自然なことなのである。

例えば、私もレビューを書いた、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)について、レビュアー「板風」氏は、星2つをつけた上で「「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」への反撃に書かれたか?」というタイトルのレビューを書いている。
その中で氏は、チョムスキーの言語論を、

『チョムスキーが(そして彼を信奉する酒井も)、言語の発生に関しある種の神秘主義に陥っている』

と批判している。そして、このレビューには、35人もが「役に立った」という評価を与えているのだ。
そこで、どんなにすごい内容なのかと読んでみた結果、私の評価は、次のようなものだった。

『『チョムスキーが、1回の突然変異で一挙に完成した言語が出現したと言っている以上』とのことですが、そもそもチョムスキーは、そんなことは言ってないんじゃじゃないですか?
チョムスキーが言ってるのは、5、6万年ほど前だかに、言語を作るための基本装置が、突然変異として脳の中に生まれたのだろう、ということであり、当然、その段階では、言語自体は生まれていない。
つまり、創作能力が生まれて、初めて創作は可能になるのですから、言語というものの創作は、その資本(※ 基本)装置を発展させつつ、同時に、原始的な言語表現から時間をかけて徐々に、言語らしい言語へと漸進的に言語を作っていく歴史的作業であって、当然のことながら、言語が、今の私たちが考えるような言語らしい言語の形をとるのは、ずーっと後の話だ、ということになるでしょう。』

『これはたぶん貴兄が、突然変異、と言うか、進化論を、理解されてないからではないかと思われます。

たしかに「いきなり完璧な言語なんか出来るわけがない。徐々に出来たんだよ」って話は、俗耳に入りやすい。
しかし、進化というのは、ある時までは持っていなかった属性を、ある時から持つようになる、ということであり、ここでの場合は、それが言語機能です。
他の動物は無論、それまでの人類が持たなかった、言語を生み出す潜在能力を、ある時、人類は勝ち得た。
こうした本質的変化は、徐々に起こるものではありません。つまり、獲得されていくものではなく、ある日突然、生まれるものなのです。

しかし、こう書くと、進化論を理解していない人は「そんなに都合よく、突然、高度な能力が生まれるわけない」と思いがちですが、突然変異による進化とは、そういうものではありません。
突然変異というのは、生物が生まれた時から、日々無数に発生しているのです。
で、その突然変異とは、良いものだけではなく悪いものもある。まったく無意味なものも多い。そもそも、突然変異に良し悪しは無い。だって、自然現象ですからね。

そんなわけで、いろんな突然変異が生まれ、それがマイナスに働いて消えていく個体もあれば、プラスもマイナスも無いから、ほとんどそのままみたいな突然変異もある。また、一見、プラスに見える突然変異も、そのままうまく発展していくとは限らない。と言うか、大半は途中でポシャっちゃうのですが、膨大な数の突然変異に、膨大な数の突然変異が重ねられていく中で、奇跡的にものすごく価値のある器官を発展させてしまうことがある。例えば、手足だとか目とかですね。

それと同じように、突然変異を重ねていく中で、ある時たまたま、言語を生み出す構造のようなものが生まれた。
これがチョムスキーの言う、突然変異によって生まれた、普遍文法の原型みたいなものです。
つまり、それは、一度の突然変異で、完成形として奇跡的に生まれた、などという話では全然なく、進化論的にごく当たり前の、合理的な話でしかないのです。
しかし、このあたりのことを理解していないと、一度の突然変異で、いきなり言語が出来上がった、みたいな思い違いをするのではないでしょうか。

したがって、チョムスキーが神秘主義かぶれだなんて評価も、的外れだと思います。
むしろ、チョムスキーがそんな博打みたいなことを主張したと信じる方が、よほど神秘主義的でしょう。

ちなみに、私は、自身のレビューの中で、聖書の言葉を踏まえて「初めに文法があった」なんて書きましたが、もちろん私はクリスチャンではなく、その反対の無神論者であり、だからこそ聖書をからかったわけです。
しかし、こういうからかいも、キリスト教のことを知らなければ出来ません。知っているから、適切に批判できる。
これは、チョムスキーの理論に対しても同じで、チョムスキーが進化論的立場で語っていることを、進化論を理解していない人が批判することは出来ない。
知らないまま批判したら、的外れなものになってしまうのではないでしょうか。』

これは、「板風」氏のレビューの「コメント欄」に書き込んだものである。(※ 「Amazonカスタマーレビュー」はコメント機能を廃止され、コメントログは失われています。)
氏からのレスがあるかどうか定かではないが、興味のある方は是非チェック願いたい。

また、別の例としては、チョムスキーの『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』(岩波文庫)には、レビュアー「木村弘一(こういち)」氏が、星1つをつけたうえで、「「脳機能=精神」と言う進化論言語学は全滅。構文論=意味論なのでゲーデルdm も没。」というタイトルのレビューで投じており、

『進化論言語学の片方である、記号計算主義の生成文法は、パタン・プラクティス的変形の形式化やプログラム言語用の構文解析という功績は認められる。が、普遍文法論としては、まるで成っていない。』

と評価し、なにやら難しげなことを書いておられる。(※ このレビューは、削除されたのか、現在は存在しません)
そしてさらに、

『構文上の適格性(構造安定性)=意味上の適格性(構造安定性)という事実が、上記の批判から明らかになるので、構文論(証明論)は意味論(モデル理論)とは別物だということを「証明」したつもりの、「ゲーデル不完全性定理」の論拠とされた、「対角化補題」というdm(対角線論法)と、その系である、「カオス(混沌宇宙)理論」=「破壊者サタン(悪魔) = 世界支配者」という「理論」も潰(つぶ)された。』

という、私には理解不能な難しいことを書いて、レビューを締めくくっておられるので、どういう方かと、氏のホームページをチェックしてみると、氏は『デカルト・ニュートン派の 自然科学的 神学、とりわけ、数理 神学、を研究中。』の「作曲家」で、難しげな洋書のレビューも書いておられたので、思わず「おお、これは!」と感心させられてしまった。

ともあれ、チョムスキーのような人は、こういう「一攫千金を夢見る人」たちの標的になりやすいようで、「有名人は、大変だなあ…」と、あらためて思い知らされた次第である。

初出:2019年9月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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