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酒井邦嘉 『チョムスキーと言語脳科学』 : はじめに〈文法〉があった

書評:酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)

チョムスキーの主張する「生成文法」としての「普遍文法」というものがわかりにくいのは、それまでの言語学が行なってきた「言葉(言語)から文法へ」という探求方式が「言葉があってこその文法」というふうに考える「錯誤」を招き寄せているからだ。
しかし、著者の言うとおり、文法は言葉に規定されるのではない、文法が言葉(の生成)を規定したのである。

これを「宗教」に喩えると、わかりやすいかも知れない。
こんな感じだ。

信仰者は「神が存在するから、信仰がある」と主張する。
しかし、科学的には「神仏といった超越的なものを信じるタイプの方が、生き残りやすかったために、その種の精神的な依存傾向(脳内物質放出システム)を脳に発達させたタイプが生き残っただけである。これは、人間が「美を好む」のは、美そのものに客観的価値があるからではなく、美を求めるタイプは、進化論的に、生存競争に有利だったからである(汚いもの歪なものは危険である)というのと同じことだ」といった具合だ。

あるいは、ぐっと下世話に「性欲」に喩えてみたらどうだろう。
「セクシーな異性の裸体があるから、性欲が生まれる(セクシーなものを遠ざければ、性欲は生まれない)」のではなく、「人間には性欲器官があらかじめ内在しており、それが与えられた環境や条件の中において、性欲対象を見つけ出す」というのが、真相だ。だから「カトリックの司祭のような禁欲生活は、必ずしも性欲を生まないどころか、強化したりもする」といった具合である。

つまり「言葉によって、意味(情報)を効率的に伝えるために、文法が生成されたのではなく、結果として言語を生成する本能(普遍文法)を発達させた個体が生き延びたからこそ、その文法に従って(個別的環境条件下で)個別言語が生成させたのである」ということだ。

だが「神などいないけれども、人間はそういったものを信じるように出来ているだけだ」という言い方は、信仰者には通用しない。
彼らは、自分が多分に「本能の操り人形」であるとは思いたくないので「いや違う。神がいるからこそ、我々は神を崇めるのだ」と言って譲らない。

これは言語学においても同じで、具体的な言語から文法を見出そうとしてきた人たちは、『初めに、ことばがあった 。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』(創世記)と思っている人たちと同様に、その前に「文法」があった、とは考えたくないのだ。
「はじめに〈文法〉があった」では、彼らの「信仰」が否定されたも同然だと考えてしまうからである。

したがって、いまだに「進化論」を否定したい人たちが頑張っているこの世界では、あるいは、科学者という肩書きを持ちながら「神の実在を信じる人」までいるこの世界では、チョムスキーの「生成文法」が理解されにくいのも、仕方ないことなのかも知れない。

人は「意味」に価値を見出すが故に、是が非でも意味があって欲しいのだ。「たまたまそうなった」だけとは、思いたくないのである。
だが、宇宙の生成に、地球の生成に、人間の生成に、あらかじめ「意味」が与えられていたわけではないのと同様に、言葉を生み出す文法は、たまたま生まれて発達したのだ。
人間の生み出す「意味」とは、そのたまたま生み出された特殊な機能のゆえに、人間にだけに価値のある「意味」を生成するのである。

初出:2019年4月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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