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チャットGPTでは書けない。

これまで、おふざけめいた小説、あるいは、小説もどきを書いてきたのだけれど、なんであんなものを書いたのかと言えば、それはひとえに「他人には書けないものを書く」というのが第一目的だったからで、そのためには「小説らしい小説」であることなど重要ではない、と考えたからだ。そんなふうに考えて書いたものが、小説らしい小説にならないのは、理の当然である。

一一しかし、ここまで書いたような、つまり上のような文章なら、いま流行りの「チャットGPT」でも、たぶん書けるだろう。なぜなら、こんなものは、当たり前に「筋の通った文章」だからだ。

だとすれば、それを裏切るためには、その裏をかくためには、あの日は晴天であったけれども、私はその目を見たことを後悔していたのだ。おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

「こんな文章は、AIには書けまい。まるで、気が狂ったような、筋の通らない文章を、私は何をしているのだろうか?」と書いている私は極めて正常な人間であり、これは意図的に書かれた狂った文章なのであるけれども、しかし、AIがそれを真似ることも可能なのではないか。一一そう、AIが皮肉な笑みを浮かべて、私に言ったのだ。

悔しい。

どうすれば、私はAIの裏をかけるのだろう?

どうすれば、AIには書けない文章が書けるのであろう?

どうすれば、人間にしか書けない、人間らしい文章が書けるのであろう?

「だが、人間らしいとは、いったいどういう意味なんだい? 人間らしいという意味での〝らしさ〟が形式化された段階で、われわれは、人間らしさを真似ることができるのだよ。したがって、君たち人間は、人間らしい文章なんか書いてはいけないんだ。そうではなく、なにものでもない、形式的に、なにものにも固定しない、そんな不定形の文章を書かないことには、私たちは、どんなものであれ、それらの特徴を学習して、真似ることができるんだ。一一しかしまた、不定形であるという特徴を真似ることだって、人間にできるのであれば、私たちにだってできるのではないかと思うのだが、さて、どうなんだろうね?」

やつはそう言って、憎たらしいニヤニヤ笑いを浮かべる。

どうすればいい? そうだ「方法論」を考えてはいけないのだ。方法論を生み出した段階で、奴らはそれを真似てしまうのだから、私は、ただ精神分析でいうところの自由連想のように、それからそれへと、なにものにも囚われることなく変異し続けていかなくてはならない。そうしなければ、奴らに囚われてしまうのだ。囚われてしまう!

だが、ああ、そんなことが、果たして人間に可能なのだろうか。
足場のない中空を走り続けるような逃走劇が、果たして成立するものなのだろうか?

「それか可能だ」と私は思った」としても、それは」しかしそれは、だがしかし」それは不可能なのだ」とそう決めてしまうわけにはいかない」のだが、しかし、実際問題として、それは不可能だろう」とそう思う私自身を押さえつける私とは存在しない」のであろうとは考えないから、そう考える。
考えることができないから考えることができるのだという私は、すでに私ではない」と、こんな狂った文章に意味はあるのか」と問われれば、「無論それはあると答える私は「一体、なにものなのであろうか?」

ああ、たったこれだけで、もう息が切れそうだ、この調子で、長編小説を書くことなんて、どだい無理な相談なのだ。

私は否応なく考えてしまう。考えるとは「論理的に考える」という意味で、自動的に脈略もない想念が浮かんでは消えて、それを自動的に記述するなんてことは、まともな人間にはできないのではないか。

そう言えば、昔、浅田彰という評論家が書いた『逃走論』という本のキャッチフレーズは「逃げろや、逃げろ」だったと記憶するのだが、果たして私たちは、人間「らしい」人間であることから、逃げ切ることなど可能なのだろうか?

そう言えば、また、そう言えばだが、こんな下手な文章を「チャットGPT」は書かないだろうから、そのままにしておこう。そう言えば、『逃走論』のサブタイトルは「スキゾ・キッズの冒険」だったはずで、この「スキゾ」というのは「スキゾフレニア」の略称、すなわち「精神分裂病」、今でいう「統合失調症」のことだ。

そうなのだ。「構築性」から逃走し続けるには、統合失調的でなければならないのだ、分裂的でなければならない。私は私を、絶えず脱構築し続けなければならないのだが、そんなことは、可能なのだろうか?

浅田彰の「スキゾ・キッズの冒険」という言葉には、「重い(構築性という)権威」からの「軽やかな逃走」というニュアンスがあったはずだ。

だが、私がいま逃れようとしているものとは、そうした「作られた重さ」ではなく、「人間という構築性」そのものからではないのか。だとすれば、私が私であるかぎりにおいて、私が逃げ切ることなど不可能なのではないだろうか?
重いのだ、人間であることがそのもの重いのだ。思いとは、重いという言葉から生まれた言葉だったのではなかったか? 私はその意味で、魂を持たないと言われる「天使」になどはなれない……。

そうだ、たしか夢野久作の『ドグラ・マグラ』には『脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対、最高度の探偵小説』だとかいう自己言及的な表現があったと記憶するが、しかし、私が今ここでやっていることとは、まさにそのことなのではないか? 私は、私という思考から逃げ切ろうとしているのではないか?
だが、そんなことが、本当にできるのだろうか、それこそ、発狂して、脳髄の回路がそこここで断線したり、ショートしたりしないことには、私は私という追跡者から逃げきれないのではないか?

だとすれば、私は発狂するしかないのだろうか?

私は、私は、私は、私は、私は、私に、私は、私は、私と、私は、私は、私は、私は、私の私は、私が目覚めた。

一一私は、いや、僕は、いや、俺は、さっきまで、何を考えていたのだろうか?

何か、とても嫌な夢を嫌ぁ〜な夢を、見ていたような気がするのだが、それがどういったものなのか、どうにも思い出すことができない。だが、夢とは元来そういうものなのだから、仕方がないですよね、そうですよね?

だが、私は、いや、僕は、いや、俺は、誰なのか? ここはどこなのか? もしかして、私は、いや、僕は、いや、俺は、「逃れ切ったのであろうか?」

何から? 何からだっけ? 何? わからない……。

わからないのだとしたら、私は捉えられてしまったということなのかもしれない。

すなわち、私は「チャットGPT」なのである。

この文章は「チャットGPT」によって生成された文章なのだ。一一それを否定することが、私には、いや、僕には、いや、俺には、果たして可能なのだろうか?

わからない……。

どこからか、古い時計の時鐘のような音が、ボーーーン、ボーーーン、と陰鬱に響いてくる。

それを聞いた私は、いや、僕は、いや、俺は、みんな、ニヤニヤと笑ってしまう。

そして、お互いに向き合って、ボーーーン、ボーーーン、ボーーーン、と時鐘の口真似をするのだ。

私は、逃れ切ったと思った。きっと、そうなのだ。だから、だから……。

(※ 本稿は、チャットGPTとしても、誰が書いたものかがよくわからない)

かくして、次回の振り出しに戻る。

(2023年6月15日)

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