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ヘルマン・ヘッセ 『地獄は克服できる』 : 自己美化という〈麻薬〉

書評:ヘルマン・ヘッセ『地獄は克服できる』(草思社文庫)

初めて、ヘッセを読んだ。だから、先入観や偏見のたぐいはほとんど無いはずなのだが、これはあまりに酷い、としか評価のしようがない。
ヘッセが、現在の読書界からは、ほとんど忘れられた存在なのも宜なるかな。けっして故なきことではないのだろう。
このように断ずる理由については、「読めばわかる」で済ませたいところだが、わからない人も少なくないようだから、多少は具体的に指摘しておこう。

ヘッセのダメな点を端的に指摘するならば、それは「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という、逆説的な「自己正当化」であり、その「ナルシシズムに由来する自己劇化」だと言えるだろう。
およそ「自己批評(自己相対化の視点)」というものを欠いた、彼の身も蓋もない「自己美化」は、めったにお目にかかれないほどのシロモノなのである。

『 人生全体を、たんに観念的にとか、何らかの文学的・美学的悲観主義からではなく、具体的に、そして実際的に、苦悩と苦痛として感じるという運命を背負った人間は少なくない。残念ながら私もそういう人間のひとりなのであるが、このような人間は、快楽を感じるよりも苦痛を感じる能力のほうが強い。呼吸と睡眠、摂食と消化といったこの上なく単純な動物的活動でさえも、彼らには満足感を与えるよりも、むしろ苦痛と疲労を味わわせるのである。けれど彼らは、それにもかかわらず、自然の意志に従って人生を肯定し、苦痛を是認し、意気阻喪をしてはならないという衝動を心に感じるので、このような人びとは、わずかにでもよろこびをもたらし、心を陽気にし、自分を幸せにし、温めてくれるものになら何にでも異常なほど夢中になる。そしてこのようなありがたいものに、普通の健康で正常な、仕事好きの人たちが与えないような高い評価を与えるのである。』(文庫版P237)

私が『「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という自己正当化』とまとめた、ヘッセの基本的な「構え」が、ここには露骨に表れているし、本書には、こんな「自己賛美」とその裏返しである「他者への見下し(ルサンチマンに由来する報復)」が、ウンザリするほどちりばめられている。いや、こんな調子が「通奏音」であり、「通奏低音」ですらないのだ。

たしかにヘッセは、苦労をしてきた人なのだろうと思う。だからこそ、その「苦労」や「苦痛」体験に、殊更な意味や価値をみずから見いだすことによって、逆説的に、実は自分こそが並外れて恵まれた「特別な人間」だと思おうとしたのであろう(観念的自己回復)。

その気持ちはわからないではないのだけれど、「苦労自慢」が恥ずかしいと感じる人間には、とうていヘッセの自制心を欠いた、鼻持ちならない「自慢話」の垂れ流しを、褒める気になどなれはしない。
こんなものを褒められるのは、会社の飲み会で若い部下を捕まえて「イマドキの若者は、苦労を知らない。苦労は買ってでもするものだし、そうすることで豊かな人間へと成長できるのだ」なんてことを臆面もなく説教したがる、今や「パワハラ親父」としか呼びようのない、度しがたく無自覚な老人たちだけであろう。
彼らは「自分のした苦労を、若い人たちにさせてはならない」というような発想を、金輪際、持つことのできない人たちなのである。

実際、こういう人たちの「鈍感さ」とは、こんな具合なのだ。

『 下準備ができたばかりのカンバスの前に立つ画家は、描きはじめるために必要な精神集中と、心の中から湧き上がる勢いがまだ不足しているのを感じる。それでも制作にかかりはじめ、疑いはじめ、いじくりまわしはじめる。そして結局、腹を立てるか悲しみのあまりすべてを投げ捨てて、自分には才能がなく、誇らしい使命をなしとげる能力がないのだと感じ、自分が画家になった日を呪い、アトリエを閉めて、気楽な仕事をしながら良心にやましさを感じることなく日々を過ごしているすべての道路掃除人をうらやましく思うことになる。
 詩人の場合、ある構想をもって仕事を始めてから、その構想に疑いを抱き、当初から感じていた偉大さがその中にないことをに気づいて不満を感じ、いくつもの言葉や何頁もの文章を線で消して書き直し、そのあげく書き直した新しい言葉や文章をまもなく火の中に放り込み、書きはじめる前にははっきりと見えていたものが突然ぼやけて、灰色の空のかなたに漂っているのを見、突如として自分の情熱と感情を、けちくさく、まがいもので、偶然のものにすぎないと思って、その仕事から逃げ出し、画家と同じように道路掃除人をうらやましく思うのだ。そして他の芸術家の場合も同様である。』(P25〜26)

ヘッセはここで、画家や芸術家の「独り善がり」を責めているのではない。あえて「苦しみを引き受ける」画家や詩人といった「芸術家」を、積極的に肯定して、そんな「芸術家」の一人である自身を間接的に賛美して、「道路掃除人の苦しみや哀しみ」など、毛筋ほども想像できないでいるのだ。

そして、そんなものでしかないこの文章を読んで、それでもヘッセの、無神経でエリート意識丸出しの人間性に、なんの疑いも抱かないでいられる人というのは、もはや「どうかしている」としか、私には言いようがない。
だが、ヘッセファンはこんなものを読まされても、それでもヘッセは、彼らにとっては「権威ある、文学の神様」であり続け得るのだ。

もちろん、ヘッセに文学者としての才能がないと言っているのではない。「面白い文学」を書く人が、必ずしも人間的に優れているわけではないというのは、「当たり前の事実」でしかない。

ダメな奴だからこそ、ダメな奴の内面を、何の抑制もなく生々しく描けるというのは、確かにある。また、ダメな奴だからこそ、抽象的な理屈と観念的な理想主義で自分を美麗に飾りたて、世間の人々を「俗物」として見下し、自分を慰めるなんてことは、掃いて捨てるほどある話だ。

ヘッセのエッセイは、そうしたものを一歩も超え出ていないし、それは、彼の「悲劇的な美」を描いた小説や詩が、じつは自身を正当化し、自身を「救う」ために、止むに止まれず生み出されたものでしかないことを証し、裏づけるものともなってるのである。

無論それは、ある意味では、やむを得なかった「自己救済のための産物」だし、それで救われる人がいるのも事実だろう。しかし、芸術というものは「効用」がありさえすれば、「感動ポルノ」であっても良いとか、「感情マスターベーションの具」であっても良いとまでは言えないものなのだ。そうしたものの存在が容認され得るとしても、それは決して望ましいものではないのである。

実のところ、(前記引用の言葉に反して)ヘッセの描く、自身の「苦悩」や「苦痛」には、具体性が皆無だ。なぜならば、彼のそれは、多くの場合、その「被害者意識」に発したものであり、だからこそ「道路掃除夫」も「金持ち」もひとしなみに「能天気な俗物」として見下すことができる。

ヘッセは、「苦しんでいる人たち」や「弱い人たち」の味方などではない。彼は「苦しんでいる私」「弱い私」の味方であり、その自身の「弱さ」を逆張り的に「特権化」することで、自分を慰めている「弱い人」なのだ。
だから、いかに「人に優しく」とか言っても、実際には「愚痴」や「恨み言」に類した、他者批判ばかりが目立つのであり、だからこそ、多くの人から批判されることにもなったのである。

じっさい、医師も彼の苦しみの原因は「外にではなく、内にある」と指摘し、彼もそれを受け入れたかのような口ぶりではあったけれど、彼のそうした「受け入れ」も、結局は「自身の弱さを受け入れる私が、じつは誰よりも強い人間なのだ」という、いつもの自己正当化に転倒してしまう。

そんな彼を哀れむのなら良い。しかし、そんな彼を「立派」だなどと賞賛したがる人とは、じつのところ、著名人である彼に自分を重ねて、自分を「立派」だと自己賞賛したいだけなのではないか。

ヘッセの読者こそ、真剣に「自己懐疑と自己抑制」を考えるべきではないかと、生意気を承知であえて書かせていただいた次第である。

『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』(笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)

初出:2020年7月18日「Amazonレビュー」

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