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不十分な世界の私 ―哲学断章―

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『私』と『世界』をめぐる探究。(全36回)
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不十分な世界の私―哲学断章―〔1〕

 私は世界を知ることができない。
 あるいは。
 世界は私が知るところの全体である。
 これは一体、どちらが本当のことなのだろうか?
 人によれば、『私』や『世界』などというものは実在しないのだ、とまで言う。であれば、私たちが日頃「それ」と思っている『これ』を、私たちは一体何だと考えたらいいのだろうか?私たちはなぜ、それを『私』と言い、『世界』と言うのだろうか?私たちは一体、何を見て、何を知ってい

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不十分な世界の私―哲学断章―〔2〕

 たとえばもし、『世界』を一般的に考えられているように、「経験的な人間社会の、最大限に拡大された状態に対する認識と解釈する」ならば、あるいはまた、もし「世界史」を、「最大限に拡大された人間社会=世界における経験的な出来事の総体を、系列化=物語化したものとして解釈する」ならば、それが『解釈』である限りは、「それとは別の世界」が、あるいはまた「それとは別の世界史」が、それに対して想定されうることを否定

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不十分な世界の私―哲学断章―〔3〕

 歴史を見るとき、または語るとき、人は自分自身がその歴史の中に生きる者として見たり語ったりしてはいない。人はきまって、自分自身を「歴史から切り離して」それを見たり語ったりしている。たとえば「自分自身の歴史」というものを考えるような場合でも、人はそれを「自分自身から切り離して」考える。つまり「自分自身の歴史という、客観的な事象」を、自分自身から切り離したところに想定し、それを離れたところから見て、そ

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不十分な世界の私―哲学断章―〔4〕

 歴史なるものについて、一般にこういうことが考えられてしまうことはないだろうか?
 たとえば日本史の中では、大化の改新も関ヶ原の戦いも明治維新も、「日本史という一つの場所」において、あたかも「同一の地平に同時に存在するものであるかのように見えてしまう」のではないだろうか?「日本人」は、自分たちの歴史において起こったとされるそれらの出来事を、「日本史の一つの年表の上で、同時に見ている」のではないのだ

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不十分な世界の私―哲学断章―〔5〕

 現に生きている人間は一般に、自分に意識が保たれていることにおいて、現に生きている自分自身としての自己が保たれている、と感じている。そしてまた他の者に対しても、その者の意識が保たれているか否かにおいてその者の自己が保たれているか否かを、あるいはその者が現に生きているか否かを判断しているものと考えられる。
 ということは、現に生きている人間にとっては「意識がすなわち自己である」ということになるのだろ

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不十分な世界の私―哲学断章―〔6〕

 人は、それぞれの対象に対する意識において、それぞれの対象を意識することになる。逆に言えばそれぞれの対象は、それぞれの人の意識にそれぞれに意識されることになる対象である、ということになる。
 意識は、それぞれの対象に対する意識として、一般的に現れる。「一般的に現れる」という意味において意識はやはり、それ自体としての内容を持たないと考えられる。そして、それ自体としての内容を持たないからこそ、それは一

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不十分な世界の私―哲学断章―〔7〕

 人が現実において行為するとき、しばしば「何も意識せずに行為する」ことがある。けれども、まさに人はそれを意識していないがゆえに、その行為はまたしばしば、その事前において「予測」していたこととは全く違った結果になってしまうことがある。むしろ、大体の場合で事前に思っていた通りにいったためしがない、という人も多いだろう。そんなとき、人は実は自分が「意識しないでいたつもりが、本当はどこかで意識していた」の

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不十分な世界の私―哲学断章―〔8〕

 ある出来事を経験することで、自分自身がガラッと変わってしまったように思う。他の者たちからも、そして自分自身でも、まるで自分は別人のようになってしまったと感じられる。
 ところで、ここで「ガラッと変わってしまう自分」とは一体何だろうか?また、「別人になってしまった」のは一体誰なのだろうか?そのような自分自身に起こる変化を見出すのは他でもない、自分自身という他者を見出す自分自身の意識なのだ。

 あ

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不十分な世界の私―哲学断章―〔9〕

 ガラッと変わってしまった私、まるで別人のようになってしまった私。それは私自身が見ようとしていた、あるいは見たかった私ではなかったのかもしれない。もしそのような、私にとって思いもよらない、私の思うようにではない私自身の変化が、私の「外」からもたらされた、何らかの出来事によるものだとしたら、私は私自身のことよりも、そのような出来事の方を恨みに思うのかもしれない。
 しかし、たかだか何がしか一つの出来

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不十分な世界の私―哲学断章―〔10〕

 客観的に自分自身を捉えることができるというのは、他人のように自分を捉えることによってだ、と考えることができる。
 他人の目として自分自身を捉える。それは他人もまた、そのように自分自身を他人として捉えうることを、私も他人も同様に容認していることを前提にしているからこそ、私もまたそのように、「他人と同じように」自分自身を捉え直すことができる、ということである。そして、他人もそのように自分自身を捉え直

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不十分な世界の私―哲学断章―〔11〕

 意識は何らかの対象を意識し、その対象が何であるかを認識する。
 一般に、現実から認識を切り取ろうとする意識は、その現実を構成する本質的な部分と、そうではない非本質的な部分とに切り分けて認識しようとしているのだとも考えることができる。そのように現実を認識すると、その現実にとってはそういった本質的な部分のみが意味のあるものとして実在していて、そうではない非本質的な部分は現実にとって全く不要なもので、

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不十分な世界の私―哲学断章―〔12〕

 ひとたび意識が認識を持つに至ると、その認識を離れて、あらためて対象を意識し直すことが難しくなる。それは、『自己』を対象にした場合でも変わるところはないだろう。
 たとえば、ある程度の年月を生きていると、私という存在は私自身の経験した出来事が積み重なったものとして成り立っているように私自身には思えてくるし、私以外の者たちも、私のことをそのように見なしているように思える。自己をそのように、経験を積み

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不十分な世界の私―哲学断章―〔13〕

 私自身ではない「他人」を対象にした感情、たとえば私が、ある特定の相手に対して共感や同情の意識を抱くとする。それは、私自身を相手の立場に置いて考える想像力と同時に、相手を私の立場に置いて考える想像力によって捉えられる意識であると考えられる。そこでは、「私と相手が同じ立場にあると想像することができる」という前提において、そのような意識を私自身が持つことが、可能となっているように私自身には思われるとこ

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不十分な世界の私―哲学断章―〔14〕

 仮に苦悩が『概念』であるような場合、同情者はもはや自らは何ら苦悩することがなくとも、その同情を向けるべき対象を見つけ出すことができるのではないだろうか?いや、その対象を自ら「作り出す」ことさえできるのではないだろうか?なぜなら対象とすべき苦悩は「そこにすでにある」のだから。誰もが知りうるようなもの、つまり一般的なもの、すなわち「概念的なもの」として。
 そのように、同情者が苦悩者を「概念的な存在

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