ササキ・シゲロー

哲学/文学/政治/歴史/労働/脱学校/社会問題など。1969年生まれ、千葉県在住。 Twitter https://twitter.com/sigeros1969

ササキ・シゲロー

哲学/文学/政治/歴史/労働/脱学校/社会問題など。1969年生まれ、千葉県在住。 Twitter https://twitter.com/sigeros1969

    マガジン

    • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)

      個々に具体的な実際の労働と、抽象化・一般化された概念としての労働力。この二つが倒錯的に混同されていることで、本来重層的な人間の「自然・本性」が、現実的な必要の名の下で一元化され人質に取られ続けている。この不条理に対抗するために、『労働力は何よりもまず商品として見出される』という観点から、「賃金は労働の対価」というトリックと「働かざる者食うべからず」という呪いをかけられた、働くことでしか自らの生存を維持できない人間たちが直面する諸問題について考えていく。(全28回)※この作品は、『脱学校的人間』旧版から労働や経済などに関する部分を抜き出し、改稿・再編集したものです。

    • 脱学校的人間(新編集版)

      学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ、その欠乏は学校化への欲望をより強く引き起こす。そしてこの病は、その人間が死に至るまで終わらない。世界中に蔓延する学校化の構造的諸問題を、教育のみならず歴史・国家・経済・労働などの観点から問う。(全86回)※2017年3月より公開していた旧版を改稿・再編集。

    • 小説『空席のある教室』

      私たちのクラスには、最初から一つの空席があった----いじめ、不登校、無気力、学級崩壊。さまざまな問題が黒くうずまく教室の中で自分を保つためには、『何もない人間』でいなければならない。葛藤に揺れ動いた中学二年の一年間と、その三十年後の物語。(全9回)

    • 不十分な世界の私 ―哲学断章―

      『私』と『世界』をめぐる探究。(全36回)

    • シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。--ヴェイユ素描--

      第二次大戦期フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909−1943)、その行動と思想をたどる。(全16回)

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    労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈28〉(終)

     労働者の賃金アップや労働時間短縮などを強く求める声がある。また、労働力を商品として扱うのではなく、もっと労働というものの「本来の意味」や「本来の価値」を見出すべきだという意見も聞かれる。いかにもごもっともな話である。しかしそのような功利的な観点から労働を見ている限り、人間の「自然で重層的」な諸活動をただ「労働のみ」に縛りつけている現実の状況は何ら変わりえないだろう。  ここでたとえばシモーヌ・ヴェイユが言うような、労働に「芸術」を見出そうというような視点を加えたとしても、や

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      • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈27〉

         「マジメに働く者が報われる、当たり前の社会を!」などと、世の政治家たちは「当たり前のように」異口同音のスローガンをぶちあげる。彼らの言う通りいずれは本当に報われることとなるにせよ、案の定結局は報われないままで終わるにせよ、何であれ彼らの頭の中では「誰もが働いていることが当たり前」という前提が疑われることは全くないようである。それがまたこの現代社会において「生活・生存維持のための最低条件」であるということも。無論これは言うまでもないことだが、「われわれ現代人」誰しもの頭の中に

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        • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈26〉

           労働することの他に何もできることがない労働人間の、その労働に対する飢えとは、転じて彼らへの支配を容易にする。彼らには何でもよいから仕事を与えてさえおけばいいのだ、どのみち彼らは「誰でもよい労働力」なのだから。そして結局彼ら労働人間の方でも、仕事を与えてくれる者に従うだろう。働くことさえできれば何でもいいし、それを与えてくれるなら誰でもいいのだから。  哀しいかな、いつの世でも飢える者たちは、食わせてくれる者についていくものなのである。日頃いがみ合う犬と猿だって、あるいはそれ

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          • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈25〉

             十九世紀半ば、ヨーロッパ中に吹き荒れた嵐のような革命の季節において、ジョゼフ・プルードンは労働者たちの「切実な叫び」を聞く。 「…一八四八年、プロレタリアートは、突如としてブルジョワジーと国王とのあいだの争いに参加するようになって、貧困の叫びをあげた。何がこの貧困の原因であったのか?プロレタリアートは、仕事の不足だと答えた。こうして人民は仕事を要求した。だが、彼らの抗議はそれ以上には及ばなかった。…」(※1) 「…仕事、そして、仕事によってパンを、というのが、一八四八年にお

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          • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)

            • 28本

            個々に具体的な実際の労働と、抽象化・一般化された概念としての労働力。この二つが倒錯的に混同されていることで、本来重層的な人間の「自然・本性」が、現実的な必要の名の下で一元化され人質に取られ続けている。この不条理に対抗するために、『労働力は何よりもまず商品として見出される』という観点から、「賃金は労働の対価」というトリックと「働かざる者食うべからず」という呪いをかけられた、働くことでしか自らの生存を維持できない人間たちが直面する諸問題について考えていく。(全28回)※この作品は、『脱学校的人間』旧版から労働や経済などに関する部分を抜き出し、改稿・再編集したものです。

          • 脱学校的人間(新編集版)

            • 87本

            学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ、その欠乏は学校化への欲望をより強く引き起こす。そしてこの病は、その人間が死に至るまで終わらない。世界中に蔓延する学校化の構造的諸問題を、教育のみならず歴史・国家・経済・労働などの観点から問う。(全86回)※2017年3月より公開していた旧版を改稿・再編集。

          • 小説『空席のある教室』

            • 9本

            私たちのクラスには、最初から一つの空席があった----いじめ、不登校、無気力、学級崩壊。さまざまな問題が黒くうずまく教室の中で自分を保つためには、『何もない人間』でいなければならない。葛藤に揺れ動いた中学二年の一年間と、その三十年後の物語。(全9回)

          • 不十分な世界の私 ―哲学断章―

            • 36本

            『私』と『世界』をめぐる探究。(全36回)

          • シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。--ヴェイユ素描--

            • 16本

            第二次大戦期フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909−1943)、その行動と思想をたどる。(全16回)

          • イデオロギーは悪なのか

            • 20本

            イデオロギーは幻想か虚偽か、「悪」なのか。アルチュセールの考察を土台にしてイデオロギーをめぐる諸問題を検証する。(全20回)

          • 病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−

            • 56本

            コロナ禍のさなか、アルベール・カミュの長編小説『ペスト』は世界各地で広く人々に読まれた。第二次世界大戦とレジスタンスのメタファー、不条理・反抗・連帯。さまざまなキーワードがこの作品には付されている。しかし、はたしてそれは的を射た見方なのか。そもそもそのような作者の主題設定は正当だったのか。それが「病=自然」に対する視点や姿勢を混同させてはいないだろうか。『異邦人』などカミュの他作品も参照しながら、病と戦のはざまで紡がれた物語の深層を探る。(全56回)

          • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)

            • 28本

            個々に具体的な実際の労働と、抽象化・一般化された概念としての労働力。この二つが倒錯的に混同されていることで、本来重層的な人間の「自然・本性」が、現実的な必要の名の下で一元化され人質に取られ続けている。この不条理に対抗するために、『労働力は何よりもまず商品として見出される』という観点から、「賃金は労働の対価」というトリックと「働かざる者食うべからず」という呪いをかけられた、働くことでしか自らの生存を維持できない人間たちが直面する諸問題について考えていく。(全28回)※この作品は、『脱学校的人間』旧版から労働や経済などに関する部分を抜き出し、改稿・再編集したものです。

          • 脱学校的人間(新編集版)

            • 87本

            学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ、その欠乏は学校化への欲望をより強く引き起こす。そしてこの病は、その人間が死に至るまで終わらない。世界中に蔓延する学校化の構造的諸問題を、教育のみならず歴史・国家・経済・労働などの観点から問う。(全86回)※2017年3月より公開していた旧版を改稿・再編集。

          • 小説『空席のある教室』

            • 9本

            私たちのクラスには、最初から一つの空席があった----いじめ、不登校、無気力、学級崩壊。さまざまな問題が黒くうずまく教室の中で自分を保つためには、『何もない人間』でいなければならない。葛藤に揺れ動いた中学二年の一年間と、その三十年後の物語。(全9回)

          • 不十分な世界の私 ―哲学断章―

            • 36本

            『私』と『世界』をめぐる探究。(全36回)

          • シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。--ヴェイユ素描--

            • 16本

            第二次大戦期フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909−1943)、その行動と思想をたどる。(全16回)

          • イデオロギーは悪なのか

            • 20本

            イデオロギーは幻想か虚偽か、「悪」なのか。アルチュセールの考察を土台にしてイデオロギーをめぐる諸問題を検証する。(全20回)

          • 病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−

            • 56本

            コロナ禍のさなか、アルベール・カミュの長編小説『ペスト』は世界各地で広く人々に読まれた。第二次世界大戦とレジスタンスのメタファー、不条理・反抗・連帯。さまざまなキーワードがこの作品には付されている。しかし、はたしてそれは的を射た見方なのか。そもそもそのような作者の主題設定は正当だったのか。それが「病=自然」に対する視点や姿勢を混同させてはいないだろうか。『異邦人』などカミュの他作品も参照しながら、病と戦のはざまで紡がれた物語の深層を探る。(全56回)

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            • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈24〉

               フロムは「労働の他にすることがない人間たち」の、その実際するべきことの何もない「自由な時間」について、次のように考察している。 「…われわれは、平均労働時間を、一世紀前の約半分までにへらした。今日、われわれは、祖先たちが、夢にも見なかったほどの自由な時間をもっている。だが、それでどうなったのか。われわれは、新たに獲得した自由な時間の使用法を知らない。せっかく節約した時間をむだにつぶそうとし、一日が終われば、ほっとする。…」(※1)  そのような「自由な時間」は、彼らにとって

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              • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈23〉

                 労働力=労働者の内在的な理由にもとづいた、労働者同士相互の差別化により、彼ら労働者はそれぞれ内在的な能力の有無や優劣に応じて、それぞれバラバラに分断されていき、それぞれ内在的な能力の有無や優劣にもとづいて、それぞれにいたるところで互いに対立するようになる。しかしそのような分断や対立は、けっして今にはじまったことではない。労働市場においては、常にそのような分断や対立による「競争」が市場取引の活力になるのだとして、むしろ積極的に奨励され、かつそれを真に受けて、自らを売りたい個々

                • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈22〉

                   ある特定の生産環境において使用できないような生産力=労働力を買うというのは、その欠けた分の生産力をあらためて導入しなければならないことで、当の生産力=労働力を買い使用する立場にある資本としては、結果的に「高くつく」ことになる。だから生産力として買われる労働力に対して求められているのは、「いかなる生産環境においても使用することができる、一般的な生産力であること」なのであり、そのような労働力こそが「労働市場においては先ず買いだとされる」わけである。  しかしそのように買い手であ

                  • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈21〉

                     「買いたくない労働力商品」を買わない理由として、買い手である資本は、当の労働力が有する「能力」について持ち出してくることもある。しかし、労働市場で実際に買われているのは、あくまでも能力ではなく労働力である。  もちろん、市場で買われたその労働力に含まれている「ある種の能力」は、その労働力を買い取った使用者が生産手段としているその生産過程で、何らかの形で使用されることもあるだろう。だがその能力を全く使用しない生産過程において、当の労働力を生産手段として使用したとしても、それは

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                    • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈20〉

                       国内資本の生産部門が「より安価な労働力を求めて海外に出ていく」のと同時に、一方では「安価な外国人労働力の、国内労働力市場への流入」もまた、さらに増してくるということも十分考えられる事態となる。  外国人労働力は、それが参入してくる国内の労働市場ですでに出回っている「国内の労働力商品」に比べればたしかに割安である。だが当の外国人労働者からすれば、彼らが自国において自らの労働力を売る場合よりも断然に「高値で売れる」労働力市場、つまり「経済先進国の労働力市場」に参入して、その安さ

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                      • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈19〉

                         「高すぎる商品」というものは、当然そうはたやすく買われはしないものだ。もしもすぐその隣に「それよりも安い商品」が並べられたら、それはなおさらのことである。市場に出回る商品とは、常に「他の商品とのかねあい」でその販売価格が決定されているものである。そして基本的には「より安い商品の方が好まれる」というのも、購買者の心理としては当然のことなのだ。  商品を生産し売る資本の立場としては、「安い価格で売られている他の商品」に対抗するということにも絶えず気を配っていなくてはならない。自

                        • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈18〉

                           経済の成長発展にもとづいて、産業資本の生産流通活動が次第に国際化・グローバル化していくことに伴い、その国の国内企業の「生産部門が国外へと広がっていくことで、資本の循環が領土的な枠組みのなかには完結しえなくなって」(※1)いってしまう側面もまた、しだいに明らかに見出されてくるようになる。言い換えれば、資本の活動が国際化・グローバル化するのに伴って、各個別資本の生産活動に使用される「労働力」の導入もまた、国際化・グローバル化せざるをえなくなってくる。  「より安い労働力を導入す

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                          • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈17〉

                             一般によく見られる場面として、家庭内での家事について「これは不払い労働ではないのか?」などと非難されることがある。しかし、ここであえてはっきり言えば、それが「家庭内でのみ」成立している限りは、家事という「仕事」に対して賃金が支払われないというのも、必ずしも不当であったり不自然であったりすることではないだろう。  再三言ってきた通り、あくまでも賃金が支払われる「仕事」は、基本的にその対象が「他人」であることが条件となる。ゆえにたとえばハウスキーパーの仕事などは、それが「他人に

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                            • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈16〉

                               「景気が悪くなると人々がモノを買わなくなって経済が回らなくなる、困ったことだ」と、モノを生産し売る立場にある者たちは口々に嘆く。デフレなどでの不況時には、このような話が巷でさんざんかわされてきたことだろう。しかし当の彼らも「消費者の立場」になれば、やはり同様にモノを買わなくなっているわけだ。  人々がモノを消費すれば、その分どんどんカネが市場に送り込まれ、それによって世の中=経済が回る。仕組みとしては非常にわかりやすい話ではあるが、と同時にこの仕組みにどこかしら「あやうさ」

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                              • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈15〉

                                 ある商品の使用価値を、別の商品の使用価値で置き代えることができるということは、ある意味では「その使用者を、特定の商品の使用価値から解放する」ということでもある。「ある特定の商品が消費されてしまうこと」によって、つまり「その特定の商品が使用者の前から消えてしまうこと」によって、その使用者がもはや二度とその使用価値を実現することができなくなるのだとすれば、彼は「それを使用することによって実現されるはずの使用価値を、もはや維持していくことができなくなる」ということになってしまう。

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                                • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈14〉

                                   商品を実際に買い使用する者にとっては、「それぞれの商品の使用価値は一定である」と言える。  たとえば「テレビ番組を録画したいと思う人」にとって、「VHSのビデオデッキ」も「ハードディスクレコーダー」も、「テレビ番組を録画するという、一定の使用価値として使用することができる商品」である。その一定の使用価値を、それぞれの商品が入れ替わり立ち替わり、その使用価値の使用者に実際に使用されることで、その使用価値は「使用価値として実現され維持されている」ということになる。  さらに商品

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                                  • 労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈13〉

                                     労働者の労働力は、そもそも「商品」として見出されているものであり、それが売られ買われ使用されている。ではここからは少し、その「商品」というもの自体が、一体どういうものなのかという観点から考えていこう。  商品の使用価値は、その商品が買われて実際に使用されることにおいて実現され、そしてまたその使用価値は、実際の使用において消費されることになる。使用価値が消費されるということは、それが使用されている間に消耗し、やがては使用価値として使用できなくなるということである。ゆえに彼は

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