可能なるコモンウェルス〈78〉

 あるべき状態でも、理想的な形態でもない、「現にある日常を生きていく中で実際そうしていたら結果そうなったもの」であるような、そんな「現実的経験の産物」として生じてきて、そして現にそのようにして実在している、「この政治体」。けっして意図したわけでもないのに、しかしなぜか事あるごとに必ず人は、「その形式をもって」ある一定の形態を有した政治体を、各々の手によって作り出すことになる。
 そのような政治体こそまさしく、一般には「評議会」と呼ばれているものであるのに他ならない、とアレントは考えるのであった。
「…(…評議会は…)必ず革命そのもののなかで出現しており、活動と秩序の自発的機関として人民から発生したものである。…」(※1)
「…(…評議会が…)いつも自然発生的反乱から生まれたということは、ほとんど注目されていないけれども、ヨーロッパ革命の発展の上では決定的事実である。…」(※2)
 もちろん、その出現の機会が大体において、「革命や反乱などの特異な状況下」であるという、一定の限定は少なからずあるのだろう。だとしてもその一方では、その出現すること自体が「いつも自然発生的かつ自発的に、人民自身から生み出されているという、その決定的事実」は、たとえ革命や反乱といったような、一定に限定された特異な状況下にあったものだとしても、その特異性を意味合いとして含みながらのその出現として、人間の現実的な経験の、その「循環的運動」の中で、「出現すること自体の、あまりの自然さゆえに、ほとんど注目されない」ことにもなっているのかもしれない。逆にそこでもし「出現しなかった」としたら、かえって「不安な気持ち」と共に注目を浴びることになるのではないだろうか、もちろんそのとき一体「どこに注目したらよいのかわからない」のだとしても。
 ともあれ、そのように評議会と呼ばれる政治体が、「いつどこででも、必ず自発的かつ自然発生的に出現する」というのは、それが「敢えて作られるべきもの」なのではなく、むしろ「すでに現になされていることとして見出されるべきもの」だからなのだ、ということは言えるだろう。
 自然とは、それが「日常の中で実際に生きられている」からこその自然であり、そうであるからこそこの自然さは、「普遍的なもの」として出現するのでもある。人はそのような自然さを、何かの理論や伝統の結果であるかのように取り立てて意識するようなこともなく、むしろ全く日常の中で常に現にしていることの延長において、まさにそれを「この現実の中から生み出している」わけなのである。一般的な事象として、「いつどこででも、必ず自発的かつ自然発生的に出現する」ものが上記のようであるとするならば、評議会と呼ばれる政治体もまたそのように、「一般的な事象として」それにあたるものだと言いうるわけなのである。

 評議会と呼ばれる政治体が「自然発生的=普遍的に出現するものである」とするならば、それはまさに人々の日常の中においても、実際にさまざまな「評議=対話が、普遍的かつ相互的になされている」ことを、同時に明らかにするものだと言えるだろう。すなわちそれは、人と人同士の「関係・交通・交渉の運動として、常に現になされていること」だということである。
 言い換えると、人が日常的にしている行為とは、ある意味「いちいち政治的なものとして成立している」のだと言える。だからこれは繰り返しの話にはなるのだが、その意味では「最初から、評議会という特定の形態を意識し、なおかつそれを目指して、何らかの政治体を構想する」というのは、これまで人間が繰り返してきた「倒錯の形式」として、むしろあまりにも典型的な病なのだということは、ここであらためて明確に言っておきたい。
 一方で、その出現の機会が「革命・反乱あるいは何らかの事変的非常事態下」という、それなりに一定の限定があることの、その「限界」について、われわれはそれを克服していかなければならないというのもまた、たしかな話なのではないだろうか。
 すでに言った通り、政治とはまさしく「日常」なのである。とすれば、たとえ「まるで何事もないかのような平時の状況下」においてであっても、それを「それまで全くなかったような新しい出来事」として生み出すことのできる「自発性」を持ちうるのかどうか、むしろ試されてあるのは、われわれ自身のその「政治的日常」の方なのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」志水速雄訳
※2 アレント「人間の条件(※原注)」志水速雄訳

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