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#共感覚アート
ディスレクシアと共感覚による弊害の小説の読みづらさの克服実践
私は、小説が読めない。
これは以前に 共感覚で「できないこと」 にも記述したが、その通りでどんな有名な小説家の、どんな有名な作品でも、名前は聞いたことはあれど内容を一切知らなかった。
これも何度か書いたが、私はそれを非常に勿体ないと感じていた。世界中に溢れている多くの誰かが生み出した世界に触れることができないなんて、絶対に損している。
だけど、どうしても共感覚の反応が激しく読めないでいた。高
低刺激な毎日に何を想う
いろいろあれど、穏やかで不変な日常が今のところ続く。
刺激が足りないのか、私の文章は破裂しないようで、またしばらく更新が怠っていた。
3記事に渡って書いた嫌がらせの犯罪者の件は、警察にまかせることになりこれ以上は書くことを控える。度が過ぎた真似をしたことを、後悔するといい。
不変でも毎日なにかしらの動きが合って、不安があって、安定があって、愛があって、そんな日々を送るが、文章が途絶えるのには何
【共感覚アートを紐解く】「緊張」の色は決して綺麗とは言い難い
また1週間も間が空いてしまった。書けない、書けるを繰り返すこの変則的な私の記事を、読んでくれる人に感謝を伝えたい。
昨日は人生で初めての出来事がありとても緊張した。共感覚アーティスト山口葵としての活動が、そんな方向に広がると想像できなかったので未知の世界だった。結果はどうあれ、私の中ではとても貴重な体験だった。
その時の緊張をぜひ絵にしてほしい、と言われたので描いてみた。
これが昨日の私の感
全体ビュー数11万回超えの感謝とnoteポップアップの出た記事紹介
noteを書き続けて24ヶ月です、というバッヂをいただいた。まるっと2年間。毎日は書けない日があったけど、とにかく書く。書くことをやめずにここまでやってきた。
文章は私の中で呼吸、そして、心だ。
書かないと私が私ではなくなってしまう、そんな理由もある。
現在ビュー数は夕方の時点での集計では117,523回。スキがあと少しで1万回になる。
色々な気持ちで見ている人がいると思うが、素直に嬉しいこ
共感覚アートライブペイントーintersection15にて
先日のライブペイントは、とても良い経験になった。
最初はグループ展の展示のみにしようとしていたが、ライブペイントができるということで、挑戦してみようか悩んだ。
ライブペイントはイベント開催中1日に1人。やっぱりやめておこうか。。そう悩んでオーナーに相談したところ、経験をぜひしてみてくださいとのことで思い切って描いてみることにした。
共感覚アートは、描き終わるまで何がそこに描かれるのかは私でも
今日の芸術【黒のキャンバス】
今日の芸術 あいみょん
あいみょんの楽曲の中ではあまり知られていないかもしれないこの曲は、私にとっての創造性を引き出す中でとても刺激を与えられる歌になっている。
なんだって芸術になる。なんだって芸術にしてしまえ。
他人のいうこと、批判など気にせず突き進め、掘り起こせ、自分の芸術を。
そんな曲だ。
その中でも、特に好きな歌詞がある。
最初から綺麗に揃えられている絵の具でさあ描きなさいと言
共感覚は「苦しい」も可視化する
7月が終わる。
去年の7月の終わり、私は何をしていただろうとふと振り返る。
1年前のnoteを少し読んでみたが、あまりにも辛そうな文章で途中で読むのをやめてしまった。
頑張って生きていた、地面にへばりつきながら。
死にたいと泣きながらも死んでたまるかと踏ん張って、ぼろぼろになった体をなんとか起き上がらせる、そんな毎日を送っていた。
水彩絵の具を選んだ時に一緒に買った、水彩紙のスケッチブック「
共感覚アートに込めるこころ
共感覚アートを描き始めてから約1年が経った。
最初はデジタルのみ、自分のためだけに描いていたものが今は誰かのために、リアルペイントで描くことがメインとなった。
有難いことにクラファン分も合わせると現在14人待ち、今月のうちに仕上げたいと思う。
水彩画は昔から好きだ。
祖父が油絵を描く人だったが、たまに描く水彩画の透明感は見とれるほど美しく、憧れだった。
私が美術の授業で「5」がつくのも、
共感覚者は才能児?ギフテットとしての教育の将来
自分の活動を文章に起こす手伝いをお願いしている中で「共感覚をギフテットと表現してもいいですか?」と言われた。
私の中で共感覚=ギフテットの認識はなく、驚いたが学術記事を検索するとそれなりに出てくる。
この定義を見ると、知能指数など完全に全ての共感覚者が当てはまるのか…少し疑問に感じるが色々と学術記事を調べてみると、このようなものを見つけた。
ここには、ギフテッドの発達障害と超活動性についての
「誰や思てんねん!山口葵やぞ!」
中日本大会本番当日、いや直前までこのセリフを一番近しい人に言われ続けた。この気持ちで行ったれ!と。これが山口葵やぞ!!!と。
私はSNSの総フォロワーはInstagram、Twitterなど入れると約8万人弱。ネットではそこそこ知られているのかもしれないが、それでもまだまだ誰もが知る著名人などではない。
中日本大会の会場を満員にしてもあふれだすほどのフォロワーがいるわけだが、じゃあ全部の席埋め
右向け右が美しいとされるこの国で、左を向けば個性なのか。
去年の今頃、とてもとても強くそう思ったことがある。自分の個性が邪魔で、個性があるから人に嫌われた。もっと普通の人だったなら、そうはならなかったかもしれない。恋もうまくいって、もっと普通に、普通に‥‥。
そう考えて書いた去年のnoteがあった。普通になろうなろうと意識すればするほどに自分の文章は爆発し暴れ出し、まるで鉄格子に入れられたパックンフラワーのようだ、と比喩されていた。
中学生の頃になん
あの日に蒔いた種たちは
週に3日、在宅ではないライターの仕事をすることが決まった。
先日神経科にて記憶力や集中力が低下していると言われたが、文字を書く時だけは絶対に集中力が落ちることがない、という自信があるのでとても楽しみな仕事がまたひとつ増えた。
最近は、少し体調を崩すこともあるがそれでもワクワクすることがなんだか多い気がする。
ワクワクや、去年ではとても片付かないだろうと思っていた問題に一区切りがついてきたり、
「当たり前」がわからない感覚をもとに、共感覚と多様性を考える
先日、聴覚に関する共感覚についてああでもないこうでもないと思考整理を行っていたが、
その中での私の仮説として、
というもので着地した。が、あくまでも仮説だとその時も付け加えている。
この話を先日、川﨑先生にしたところ耳が聴こえている情報と共感覚での聴覚の反応が違うのはそりゃーそうだというニュアンスの返答がきて、そのまま次の話に流れていった。
この仮説は仮説ではなく、当たり前に考え付くことだ