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右向け右が美しいとされるこの国で、左を向けば個性なのか。

「普通になりたい」

去年の今頃、とてもとても強くそう思ったことがある。自分の個性が邪魔で、個性があるから人に嫌われた。もっと普通の人だったなら、そうはならなかったかもしれない。恋もうまくいって、もっと普通に、普通に‥‥。

そう考えて書いた去年のnoteがあった。普通になろうなろうと意識すればするほどに自分の文章は爆発し暴れ出し、まるで鉄格子に入れられたパックンフラワーのようだ、と比喩されていた。

中学生の頃になんとなく、恐る恐る母に聴いたことがあった。

「私ってもしかして、ちょっと変わってない?」

「今気づいたの?」と母はとても驚いた顔をしたのを覚えている。なぜ今まで黙っていたのか、と私も逆に驚いた。まるで個性なんてないと思って過ごしていたのだから。

そもそも普通とはなんなのだろう。
個性的とは、独特とは?なんなのだ。


それを考えると哲学的なところに行きつき、考えれば考えるほどにきりがない。きっとこれといった答えもないものなんだろう。

右向け右が美しいとされるこの日本で、左を向くのが個性なのか。

個性は時に嫌われる、妬まれる。
そして時には羨ましがられる。

正反対の感情を、個性的だと言われる人間はぶつけられて生きていく。

私はおそらく#BeautyJapanというタグとやらで、文章が爆発しているので見られる機会も多いだろう。一度書く習慣が戻ると、本当に毎日毎日書いてしまう。これは高校の頃からの習慣だから仕方ない。

毎日更新ボタンを連打して楽しみに待っている読者がいる中、「うるさい」「きもちわるい」と言われることもたびたびあった。

心を言語化することが難しいと悩む人が多く、それを得意とする私は次から次へと文章を書いておこしていくのでやかましいのだろう。

心の言語化をすると、私の個性というものは爆発するようだ。

私の文章はただ、心を模写しているだけにすぎない。目で見た情景をそのままなぞるように文字にしていっているだけだ。

どうやらそれは特技になるようで、それを活かして「伝える」という活動を積極的に行うようになった。文章は、仕事にもなった。

個性的で独特で、それをうまく活かせられないならただのイカれた人間で終わる。活かすも殺すも自分次第といったところか。

ありのままでこのような自分なのだから、もうそれをうまく使って生きていくしかないのだろう。この世界に広がる彩りを、言葉で表現し絵で表し、そういうやりかたで認知を進める共感覚だって、私にしかできない方法なのかもしれない。

姿勢を整えてもらった帰り道、傘を忘れて想像以上に雨が降り出し、まつ毛の上に滴り落ちた雨のしずくがまるで涙のようで、なんだかとても美しく感じた。

そんな何気ない日常のワンシーンを、拾い集めて文字にしていく。

私にとってはそれが、普通だ。


山口葵


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