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本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 240~317 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次小 信長の台頭 240~317 

1信勝謀殺

240 永禄元年(1558)
   信長は、岩倉織田氏を攻めた。
   信賢は、信勝と通じていた。
   背後に、斎藤義龍の影がちらつく。
   信長は、岩倉勢を城から誘い出した。       『信長公記』
241 浮野合戦の事。                 『信長公記』
   信長は、清洲に帰陣した。            『信長公記』
   信長は、岩倉方に壊滅的な打撃を与えた。     『信長公記』242 信長の名声は、大いに高まった。
   岩倉織田氏は、再起不能に陥った。
   信長は、家臣らに新知を分け与えた。    「生駒家宝簡集」他243 信勝が再び謀叛を企てた。            『信長公記』
   信勝は、岩倉織田氏と繋がっていた。
   信勝は、斎藤義龍と通じていた。
   柴田勝家が信長へ報せた。            『信長公記』244 信長は、病を装った。              『信長公記』
   信長は、信勝を殺害した。            『信長公記』
   勝家は、やがて越前を手に入れる。        『信長公記』

2尾張統一 

245 永禄二年(1559)
   将軍義輝は、京にいた。             「言継卿記」
   三好長慶が上洛した。              「言継卿記」246 三好は、全盛期を迎えていた。
   三好義興は、長慶の後継者。
   長慶は、有力な弟たちに支えられていた。
247 信長、上洛す。                 「言継卿記」
   信長は、五百の兵を率いていた。         「言継卿記」
   将軍義輝に拝謁するためである。         『信長公記』248 斎藤義龍が信長を暗殺しようとした。       『信長公記』
249 義龍は、鉄炮を使うつもりだった。        『信長公記』 
   これが信長の知るところとなった。        『信長公記』250 信長は、先制攻撃を懸けた。           『信長公記』
   義龍の企ては、失敗した。            『信長公記』251 信長の評判である。               『信長公記』
   信長は、京を発った。              「言継卿記」
   信長は、八風越えにて清州に帰った。       『信長公記』252 岩倉落城の事。                 『信長公記』
   信長は、岩倉城を包囲した。
   戦いは、二ヶ月余りつづいた。          『信長公記』
   ここで、鉄炮隊が活躍した。           『信長公記』253 岩倉方は、戦意を失っていた。          『信長公記』
   信長は、岩倉城を攻略した。           『信長公記』
   尾張統一、成る。
   尾張は、豊かな国である。             「当代記」

3桶狭間 

254 永禄三年(1560)
   三好長慶が上洛した。              「言継卿記」
   将軍義輝との関係は、良好である。    「お湯殿の上の日記」255 正親町天皇の即位礼が執り行われた。       「言継卿記」
   長慶は、警固役を命じられた。          「言継卿記」
   朝廷は、衰微していた。
256 三好長慶が幕府に出仕した。           「言継卿記」
   長慶は、松永久秀を重用した。      「お湯殿の上の日記」
   久秀は、なかなかの策士である。
257 将軍義輝が参内した。          「お湯殿の上の日記」
   三好義興と松永久秀が、これに供奉した。     「言継卿記」
   長慶が摂津芥川山城へ帰った。          「言継卿記」258 三好長慶、得意の場面である。         「足利季世記」
   長慶は、将軍義輝を必要としていた。
   長慶は、家臣の統制が甘かった。
259 今川軍が尾張に進出した。            『信長公記』
   信長は、五ヶ所に付城を築いた。         『信長公記』
   眠れぬ夜がつづく。
260 今川義元が沓掛に到着した。           『信長公記』
   信長、動かず。                 『信長公記』261 今川方の攻撃が始まった。            『信長公記』
   信長、出陣。「敦盛」、人間五十年~。      『信長公記』
   信長は、熱田へ向かった。            『信長公記』
   信長は、善照寺砦に入った。           『信長公記』262 義元は、桶狭間で休息をとった。         『信長公記』
   徳川家康は、大高城へ兵粮を運び入れた。     『信長公記』263 信長は、今川方から丸見えだった。        『信長公記』
   今川義元は、油断した。             『信長公記』
264 信長は、中島砦に入った。            『信長公記』
   この時、信長の軍勢は僅か二千。         『信長公記』265 運は、天にあり。                『信長公記』
   信長は、敵の前衛線の位置をつかんだ。
266 信長は、強運だった。              『信長公記』
   その時、天気が急変した。            『信長公記』
   信長は、天を味方につけた。           『信長公記』
   信長は、義元の本陣へ近づいた。
267 やがて、雨が上がった。
   信長は、攻撃を命じた。             『信長公記』
   今川軍は、総崩れになった。           『信長公記』268 信長は、義元を追い詰めた。           『信長公記』
   義元は、近くにいる。              『信長公記』
   今川義元の最期。                『信長公記』
269 これについて、人々の風聞である。        『信長公記』
   掃討戦は、凄惨をきわめた。           『信長公記』
   義元の首。                   『信長公記』
   信長は、清洲に帰った。             『信長公記』270 これすなわち、因果応報。            『信長公記』
271 以後、今川氏は衰亡の道を辿る。         『信長公記』
   義元は、二の江の坊主と連携していた。      『信長公記』272 頸数三千余。                  『信長公記』
   信長は、義元の最期の様子を聞いた。       『信長公記』
   信長は、義元の首を駿河へ届けた。        『信長公記』
   信長は、義元塚を築いた。            『信長公記』273 名刀、左文字。                 『信長公記』
   今川勢は、全軍撤退した。            『信長公記』
   家康が岡崎城に入った。             『信長公記』

4光秀と長宗我部元親

274 土佐、長宗我部国親が亡くなった。         「元親記」
   元親、家督を継ぐ。                「元親記」275 元親の、土佐統一は、ここから始まった。
   そして、四国統一へと進展する。
   その過程で、光秀との絆が生れる。
   元親は、本能寺の変の重要人物の一人である。
276 この元親を、二人の弟が支えた。          「元親記」
   当時、土佐は、八つの勢力に分裂していた。     「長元記」

5武田信玄と天沢和尚

277 「噂」は、瞬く間に周辺諸国に広まった。
   信玄は、信長を強く意識していた。
   天沢長老物がたりの事。             『信長公記』278 信玄は、信長の「形儀」について尋ねた。     『信長公記』
   これが、信長の日常である。           『信長公記』279 信玄は、信長の「数寄」について尋ねた。     『信長公記』
   信長は、舞と小歌を好んだ。           『信長公記』
   これが、信長の生き様である。          『信長公記』280 信長は、世俗に通じていた。           『信長公記』
   これが、信長の死生観である。          『信長公記』
   一期は夢よ、ただ狂え。              「閑吟集」281 天沢は、信長の鷹狩について述べた。
   信長は、用意周到である。
   信長は、実に、用心深い。            『信長公記』
   信玄は、戦場をイメージした。
   信長は、勝機を逃がさない。           『信長公記』
   それ故、信長は、戦いに勝った。         『信長公記』
   信長は、戦巧者である。             『信長公記』282 この時、信玄、四十歳。
   信玄は、信長より十三歳年上。
   勝頼は、信長より十二歳年下。
   信玄は、感心した。               『信長公記』
   信玄は、信長のことをもっと知りたかった。    『信長公記』

6三好の絶頂

283 三好長慶と畠山氏が対立した。         「足利季世記」
   長慶は、四国勢を呼び寄せた。         「足利季世記」284 長慶は、河内へ出陣した。           「足利季世記」
   長慶は、畠山氏を攻めた。           「足利季世記」
   松永久秀が大和を攻めた。           「足利季世記」285 長慶は、河内と大和を同時に攻めた。      「足利季世記」
   三好勢は、各所で圧勝した。          「足利季世記」286 長慶は、高屋城を攻めた。           「足利季世記」
   長慶は、河内を乗っ取ろうとしていた。
   畠山氏は、連戦連敗。             「足利季世記」287 飯盛山城、開城。               「足利季世記」
   高屋城、開城。                「足利季世記」
   三好長慶は、飯盛山城に入った。        「足利季世記」
   三好実休は、高屋城に入った。         「足利季世記」288 松永久秀が大和を平定した。          「足利季世記」
   この頃、筒井氏は没落していた。
   長慶は、河内と大和を手に入れた。
   長慶、得意の絶頂である。

7斎藤義龍の死

289 永禄四年(1561)
   美濃の斎藤義龍が亡くなった(三十五歳)。
   義龍の子、龍興がその後を継いだ(十四歳)。
   信長は、西美濃へ攻め入った。          『信長公記』290 森部の合戦。                  『信長公記』
   織田軍の大勝利である。             『信長公記』291 十四条合戦の事。                『信長公記』
   信長は、墨俣砦を入った。            『信長公記』
   斎藤勢が十四条に押し出した。          『信長公記』
   織田勢は、墨俣から出撃した。          『信長公記』292 軽海の合戦。                  『信長公記』
   両軍、引き分け。                『信長公記』
   信長は、帰城した。               『信長公記』

8三好の衰退 ① ② ③ 

293 衰退の予兆。
   十河一存の死。                「足利季世記」294 永禄五年(1562)
   畠山氏は、勢力を盛り返した。
   長慶は、東西に敵を抱えていた。
   三好実休は、畠山氏へ向かった。        「足利季世記」
   久米田合戦の事。               「足利季世記」
   三好康長は、要注意人物。
   光秀にとって、後に、因縁の人物なる。
295 三好実休の本陣がガラ空き状態になった。    「足利季世記」
296 三好軍、大敗。
   実休が討死した。               「足利季世記」
   これ以後、三好氏は転落への道を歩む。
297 畠山方は、勢いづいた。
   畠山高政は、河内を取り戻そうとした。     「足利季世記」
   畠山氏は、飯盛山へ攻め上った。        「足利季世記」
   長慶、危うし。                「足利季世記」
298 長慶は、松永久秀を重用した。         「足利季世記」
   長慶は、飯盛山に立て籠もっていた。
   松永久秀が動いた。              「足利季世記」
   三好義興が後詰の軍勢を率いた。        「足利季世記」
   義興は、四国勢と合流した。          「足利季世記」
   三好方は、畠山勢を挟撃しようとした。     「足利季世記」299 教興寺の戦い。
   義興の軍勢が押し寄せた。           「足利季世記」
   畠山高政が軍勢を引いた。           「足利季世記」
   教興寺の付近が戦場になった。         「足利季世記」300 畠山方は、総崩れになった。          「足利季世記」
   長慶は、飯盛山から打って出た。        「足利季世記」
   三好方の大勝利である。            「足利季世記」
   三好康長が、高屋城に入った。         「足利季世記」
   六角承禎は、将軍地蔵山から軍勢を引いた。   「足利季世記」301 しかし、実休は帰らず。
   三好長治が実休の後を継いだ。          「森田文書」302 永禄六年(1563)
   細川藤孝は、将軍義輝に仕えていた。
   藤孝は、将軍の側近「御供衆」だった。      「言継卿記」
303 「永禄六年諸役人附」
   細川藤孝は、幕府の重役だった。
   光秀の名は、この中にない。
   したがって、光秀は、義輝に仕えていない。
   石谷頼辰は、光秀の重要人物。
   石谷光政は、長宗我部元親の舅にあたる。
304 永禄6年(1563)、春
   信長は、小牧山に築城を開始した。
   狙いは、犬山城。
   そして、美濃を東から攻める。
   信長は、於久地を攻めた。            『信長公記』305 信長は、清洲城から小牧山城に移った。      『信長公記』
306 信長は、戦わずして於久地城を手にいれた。    『信長公記』
307 三好義興が病死した。             「足利季世記」
   三好氏に不幸がつづく。
   長慶は、生きる希望を失った。
308 長慶は、義継を後継者に定めた。        「足利季世記」
   松永久秀と三好三人衆。
   この両者が三好宗家の実力者であった。
   やがて、権力闘争が始まる。          「足利季世記」
   三好氏は、衰亡へ向かって歩み始めた。

9光秀と長宗我部元親

309 長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。     「土佐物語」
310 元親には、理由があった。            「土佐物語」
   元親は、斎藤利三の義弟になった。        「土佐物語」
   斎藤利三は、後に、光秀の家臣となる。      「土佐物語」311 元親は、やがて、土佐を平定する。
   そして、さらに、四国統一を目指す。
   同じ頃、信長は、本願寺攻めに苦戦していた。
   となれば、阿波の三好は、共通の敵。
   信長にとっても、好都合。
   元親は、信長に誼を通じる。
   その橋渡しをするのが、光秀である。
   これ以後、光秀が元親の取次となる。
   元親、四国制覇へ向かって、破竹の進撃。
   光秀、丹波を平定。
   光秀、絶好調の時期。
   全て順調、うまく行くかに思えた。
   しかし、ここで、状況が一変する。
   本願寺、降伏。
   信長、方針を変更。
   四国停戦令、発令。
   元親の不満 → 反発。
   光秀の説得 → 暗礁。
   そして、天正十年1582へ。

   近江の六角氏に、観音寺騒動が起きた。

10三好長慶の死

312 永禄七年(1564)
   筒井順政、死去。               「多聞院日記」
   筒井順慶、自立す。
   三好長慶が安宅冬康を殺害した。        「足利季世記」
   これで、四人目。
313 信長と謙信の交流が始まった。      「杉原謙氏所蔵文書」
314 長慶、没す。                 「足利季世記」
315 斯くして、三好長慶の時代は終わった。
   そして、信長の時代へ。
   信長は、犬山城を攻略した。           『信長公記』
   信長は、謙信へ近況を伝えた。          「歴代古案」316 信長は、攻め口を変えた。
   西から東へ。
   信長は、東美濃に進出した。           『信長公記』317 フロイスが堺に到着した。
   フロイスが京に入った。              『日本史』 

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 信長の台頭 240~317
目次中 信長の台頭 240~317
目次小 信長の台頭 240~317

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく 


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