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本能寺の変 1582 信長の台頭 4 274 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 4 光秀と長宗我部元親 

土佐、長宗我部国親が亡くなった。

 同年(永禄三年)、六月。
 元親の父、国親。
 病のため死去。
 土佐統一の戦いは、すでに、始まっていた。    

  扨(さて)、元親卿父、覚世(かくせい)の代より、
  弓矢、取り起こされ(戦いが起きた)、
  先ず、東は、和食(わじき)*に限り(まで)、取り出で(攻めとり)、
  西、一宮*に限り、
  南、種﨑*、
  但し、御畳瀬(みませ)、渡り越し、本山領分、永(長)浜の城を取る、
  其の年、覚世、病死せしむ、

    *和食  高知県安芸郡芸西村和食
    *一宮   同 高知市一宮
    *長浜   同  〃 長浜
    *御畳瀬  同  〃 御畳瀬

元親、家督を継ぐ。

 元親、この時、二十二歳。
 家督とともに、父の遺志を引き継いだ。

 以下、国親の遺言である。

  覚世、元親卿へ遺言す、

  我、本山之家に対し、年来、遺恨の子細これあるにより、
  本山と弓矢取り起こすといえども、成就せず、
  而して、相果つること、無念至極なり、

  我以後、此の弓矢、全く無事あるべからず
  (戦いが終わることはないだろう)、
  我、軍神となり守るべし、

  と、宣(の)べ置かる、
  永禄三年六月十五日、遠行、
                           (「元親記」)

   【参照】斎藤道三の下剋上 2光秀と長宗我部元親 159~160


          ⇒ 次回へつづく


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