本能寺の変 1582 信長の台頭 3 271 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
以後、今川氏は衰亡の道を辿る。
今川氏は、大きな痛手を蒙った。
失ったものがあまりのも多すぎた。
嫡男氏真にとっては、荷が重すぎた。
やがて、没落する。
山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。
義元、別して、御目に懸けられ侯。
討死の由、承り侯て、馬を乗り帰し、討死。
寔(まこと)に、命は、義に依つて軽し、と云ふ事、此の節なり。
二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。
爰(ここ)にて、歴々、其の数、討死侯なり。
義元は、二の江の坊主と連携していた。
服部左京助(二の江の坊主)が、義元に呼応した。
同氏については、前述した。
【参照】 211、228
爰に、河内、二の江の坊主、うぐゐら(鯏浦*)の服部左京助、
義元へ手合せとして、
武者舟干艘計り、海上は、蛛(くも)の子をちらすが如く、
大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、
*鯏浦(うぐいうら) 愛知県弥富市鯏浦町
負け戦が耳に入ったのであろうか。
何もせず、引き返した。
別の働きなく、乗り帰し、
その途中、熱田に放火しようとする。
しかし、町人たちに逆襲され、失敗した。
もどりざまに、熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より、下り立つて、
町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、
町人ども、よせ付けて、ドウッと懸け出だし、数十人討ち取とり候間、
曲なく(仕方なく)、川内へ引き取り侯ひき。
(『信長公記』)
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