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本能寺の変 1582 信長の台頭 6 283 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 6 三好の絶頂 

三好長慶と畠山氏が対立した。

 畠山氏は、河内の守護。
 当主は、高政。
 高屋城を居城とす。

 二年前(永禄元年1558)のこと。
 高政は、安見宗房の専横を嫌い、紀伊へ出奔した。
 翌年。
 長慶は、宗房を飯盛山へ追い払い、高政を高屋城に迎え入れた。
 高政にとって、長慶は恩ある人である。

 この年(永禄三年1560)、五月。
 ところが、その高政が、宗房と、勝手に和睦してしまった。
 この事が、発端となった。 

  同月、河内国、畠山高政は、守護代安見美作守・遊佐等を免許ありて、
  高屋え入れらるゝ、
  是は、湯川直光、田舎武士にて、京家の作法、無骨にして、
  国侍上下、安見・遊佐をしたひ(慕い)ければ、
  高政、此の分ならば、国衆に背かれ、悪(あ)しからんと思ひ、
  湯川直光には、名字をゆるし、畠山宮内少輔の家を継がしめ、
  宮内少輔となされ、紀伊国え還えし遣はし、
  安見を呼び出し、河内の郡代に、補せらるゝ、

 長慶は、これに激怒した。

  三好長慶は、これを聞ひて、大いに忿(いか)り、
  畠山殿、此の条、我らに相談なく、
  不忠の安見・遊佐を還えさるゝ事、心得難し、
  其の儀ならば、高政をも、責め落とせとて、

長慶は、四国勢を呼び寄せた。

 同年、六月。
 
三好義賢の軍勢が、尼崎に到着。

  舎弟、実休に相議し、四国勢を催されければ、
  実休、即ち、打ち立ち、
  六月廿四日に、尼崎に着陣す、

  長慶も、松永(久秀)も、尼崎にて、軍(いくさ)評定して、
  同廿八日、芥川城え皈(帰)り、
                         (「足利季世記」)
  

          ⇒ 次回へつづく


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