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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 272 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

頸数三千余。

 同日(五月十九日)。
 信長は、帰城した。
 「大勝利」
 城下は、沸き立ったことだろう。
 
  上総介信長は、御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、
  御急ぎなさるゝ程に、
  日の内に(まだ日のあるうちに)、清洲へ御出でありて、

 同二十日。
 首実検。
 
  翌日、頸、御実検侯ひしなり。
  頸数、三千余あり。

信長は、義元の最期の様子を聞いた。

 信長は、義元の同朋を生け捕りにした。
 その者から、最期の様子を聞く。
 
  然るところ、
  義元のさゝれたる鞭(むち)・ゆがけ(革手袋)持ちたる同朋(どうぼう)、
  下方九郎左衛門と申す者、生捕りに仕り、進上侯。
 
  近比(頃)、名誉仕り候由、候て(珍しい手柄だということで)、
  御褒美、御機嫌斜ならず。

  義元、前後の始末申し上げ、
  頸ども、一々、誰々と、見知り申す名字を書き付けさせられ、
  彼の同朋には、のし付の大刀・わきざし下され、

信長は、義元の首を駿河へ届けた。

 信長は、死者に対して、きわめて丁重だった。
 そのことがよくわかる。
 
  其の上、十人の僧衆を御仕立て候て、
  義元の頸、同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。

信長は、義元塚を築いた。

  清洲より廿町(≒2km)南、須賀*口、熱田へ参り侯海道に、
  義元塚とて築かせられ、
  弔(とむらい)の為めにとて、千部経をよませ、
  大卒都婆(そとば)を立て置き侯ひし。

                          (『信長公記』)

   *須賀 名古屋市熱田区須賀町


          ⇒ 次回へつづく


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