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本能寺の変 1582 信長の台頭 2 249 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 2 尾張統一 

義龍は、鉄炮を使うつもりだった。

 鉄炮伝来は、天文十二年(1543)。
 その16年後(永禄二年1559)の姿である。
 諸国へ普及し始めていた。
 堺見物は、「先見の明」と言うべきである。 
 
  夜るは、伴の衆に紛れ、近々と引き付け、様子を聞くに、
 
  公方(将軍義輝)の御覚悟さへ参り侯て、
  其の宿の者に仰せ付けられ侯はゞ、
  鉄炮にて打ち侯はんには、何の子細有る間敷きと申し侯。
 
  (討手らは)急ぎ侯間、程なく、夜に入り京着侯て、二条たこ薬師
  (京都市中京区蛸薬師町)の辺に宿を取る。

これが信長の知るところとなった。

 兵蔵が信長の宿所へ駆け込んだ。
 
  夜中の事に侯の間、其の家の門柱左右にけづりかけを仕り侯て
  (目印をつけて)、

  それより、上総殿御宿を尋ね申し侯へば、
  室町通り上京うら辻(上京区裏築地町)に御座侯由申す。
  尋ねあたり、御門を扣(たた)き侯へば、御番を居置かれ侯。
 
  田舎より御使に罷り上り侯。
  火急の用事に侯。
  金盛(森)か蜂屋に御目にかゝり侯はんと申し侯。
  両人罷り出で、対面侯て、右の様子、一々懇(ねんごろ)に申し上げ侯。

 信長に、これを報せた。
 
  則ち、御披露のところに、丹羽兵蔵を召し寄せられ、
  宿を見置きたるかと御諚に、

  二条たこ薬師辺へ一所に入り申し侯、
  家宅門口に、けづり懸け在り侯て置き申し侯間、まがひ申すまじきと
  言上侯。
                           (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく

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